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2014年06月29日

日本における仏教が果たした足跡8~大衆に根をおろした江戸時代の仏教

こんにちはちわわです。

これまで、室町時代まで、仏教が大衆化してゆくさまを見てきました。

今回は現在の仏教感と繋がる江戸時代の仏教について見ていきたいと思います。

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  鎌倉時代に起こったさまざまな新仏教は、室町時代に教団として力をつけ、その後、武装集団としても力を付けて、戦国大名にも劣らないほど集団として隆盛をきわめていきました。そこに立ちはだかったのが織田信長です。比叡山延暦寺の焼き討ち、それに続く一向一揆の拠点である石山本願寺の襲撃など、徹底して仏教教団を弾圧しました。いずれも、天下統一をめざす信長にとって邪魔な障害物以外の何ものでもなく、完膚なきまでに打ちのめそうとしたのです。

対して、江戸幕府を開いた徳川家康は、信長を反面教師として仏教勢力を正面から敵に回そうとしませんでした。逆に仏教を利用して、300年続く安定した江戸時代を築く組織の一部に組み込んでいったのです。

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【仏教の勢力を削ぎつつ仏教を庶民に浸透させた徳川家康】

徳川家康のとった幕藩体制は、徳川幕府を頂点としつつも、各蕃にその自治を完全にゆだねた地方分権体制です。家康はばらばらに存在する自治組織を統合する体制に仏教教団を活用したのです。全国に散らばる寺を組織し管理するために、本寺、末寺の関係を築かせ、本寺を押さえることで、末寺まで厳しく統制することを可能にしました。

さらに、檀家制度によって、全ての家に必ず特定の宗派や寺に属する事が義務付けられ、また、寺には檀家の人々の結婚、転居、就職、旅行の際に必要な身分証明書としての「寺請け証文」を発行させ、キリシタンで無い事を寺院に証明させるのと同時に、幕府が諸寺院に戸籍係の役目を与える事としたのです。

これらにより、仏教教団は徳川幕府の末端組織に組み込まれました。

これはすなわち、国家と大衆の秩序を保つために既に全国に広がっている組織を活用し、幕府は国家統合を民間に外注したといっても過言でないでしょう。

仏教は思想面よりも葬送儀礼を中心とする「葬式仏教」となり、日本中に一気に仏教が広まり、大衆に定着しました。これが現在まで続いています。

 

【家康が思想、政策面で着目したのは儒教】

巧妙な仏教政策により、仏教の権威を否定しつつ、組織統合として仏教を活用した家康ですが、人々の精神面の統合と、政治や学問としては儒教を取り入れました。

儒教を世俗社会における道徳とし、「士農工商」の身分制度を確立し、幕藩体制の強化を図りました。封建制度を強化する思想としては圧倒的に仏教よりも儒教の方が都合がよかったのです。

儒学の説く「五倫」とは、君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、盟友の信ですが、盟友以外は全て上下関係であり、君臣は言うに及ばず、父子、夫婦、兄弟にしても「家」を媒介として君主への奉公に繋がっており、人間関係の全体が家康の構想する身分社会に合致したのです。

 

【現実に立脚しない倒錯観念ではもはや統合は不可能】

最初の目的はキリシタン弾圧でしたが、家康は国家と地方の秩序維持のために、既に全国に存在する仏教組織を活用して国家統合を図りました。

仏教はこれで収入と地位が安定する代わりに追及を停止し、宗教としての地位を放棄したのです。

明治に入ると、天皇の権威を捏造するために神仏分離が唱えられ、廃仏毀釈の波が起こり、全国の寺の半数は取り壊されました。

しかし、明治維新による秩序崩壊から、これまで武士だった層まで含め、庶民の救い欠乏から新興宗教が次々と誕生してゆくことになります。

社会の秩序崩壊を契機に発生する統合期待として仏教は、その姿を次々と変えながら今日に至っています。しかし、現実に立脚しない倒錯観念である以上、古代、中世のような隆盛は現代では見込むことは不可能でしょう。

投稿者 tanog : 2014年06月29日 List  

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コメント

「東行(高杉晋作)系でコメントします 」

新宿焼身自殺事件についてさゆふらっとまうんどさんのブログへ書き込みました。
http://sayuflatmound.com/?p=1944#comment-11860

>さゆふらっとまうんどさんが新宿焼身自殺の事件を動画であげられております。
>https://www.youtube.com/watch?v=SZeTZp14Rhk
>川口さん2014/06/30 07:33

彼の大和魂を見ました。
靖国招魂場に筆頭で祀られている「身ハたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」吉田松陰の言葉を捧げます。

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」

弟子である高杉晋作の「男子たるもの死すべきところはどこなのか?」という問いに答えたもの。この年に松蔭は処刑される。

出典:幕末ガイド 吉田松陰
http://bakumatsu.org/men/view/67

高杉晋作については別途参照:例
http://bakumatsu.org/blog/2013/06/takasugi.html

投稿者 通りがけ : 2014年6月30日 12:02

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