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2018年11月11日

縄文体質の史的足跡~第4回 庶民自らが庶民のために発展させた芸能。

第4回は芸能を扱います。

西洋で発達した芸能のほとんどは王侯貴族のためのものでしたが、日本における芸能は、大衆自らが、大衆のために作り出し、継承していったものがほとんどです。 和歌、万葉集も庶民発で貴族がまとめたものであるし、能・狂言、そして茶の湯や生花も庶民の間で流行した文化芸能です。

惣村の集団内で庶民を楽しませるために、芸能に特化した人材が生まれ、やがて職業化し、その技術を近年まで継承してきました。 その精神性や日本独特の価値観は現在の日本文化の中にも色濃く根付いています。

その原点となる精神性や価値観は、まさに縄文時代に形成された自然感と集団性にあり、究極まで極めるその意識は、縄文人が追求し気づき上げた土器や漆などの芸術、文化を出発点としています。

今回もるいネットから、時代を追って、芸能に潜む日本人の精神世界を紹介します。

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【和歌に見る日本人の可能性】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=240273

本来、観念力貧困であると考えられる日本に、和歌(やまとうた)はなぜ生まれてきたのか?

今でも中国南部や東南アジアで残っている「歌垣」と呼ばれる習俗は、特定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗である。古代日本においてもこの風習は見ることができ、万葉集に多く集録されている「相聞歌(男女の恋愛問答歌)」は、この「歌垣」から来ているのではないかと考えられる。

また、初期万葉歌の時代は、なお古代的な自然観の支配する時期であり、人びとの意識は自然と融合的な関係にあった自然に対する態度や行為によって、自然との交渉をよび起こし、霊的に機能させることが可能であると考えられていたのである。自然との交渉の最も直接的な方法は、それを対象として「見る」こと。それは、万葉集中50例を超える「見れど飽かぬ」という表現によっていっそう強められている。

このように、和歌はもともと庶民(の感覚≒潜在思念)発、それも誰かひとりのひとが作ったのではない、言い伝えの「伝承歌」のようなものだったのではないかと考えられる。そこに通底するのは、自然への畏敬→祈り→肯定視と、ひとに対する親愛の情感。個性に乏しく「同じような歌が多い」のも、みんな発の共感であれば説明がつく。

さらに人々の気持ちを後押ししたのは、共同体社会から統一国家という時代の転換に対する期待とおそれであったと思われる。

>古代的な共同体のあり方が、豪族勢力の伸張や地域的政権の成立、そしてついには王朝的統一政権が樹立されるに及んで、社会全体に構造的な変化が生まれ、古代的共同体は変質し、その固有の秩序は失われる。人びとは古い全体社会から解放されるが、同時に共同体的紐帯を失った人びとは、また新しい権力関係のなかに包摂されて、以前よりも強大な力による従属関係のもとに組織される。解放は同時に新しい隷属を生むのである。その喜びとおそれとが、新しい詩歌の時代を招く原動力であった(白川静「初期万葉論」)。

和歌には政治や社会のことを歌ったものがほとんど残っておらず、わずかに人麻呂と山上憶良の数首に見られる程度、杜甫や李白に代表される中国の漢詩とは対極にある。これは、日本人が社会統合よりも、身近な生活に密着した感情≒潜在思念に基盤を置いており、和歌はその発露としてしか定着しなかった、ということを意味している。

「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける」。(紀貫之 「古今和歌集~仮名序」)

日本では古くから、言葉にも霊が宿ると信じられていた。声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられていたのである=言霊(ことだま)信仰。そして、漢字が入ってきてからもながらく、「言」と「事」は区別されていなかった。

かくして、日本人は、こころ(内部)と事(外部)を言葉(観念)で端的に表現でき、であるがゆえに、難しい言葉を使うことなく誰にでも伝わり、誰もが親しむことのできる世界でもマレな文学様式=和歌を確立した。

 

【自治集団が大衆芸能の発達の土台となった(室町時代)】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=337824

中世から近世にかけての大衆市場の発達において、庶民への芸能や文化の浸透は見逃せない要素である。 とりわけ室町時代から戦国時代にかけては、庶民と貴族との文化交流が盛んであり、相互の文化が受容され、階層を超えて文化が発達した時代である。能・狂言、そして茶の湯や生花。これらの文化は公家や武家だけではなく、都市の商工業者や村の百姓(商工業者と農民・漁民)などの庶民の上層部の文化でもあった。和歌の上の句と下の句を別々の人がつくってまとめていく連歌は、村の寄合などでも流行した。 また、お伽草子とよばれる絵本がつくられ、「浦島太郎」や「一寸法師」の物語が、武家や民衆の人気を博した。室町時代には、今日に直接通じる、文化や衣食住の生活習慣がおこった。村祭りや盆踊りといった年中行事も、すべてこのころ始まったものである。 各地の寺院では、江戸時代の寺子屋に繋がる、武家や庶民の子どもの教育も始まっている。

○惣の発達と大衆芸能の進展 もちろんその原因として、生産力の上昇によって生活に余裕が出来たことは指摘できる。しかし、それだけでは説明はつかない。 こで、注目されるのが中央権力の衰弱の中で、拡大していった惣村の存在である。当初は人々はこの集団を一揆と呼んでいた。一揆といえば百姓一揆を連想するが、元々は、惣村を形成する中で、幾つかの村が共同で村の人々の生存と繁栄をはかるために協同してつくった集団を指す言葉である。おそらく、集団の団結を図る誓いの儀礼に由来する言葉なのであろう。

この寄合という一揆を形成し、その構成員の繋がりをより強める場はであった。そしてこの宴の場の余興として盛んに取り入れられたのが連歌であり、さらには猿楽・田楽やそこから発展した能や狂言なのであったし、茶の湯や生花も同様であった。

○芸能の民の形成  このような惣と一揆の形成が、全国の町や村において様々な集団的芸能を繁栄させた背景であった。つまり個々の家や一揆集団の繁栄を祈る神事に芸能が欠かせなくなったことが、これらの芸能を専業的に行う人々の活動の場をも広げたのであった。これによってこれまでは寺社や貴族に隷属していた芸能民が独立して活動し、それぞれが芸能の座を形成していったのである。

惣村や惣町は、それぞれの一揆の神事に欠かせない芸能を行う座と契約を結び、それぞれの年度の神事の余興をあらかじめ予約していくのである。もちろん契約であるからそれは金銭の授受を伴う。さらには惣村や惣町の構成員は、専業的芸能民に依頼するだけではなく、それらの専業的芸能民にそれぞれの芸能を教わり、村や町の構成員自身がその芸能を演じるということが盛んになっていく。つまりそれが、芸能民にとっては、芸能の教授という新たな稼ぎの場を生み出す事となったのである。

【マリーアントワネットも虜に。伝統工芸「漆」は日本を救うか②~ものづくりの原点】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=323972

「漆は生き物なので、人のおもいどおりにはならない」

漆工芸のプロセスを見て感じることは、まずこの伝統技術が自然現象に対する実に細やかな観察に基づている事である。漆の乾燥には高い湿度が必要だ、というような発見が、どれだけの長年月の試行錯誤と観察の上になされたものか、まさに想像を絶する。

それは現象を極端に単純化した上で法則化する西洋近代科学のアプローチとは異なるが、ラッカーゼ酵素の働きを巧みに生かすなど、自然の物理的化学的法則性を見事に活用している。伝統技術の背景にこのような合理的思考の姿勢があったからこそ、明治期における西洋近代科学の導入も急速に進んだのであろう。

もう一つ印象深いのは、そうした製造プロセスの創意工夫が長い歴史を通じて、無数の人々によって積み重ねられてきていることだ。様々の素材に対して、多様な技法やデザインが生み出されてきた。無数の職人たちが、師匠から技術を厳しく仕込まれて一人前になった後は、少しでも先代を追い越そうと、倦まず弛まずに新しい工夫をしてきたのであろう。明治以降においても、また戦後の復興においても、製造現場でのこうした弛まぬ創意工夫の姿勢が急速な産業発展の原動力であった。

「精密な自然観察」と「弛まぬ創意工夫」、この二つの姿勢は漆だけでなく、和紙、金箔、磁器、日本刀などの伝統技術を生み出した。そして和紙技術は電解コンデンサー・ペーパー、金箔技術はプリント基板の電解銅箔、磁器技術は携帯電話のセラミック・フィルターなどに生かされ、それぞれの分野で日本企業が圧倒的な世界シェアを持つ原動力となっている。

 

【ビジネスパーソンに捧ぐ世阿弥のことば①~初心忘るべからず】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=323146

世阿弥が残した「風姿花伝」を始めとする多くの著作は、演劇や芸術についての考えが述べられたものですが、世阿弥のことばの深さはそれだけではありません。今でいえば、「観世座」という劇団のオーナー兼プロデューサーでもあった世阿弥は、劇団の存続のためにはどうしたらいいかを考え抜きました。

それは役者の修行方法から始まり、いかにライバル劇団に勝ち、観客の興味をひくにはどうすべきかなど、後継者に託す具体的なアドバイスを記したものが、彼の伝書です。いわば、芸術のための芸術論というよりは、生存競争の厳しい芸能社会を勝ち抜くための戦術書ともいえるものです。

世阿弥は、観客との関係、人気との関係、組織との関係など、すべては「関係的」であり、変化してやまないものと考え、その中でどのように己の芸を全うするか、ということを中心に説いています。

「能」を「ビジネス」、「観客」を「マーケット」、「人気」を「評価」として読めば、彼のことばは、競争社会を生きるビジネスパーソンへの提言とも読めるのです。 世阿弥の珠玉のことばの中から、代表的なものをご紹介しましょう。

■初心忘るべからず

世阿弥にとっての「初心」とは、新しい事態に直面した時の対処方法、すなわち、試練を乗り越えていく考え方を意味しています。つまり、「初心を忘れるな」とは、人生の試練の時に、どうやってその試練を乗り越えていったのか、という経験を忘れるなということなのです

世阿弥は、風姿花伝を始めとして、度々「初心」について述べていますが、晩年60歳を過ぎた頃に書かれた『花鏡』の中で、まとまった考えを述べています。その中で、世阿弥は「第一に『ぜひ初心忘るべからず』、第二に『時々の初心忘るべからず』。第三に『老後の初心忘るべからず』」の、3つの「初心」について語っています。

「ぜひ初心忘るべからず」 若い時に失敗や苦労した結果身につけた芸は、常に忘れてはならない。それは、後々の成功の糧になる。若い頃の初心を忘れては、能を上達していく過程を自然に身に付けることが出来ず、先々上達することはとうてい無理というものだ。だから、生涯、初心を忘れてはならない。

「時々の初心忘るべからず」 歳とともに、その時々に積み重ねていくものを、「時々の初心」という。若い頃から、最盛期を経て、老年に至るまで、その時々にあった演じ方をすることが大切だ。その時々の演技をその場限りで忘れてしまっては、次に演ずる時に、身についたものは何も残らない。過去に演じた一つひとつの風体を、全部身につけておけば、年月を経れば、全てに味がでるものだ。

「老後の初心忘るべからず」 老齢期には老齢期にあった芸風を身につけることが「老後の初心」である。老後になっても、初めて遭遇し、対応しなければならない試練がある。歳をとったからといって、「もういい」ということではなく、其の都度、初めて習うことを乗り越えなければならない。これを、「老後の初心」という。

このように、「初心忘るべからず」とは、それまで経験したことがないことに対して、自分の未熟さを受け入れながら、その新しい事態に挑戦していく心構え、その姿を言っているのです。その姿を忘れなければ、中年になっても、老年になっても、新しい試練に向かっていくことができる。失敗を身につけよ、ということなのです。

今の社会でも、さまざまな人生のステージ(段階)で、未体験のことへ踏み込んでいくことが求められます。世阿弥の言によれば、「老いる」こと自体もまた、未経験なことなのです。そして、そういう時こそが「初心」に立つ時です。それは、不安と恐れではなく、人生へのチャレンジなのです。

【江戸からくり人形と雇用のお話】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=323489

江戸の「からくり人形」といえば、有名なのが上の絵の茶運人形です。 この茶運人形、人形が手にしているお盆に茶碗を乗せると、ひとりでに動いてお茶をお客さんに運びます。 そのとき、ちゃんと足も動きます。 そしてお客さんの前に着くと、きちんとおじぎをすします。 まるで「どうぞ」とお茶を進めているように、です。

お客さんがお茶を飲み終わって、お盆の上に茶碗を戻すと、今度はちゃんと方向転換して、もといた場所に戻ってきます。 実によくできたものです。  こうした「からくり人形」を、現代に伝えてくれたのが、「からくり半蔵」と呼ばれた土佐藩の細川半蔵頼直(ほそかわはんぞうよりなお)が、寛政八(1796)年に書いた『機巧圖彙(きこうずい)』という本です。

庶民が買ってくれるから、技術が進み、より精度の高い、これまた世界の王侯貴族のどんな贅沢品をもしのぐほど精巧なものができあがっていました

西洋にせよ東洋にせよ、文化遺産とか美術品などは、ことごとく王侯貴族のものです。 王侯貴族のために造られ、王侯貴族が楽しみ、王侯貴族の富を象徴するものでした。 庶民のための文化、庶民の楽しみのための文化物や工芸品となると、極端に数が減ります。

けれども日本の場合、庶民の楽しみが、第一でした。 技術も庶民のために多くが開発されました。 そうしてより高い技術が、競い合って磨かれてきました。 そしてそれらは、どこまでも庶民が楽しみ、庶民の生活にうるおいを与えるものとして開発され、技術が磨かれてきました。 そしてそのことは、雇用にも活かされていました。

江戸時代までの日本は、人がどこまでも大切にされた社会です。 商店も、物流も、製造業も、すべては人のためにあるものでした。 ですから、たいせつなことは、いかに儲けるか、そのためにいかに人件費を減らすかではなく、ひとりでも多くの人が食べていけるようにしていくことに価値が置かれていました。

ですから価値があるのは、儲かっている企業ではなく、ひとりでも多くの人を養ない、食べていかせることができるお店、あるいは藩、あるいは地主農家が、偉い人でした。 そういう社会観念が、世の中の中心でした。

社会全体を見てみると、結局のところ、人を大切にしている企業が生き残っています。 人は石垣、人は城なのです。 洋風化した企業は、短期的に利益を極大化させ、成功したように見えても、瞬く間に衰退します。 また、どんなに古くからある企業でも、道を踏み間違えれば、存続はできなくなります。 世の常です。

効率重視、利益重視の経営とかいうけれど、そもそも産業にせよ商業にせよ企業にせよ、究極的には、そこに従事している人々が、幸せになるために、存在しているものであるように思えるのです。

【折口信夫『日本藝能史六講』 「足拍子」の起源】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=289458

「足拍子」、つまり、役者・演者が舞ったり踊ったりしながら、音楽にあわせて舞台の上でドン!と足踏みをし、大きな音を鳴り響かせる「足拍子」は、能でも、狂言でも、歌舞伎でも、日本舞踊でも、ごく当たり前のようにあちこちで多用されているのです。でも西洋の踊りではあまり見たことがないし。・・・一体これは何なんだろう? 日本伝統芸能における独特の技法なのか? と、とても不思議に思っておりました。(足拍子のない伝統芸能もあります。念のため)。

そんな時ふと手に取ったのが、折口信夫の『日本藝能史六講』(講談社学術文庫)でした。1941年(昭和16年)、折口信夫が公開講座でおこなった、日本の芸能がどのように発生していったかについてのスリリングな講義録。

まず先に結論を言ってしまうと、この足を踏み鳴らすという動作は、実は、「鎮魂」の意味があったのだそうです。引用は、以下。

>(日本の芸能の)無意識の目的は大体考へることが出来る。つまり簡単に言へば、それは一種の鎮(しづ)め――鎮魂といふことに出発して来ているやうに思はれることであります。この鎮魂といふことは、外からよい魂を迎へて人間の身体中に鎮定させるといふのが最初の形だと思ひますが、同時に又魂が遊離すると、悪いものに触れるのでそこに病気などが起るといふことから、その悪いものを防がうとする形のものがあります。

>日本の芸能でこの傾向を持ってをらないものはないといふほどの、共通の事項を取出してみるといふことならば、先(まず)、第一に挙げなければならぬのは鎮魂と まう一つ同じに考へられ易い反閇(へんばい)といふことであります。

>この二つが一つになり二つになりして日本の芸能の凡(あら)ゆる部面に出てまいります。その中の一つ、或は二つが這入っておらぬ芸能は考へにくい位であります。

折口信夫によると、「鎮魂」には二つの形がある、と。一つは、「良いスピリットを呼んでこちらに定着させる」という形。もうひとつの鎮魂の形は、「悪いスピリットが出てこないように押さえつける」という形

そこでググッとクローズアップされてくるのが、「大地を踏む」という動作なのです。

「良いスピリットを呼んでこちらに定着させる」という意味での「鎮魂=足踏み」は、『古事記』『日本書紀』の有名な「天岩戸伝説」がよい例として挙げられています。その後、さらに混じってきたのが、中国大陸からやってきたと思われる「反閇(へんばい)」という歩行法。平安~鎌倉時代、呪術を行う陰陽師(おんみょうじ)は、呪文を唱えながら五方に向かって足踏みをし、悪い霊がやってこないよう足で踏み鎮めるということをやっていたそうで、これを「反閇(へんばい)」と言ったそうなのです。

>ともかく能を見ても、足拍子を踏む場合が度々ありますが、譬えば道成寺の中の乱拍子などは最も思ひ合せられませう。これは能ばかりではありません。日本の近代の舞踊をみましても、足拍子といふものからは離れられない位で、日本の藝能をよく観察しますならば、何処かで足拍子を踏まう踏まうとしていた昔の約束の伝承されているのが窺える筈であります。舞台へ出るといふことが、つまり力足を踏むといふ目的をもっていたのです。

>而もこれはただ舞台ばかりではなく、御殿に畳を敷いたり、或は地上に莚(むしろ)を敷いて其の上を踏むといふことがあります。つまりその敷物がその場所、或はその村全体と見立てられてをるのです。吾々はむしろ近世の芸能の上にどうしてこんなに反閇が印象深く残っているかと驚くばかりです。譬へて申しますと、歌舞伎役者にしても、一番先に役者の役者らしさを鑑定するのは、舞台で両足の指を逸らして居るか否かといふことです。足の指先の踏む用意をしてをる、といふことなのでせう。

「鎮魂」という初期の意味が忘れられた後にも、なお「足を踏み鳴らす」という動作がえんえんと引き継がれてきて、今に至る。「足を踏み鳴らす」という動作は、「鎮魂」である以前に、おそらく「快楽」だったのではないでしょうか。

さらに言うならば、この「足拍子」、実は、楽器としても工夫されてきたのですよ! たとえば、能においては、音響効果を考えて舞台は総ヒノキで作られ、床下には通常7~10個ほどの甕を置いて、足拍子が美しく響くよう調節しています。また、歌舞伎舞踊や日本舞踊でも、舞台の上に「所作台(しょさだい)」というヒノキ製の置き舞台をさらに重ねて、足拍子がいい音で響くように工夫しているのです。

要するに、能でも歌舞伎でも日舞でも、その足拍子の音を聞く・感じるだけで、人間がとっても気持ちがよくなるよう、ちゃんと計算されているのです。これには逆らえません。足拍子は、鎮魂の動作としての聖なる意味をもつだけでなく、いい音を鳴らす楽器としても、リズムを刻む楽器としても、開発されてきた、というわけで。足踏みひとつで、なんと奥の深いことよ・・・。

【外国人から見た日本と日本人(芸術編)】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=171817

日本人の縄文体質が創造する芸術は、外国の有名な芸術家をも驚嘆させるような本源性、普遍性を持っていたようです。  普通の人達が全ての存在を畏敬し受け入れ委ね、そして共認するために創造したからこそ現代にまで継承されているのだと思います。

~以下「日本・どんな国?・・・外国人の見たニッポン」より引用。

■ヴィンセント・ウィレム・ヴァン・ゴッホ(1853-1890)オランダ画家

「ゴッホの手紙」より

●日本の芸術を研究してみると、あきらかに賢者であり、哲学者であり、知者である人物に出合う。彼は、歳月をどうすごしているのだろう。地球と月の距離を研究しているのか。いや、そうではない。ビスマルクの政策を研究しているのか、いや、そうでもない。彼はただ一茎の草の芽を研究しているのだ。ところが、この草の芽が彼に、あらゆる植物を、次には季節を、田園の広々とした風景を、さらには植物を、人間の顔を描けるようにさせるのだ。こうして、彼はその生涯を送るのだが、すべてを描きつくすには人生はあまりにも短い。いいかね、彼が自らが花のように、自然の中に生きていくこんな素朴な日本人がわれわれに教えるものこそ、真の宗教ではないだろうか。日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。 (中 略)  僕は、日本人がその作品のすべてのものにもっている極度の明確さを、羨ましく思う。それは決して厭な感じを与えもないし、急いで描いたようにも見えない。彼らの仕事は呼吸のように単純で、まるで服のボタンでもかけるように簡単に、楽々と確かな数本の線で人物を書き描き上げる。ああ、僕もわずかな線で人物が描けるようにならなければならない。

■エドウィン・アーノルド(1832-1904)イギリス ロンドンの詩人

地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国

●「その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」  明治22年(1889)

■ブルーノ・タウト(1880-1938) ドイツ近代を代表する偉大なる建築家。

(伊勢神宮の社殿建築を評して)

●伊勢は世界の建築の王座である。芳香高い美麗な桧、屋根の萱、これらの単純な材料が、とうてい他の追随を許さぬ迄に、よく構造と融合している。形式が確立された年代は正確にはわからず、最初にこれを作った人の名も伝わらないこの建築は、恐らく天から降ったものであろう。

■エミール・E・ギメ(1836-1918)フランス 実業家にしてバレイやオペラの作曲など芸術にも手を染める。

「東京日光散策」より

●「初めから日本人は、自分たちを取り巻いている自然に驚嘆していた。日本人は慈悲深い大地と、魚がたくさんいる海を崇拝した。神々が彼らを幸福にしてくれるのだと心底から考えた。(中略)日本人は黙想し、手を合わせ、頭を下げて礼拝したのだ。誰を、何をだって?・・・・・・・すべてをだ!」

■アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)理論物理学者

~「関門・福岡のアインシュタイン訪日最後の一週間」より~

●この自然に適応した生活様式はどこまでも貴いものです。できるものならば、この日本の生活と様式をいつまでも楽しみたいもので、もし私は事情が許せば、日本に永住してもよいと思っているくらいです。

投稿者 tanog : 2018年11月11日 List  

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