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2014年11月07日

仏教に未知収束の志を観る~第7回 瞑想で見たものは何か?

これまで6回にわたり、仏教が「未知収束」の中から発生した思想であることを検証してきました。仏教は修行=瞑想と悟りによって万物を因果関係で把握し、空という全てが繋がった世界として現実世界を捉えました。つまり、ほかのどのような宗教にもない仏教の特殊な世界観を成立させたものこそ、瞑想であったと言えます。そこで今回は「瞑想とは何か」ということを整理してみたいと思います。

スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツが瞑想を実施している(していた)ことは有名な話ですが、ほかにもイチローや長嶋茂雄といった一流スポーツ選手など、成功者の中には「瞑想」を実践している人がたくさんいます。その瞑想の行い方には個性もありますが、それぞれ瞑想を自分の人生の成功に結びつけてきています。

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【瞑想の効果】

そこでまず瞑想の効果について、科学的におさえておきます。

瞑想の効果は科学的にも証明されており、シンガポール国立大学(NUS)の研究チームが、仏教2流派4種類の瞑想法(金剛乗仏教の「デイティ」と「リグパ」、上座部仏教「サマタ」と「ヴィパッサナー」)について調べたところ、種類の異なる大きな効果があることが分かりました。

研究チームは、4種類すべての瞑想法の実践者について、瞑想中と瞑想後、さらにその後の認知的作業中の心電図(EKG)と脳波(EEG)を監視しています。その結果、「同じ流派のそれぞれの瞑想法でやることは非常によく似ている」にも関わらず、2種類の異なる瞑想法のEEGからまったく異なる結果が得られました。

上座部仏教の瞑想法では被験者の副交感神経活動が活発になり、金剛乗仏教の瞑想法ではリラックス効果はほとんどなく、その代わりに覚醒や「闘争・逃走反応」に関係する交感神経系が活発になりました。

副交感神経系は休息や回復に関係し、リラックス効果があると言われますが、副交感神経優位になると神経伝達物質がより多く分泌される為、知覚が鋭敏になることも知られています。一方、交感神経優位が続くと、人間の体は自動的に体の不調を感じ取る感覚を遮断することで、いわば興奮の極地の状態を作り出すと考えられます。

この両者の違いは、前者が「感覚を研ぎ澄まして内なる追求に向かう」状況であるのに対し、後者は身体の痛みを超越しようとする「苦行」をイメージさせます。そしてこのことは、ブッダが悟りを得たのが瞑想であり、苦行ではなかったこととも辻褄が合いそうです。

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【瞑想の目指すもの】

これを受け、次にこれら金剛乗仏教と上座部仏教の二種類の瞑想の違いに着目して考えてみます。原始仏教(上座部仏教)の瞑想は簡単に言うと、以下の二つから構成されます。

・定(じょう):禅、ジャーナ、禅定、サマタ、サマーディ、止、と言われる瞑想。

・念(ねん):サテイ、気付き、観、ヴィパッサナと言われる瞑想。

サテイ、ヴィパッサナは「気づき」「観」=「念」に相当します。

原始仏教の瞑想においては、この「念(サティ:気付き)」こそが重要とされています。

「念」「サティ」「気付きの瞑想」は、「今ここ」空間を形成するところから始まります。深い浅いはあっても、まずは「今ここ」を知ることが大事であり、そのためには「今やっていることに気持ちを集中する」ということを、たとえば10分でも20分でも行うと、気持ちが切り替わっていきます。これによって、今行っていることへの「気付き」が養われていくのです。

この「今ここ」の感覚が分かるだけでもしめたものであり、もちろんこれを深めるためには、仏教のより深い洞察や実践も必要になってくるのですが、深い部分まではいかなくても、入口の部分だけであっても必ず役立つのです。

近年では、成功法則や成功哲学といった脳内にイメージを描いて、そのビジョンと実現化する方法が広がっています。しかし、仏教の方法はこれとは正反対で、ビジョンは描かずひたすら「今ここ」を目指していきます。このことによって心が静まり、心のつぶやきが減っていく=煩悩を生起させなくなるのです。


【瞑想とは太古の人類への感謝の念】

上記の論説を切り口に釈迦の瞑想、ジョブズやイチローが試みた瞑想をイメージして何を見たのか、見ようとしたのか考えてみます。

瞑想とは、「今ここ」感覚を研ぎ澄ます事・「念(サティ、気づき)」である、に注目してみました。

これは何かを追求するときに使う基本的スタンスではないか?それもとてつもなく難しい課題を前にして、それでも乗り越えなければならない状況に立った時に使う手法ではないかと考えてみました。私たちは何か課題にぶつかった時に、前例を探したり、経験者に尋ねたり、あるいは考えたり努力してその状況を何とか突破しようとします。

それで殆どの課題は何とかなるのでしょうが時にとんでもない課題が目の前に現れる時があります。それはその当人の能力だけでなく、その集団、その地域、時代に生きている人々にとって等しく困難で突破が非常に困難な課題です。もう誰に聞きに言っても答えは期待できない、そういった課題をイメージしてください。

これまでの方法論では突破できない事は明らかであり、むしろこれまでの手法に縛られる事が突破口を見出せなくなる、そういった状況の中で向こうから、あるいは自らの中に眠っている本能や人類が積み重ねてきた既存の知識、能力をフルに動員して集中しようとしている状態、それが「念=気づき」であり、「今ここ」の感覚が導くもなのだと思います。

言わば潜在思念に耳を傾け、浮かび上がってくるわずかな感覚を拠り所にしている状態です。そして一旦その感覚を潜在思念から呼び起こすと、今度は一気にその感覚を今追い求めている課題に結び付けて考えてみる=諸所、整合する=気づくという流れです。

これが固定観念を一切捨てて物事を考える状態であり、本質的に360度の視点で追求する手法なのです。

瞑想とはその追求状態を作り出す、導入口であり、逆にひたすら未知追求をするが故に作り出した心の状態ではないかと思うのです。

釈迦も、イチローもジョブズも次元や課題に違いがあるものの、道なき道を歩んだ人々です。ただ、間違えてはいけないのは、瞑想したからとてつもない発見ができるのではなく、追求に追求を重ねた先に瞑想という手法も動員して声なき声を聴くという事です。

釈迦自身が様々な肉体的苦行を重ねてそれでは答えは全く見つけられない、要は精神の浄化であり、その為の瞑想であるとした部分です。釈迦はそれで万物が繋がる空という概念を導き、それを遮っているのは自我という煩悩であるとしました。それを何段階も掘り下げ深く気づき、深く知る事が人類としての智慧であるとしたのです。

よく「瞑想とは自らを深く知る為」という解説書を目にしますが、それは逆で、対象世界を深く知り、秩序を読み解き、突破口を導き出す、そしてそれを導き出してくれた潜在思念(=太古の人類の意識)への感謝、それが何の世界であれ未知追求をしている人たちの在り様なのだと思います。

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投稿者 tanog : 2014年11月07日 List  

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