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2010年12月31日

日本人の起源~北方モンゴロイドはいつ来たのか?

みなさんこんばんは。今年もいよいよ最後の日になりました。 😀
今日はこの12月29日に行なわれたなんでや劇場での熱い議論を受けて、この縄文ブログでも日本人の起源論を少し扱ってみたいと思います。
まず私自身のこの議論に参加してきた問題意識とこの劇場で発見された率直な感想を述べさせていただきたいと思います。
まず、表題の北方モンゴロイドの話です。これは日本人の起源論を扱っていく際に必ず出てきた日本人の本質が南方由来か北方由来かという問いです。埴原和郎氏の提起した2重構造説(南方由来の縄文人に北方由来の弥生人が混血)に引っ張られた2元論的な話が起点となっています。しかし、この間るいネットを通じて追求し、さらに年末の劇場会議で話された中で南や北という大雑把な発想そのものが事実に即していない事が明らかになりました。
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結論から申し上げますと、日本人は3万年前から1400年前に至る各段階で大陸から様々な人種を受け入れており、ダイレクトに北方もあれば南方もあり、さらに北方や南方から移動して温帯地域の中国、朝鮮半島に適応してから移動してきた東南アジアの人種も存在します。
しかし日本人を作った遺伝子のその大きな流れというかトレンドが北方由来なのか、南方由来なのかという点においてはモンゴロイド自身がほぼ南方由来であり、例え北から入ってきていたとしてもその過半の時代を南方で過ごし形質が形成されてきた事から、南方か北方かを問う事事態がナンセンスであるという事に至りました。
従って表題の北方モンゴロイドはいつ日本に到着したのかという問い自体があまり意味を成さないという事になります。しかし従来の北方、南方起源を切り崩す意味でもこの問いを起点として現時点での見解を明らかにしておきます。

まず、日本に最初にヒト集団が来たのはいつでどの地域からなのか? 
日本に漂着したのはかなり旧いと思われ、現在考えられているのが、スンダランドにヒト集団が定住し始めた時期です。アフリカから拡散し、スンダに定住したのが5万年前、ほぼその時期に最初の日本列島への到着があると思われます。最古の人骨の発見は沖縄で発見された湊川人で2万年前のものではないかと言われていますが、ずっとそれ以前に海流に乗って日本列島に漂着していた可能性はかなり高いと思われます。しかし、その集団は人口拡大にはいたらず、その後の日本人の起源としては繋がっていません。 
現在の日本人に繋がる系統が最初に渡来したのが、3万年前から2万年前に地続きだった北海道上部から入ってきたバイカル湖由来の旧モンゴロイドです。しかしこのモンゴロイドはすでに北方適応していた可能性があり、その後1万年前までの数回の寒冷化で適応した北方モンゴロイドの最初の適応種とも言えます。この種はY遺伝子上ではC3に該当し、3万年前頃にベーリング陸橋を渡ってアメリカ大陸へ移動します。
C3系統が日本に到着したのは北方適応した種がマンモスやヘラジカを追って寒冷期に南下して定着したものと思われます。しかし、このC3系統がその後の日本の中心になったかというとその後の人口拡大の速度や、現在残っているY遺伝子のパーセントを見てもそれほどの勢力ではなかった可能性があります。 
日本人を形成する上である一定の規模を保ち、かつその後長く影響力を与えたのが、縄文時代を作ったとされるD系統のモンゴロイドです。
D系統のモンゴロイドはC3同様に北側から日本に入ってきたと考えられています。しかしこのD系統はC3のようにアフリカを出て北上し、バイカル湖に定着、北方拡散した種と異なり、出アフリカしてからインドを経由してスンダランドに到達した南方系統を基礎としています。このD系統のモンゴロイドが温暖期にパミール高原を経由して北上、モンゴル高原に定着し、その後寒冷期に東と西に別れて分化し、一方はチベット(D1,D3)へ、もう一方が日本(D2)へと移動していきます。日本に到達したのは大陸と海で切り離される1万3000年前といわれ、ちょうど縄文時代の始まりと時期が一致します。
ここでのポイントはモンゴル高原から入ってきたD系モンゴロイドはその大半を南方で過ごしており、当然その特徴は南方的特徴を有しており、先のC3系統の北方モンゴロイドとは異なるものであるという事です。
 この事は縄文人の起源がこれまで南方由来と長い間言われてきたことと符合します。ただし、文化的にはそれまで既に北海道や東北地方に定着していたC3系の北方モンゴロイドのノウハウを引き継いでいきます。縄文時代の土器や石器に北方的な特徴が多く見られるのはその影響があったのだと思われます。しかしD系統が南方系であるという何よりの証は言語形態にあり、日本(縄文)語が南方祖語を基礎としていることから説明できます。
D系統は現在でも日本人の中で最も割合が高くO系統が入り込んできた3000年前以降混血を繰り返しながらも現在の日本人の中に3割から4割残っています。
 最後に純粋な南方的影響についても見ていきます。南方的人種の渡来は上記に見てきたC3、D2と比べるとかなり新しく、温暖化によって海面から姿を消したスンダランド定住民が移動してきた時期と符合します。つまり、約10000年前に沖縄から南九州にたどり着いたのが南方モンゴロイドのC1系統の人種です。この系統はその後、北九州の大型火山噴火などで本州への進出がないままに細々と列島の中で生延びていきますが、D2系統のように日本列島全域に拡大することなく今日まで至っています。
以上、見てきたように日本は人種のるつぼといってもよいような多様な人種構成のまま今日まで至っており、その事が示しているのが遺伝子学的な視点からはやや外れるかもしれませんが、日本が今日まで民族間の争いもなく融和的に混血してきた表れではないかと思うのです。

最後に日本人の起源を簡単に図式化してまとめておきます。
 (  )内はY染色体の記号です。
4万年前?最初の日本人~スンダランドから漂着



3万年前~2万年の寒冷期
北方モンゴロイド(C3)が獲物を追って列島に渡来
(但し少数で、その後日本列島には拡大せず)


1万3千年前の寒冷期
モンゴル高原から南下した南方モンゴロイド(D2)が列島に渡来
⇒8千年前以降の温暖期に日本列島を北上
すでに先住していたC3と接触し、文化的影響を受け、縄文文化を形成
5500年前の三内丸山に代表されるなどの東日本縄文文化を形成する。
| 日本はこの後1万年間、D2系統が全国に広がっていく。

|―――1万年前頃~温暖化して海に沈んだスンダランドからの漂着民(C1)が沖縄、南九州に到着。縄文早期の南日本の文化を形成
⇒火山噴火の影響で本州までは到達せず、南方諸島や沖縄でその後独自の文化を形成する。


2300年前
大陸から戦乱を免れた江南人(O2b)が九州~本州の海岸線に漂着
縄文人と混血し、弥生人になる。


1400年前
朝鮮半島の戦乱から押し出された百済、任那の王族、高句麗の支配層(O3)が日本列島に避難。鉄器文化を携えて日本での最初の支配層として君臨する。
天皇家、蘇我氏、藤原氏などの豪族がそれに相当する。
参考図解(Y染色体の世界的分布)~なんで屋劇場の資料より
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以上、日本人の起源を見てきましたが、最初に述べたように日本とは南方モンゴロイド(D2)を基層としてその後に同じく南方から来た江南文化(02b)や漢民族を形成した(O3)で構成された複合的な文化と言えます。
今日展開した理論、仮説は昨年NHKなどで放映された日本人の起源とは大きく異なっており、そちらを信奉する方々からは大いなる反論もあろうかと思いますが、その根拠を示していただき、ぜひ整合する理論として完成させていきたいと思います。
また、上記の図解で最後に登場したO3については今回の記事では触れていませんが、日本の最初の支配層であり、縄文人とはかなり異質な文化と思われます。しかし、いずれの外来文化も日本の中ではまさに飲み込まれるように以前の縄文文化の中に融和していきます。次回以降の記事の中で、このO2b、O3の渡来人の正体を明らかにし、日本人のその後の歴史への影響を見ていきたいと思います。
それではそろそろ新年迎えます。今年1年縄文ブログを応援いただきありがとうございます。来年は会員の方々と共に追求して、さらなる事実発掘の一年にしていきたいと思います。引き続き御指導、御鞭撻のほどよろしくお願いいたします。 🙂   管理人 田野

投稿者 tano : 2010年12月31日 List  

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コメント

大変興味深い記事でした。
今、「助け合い」「絆」「つながり」等、「皆でがんばろう」的なCMが打たれています。
確かにそれは否定すべきものではなく、大切なことだと思うのですが、その一方で、なんというか・・・「なぜ、そんな当たり前のことを言わなければならないのか」という、えもいわれぬ違和感を感じていたりします。
困っている人を見たら助けたいと思うものです。そして、困っている人が何に窮していて、どうしたら助けられるのかを考えて、行動する。そのような状況になれば、あえて「助け合い」とか「絆」とか「つながり」などと言わなくてもいい。
極端なはなし、行動がなにより大切で、その行動の奥に互いの気持ちを察するのだと思います。
記事の内容は、ある意味で淡々としているものの適格な行政対応と読めますが、そこに集団動物としての絆や安心感が含まれていると感じました。

投稿者 hayabusa : 2011年4月26日 22:10

>確かにそれは否定すべきものではなく、大切なことだと思うのですが、その一方で、なんというか・・・「なぜ、そんな当たり前のことを言わなければならないのか」という、えもいわれぬ違和感を感じていたりします。
そうですね。
今回の震災でマスコミや公共広告機構が流している”当たり前の”言葉はもう耳障りになっています。
日本人の最大の特徴はそれらをあえて口にしなくても夫々がきちんと思っているというところにあります。何が大切で、何が問題なのか、日本人なら誰もが基本的にもっています。
あえて言わなくてもよい。確かにそういう文化が日本人の文化です。
逆に敢えて言わなくてはならない、今回の原発事故でそれが登場してきていることも事実です。政治の無策、官僚の横暴、いい加減にしろ!これ以上続けば敢えて言わなければならない。そう感じはじめている日本人は増えてきていると思います。そういう発信は例え日本人の価値観になくても作り出していかなければならない。最近特にそう感じています。

投稿者 tano : 2011年4月26日 23:56

>確かにそれは否定すべきものではなく、大切なことだと思うのですが、その一方で、なんというか・・・「なぜ、そんな当たり前のことを言わなければならないのか」という、えもいわれぬ違和感を感じていたりします。
>逆に敢えて言わなくてはならない、今回の原発事故でそれが登場してきていることも事実です。政治の無策、官僚の横暴、いい加減にしろ!これ以上続けば敢えて言わなければならない。
中略
そういう発信は例え日本人の価値観になくても作り出していかなければならない。最近特にそう感じています。
hayabusaさん、tanoさんの話しには、なるほど!と思います。
東日本大震災後の皆の言葉と行動から庶民の心底は村落共同体の頃と変わらないことが見えて来ました。逆に、政治家・官僚、経済界(=大企業)、マスコミ等の無策と言い訳、庶民の命を無視する発言・言動が目につきます。そしてマスコミの、これでもかという、当たり前の規範の繰り返し報道。
言い換えると、狂った「お上」のミスを、その片棒を担ぐマスコミが、耳障りの良い規範を流す事でミスを誤魔化している構造に見えます。
恐らく、明治以降に「お上」が狂った原因があるのでしょう。次回投稿で、災害の事実を通じて追求してゆきます。

投稿者 sakashun : 2011年4月28日 16:07

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