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2014年06月26日

沖縄に在る力に学ぶ~琉球王国は侵略か自治か?

 沖縄をこれまで見てきましたが、避けて通れないのが15世紀~17世紀にかけて存在した我が国初の独立国家、琉球王国です。

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首里城 こちらよりお借りしました

名前は誰でも知っていると思いますが、この王国がなぜできて、なぜ消滅したのか、沖縄の歴史においてこの琉球時代とはいったい何だったのか?それに対する答えはあまり問われていません。琉球王国とは明と朝貢関係を結び文字通りそれまでの沖縄の文化はほぼこの時代に中国式に塗り替えられていきます。

現在の沖縄人が日本人より共同性が高く、本土の日本人よりも、より日本人らしいとすると、この中国化された琉球時代を沖縄の人たちがどのように生き抜いてきたのかが非常に興味が湧く所でもあります。それを解明する目的で琉球王国とは侵略か自治かという問いを立ててみました。

 まずは沖縄の歴史を非常に大雑把に押さえておきます。

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 【沖縄の略歴】    

Ishii_zu2沖縄の土器

縄文時代~本土と同様の縄文土器、遺跡が確認されている。日本と同じ歩み

弥生時代~本土との関係がなくなる。以降政治的支配の外。

農耕の開始~10世紀前後

グスク時代~11世紀~13世紀

 この頃文字が始めて伝来

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三山時代~14世紀初め

 この頃鉄農具がようやく普及、バラバラの島々が3つの勢力に収束する。同時に3つの勢力は東南アジア、中国との交易を中心に中継貿易の拠点となる。

明への朝貢、柵封使渡来~1414年(15世紀初め)

琉球王朝誕生~1429年

 尚巴志が沖縄全島を統一する。

島津藩の琉球入り(実質植民地化)~1609年(17世紀)

明治政府から柵封の詔を受け琉球藩となる~1872年(19世紀)

 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

農耕が定着し、文字が登場、いわゆる文明時代になったのは13世紀以降です。

本土日本から800年遅れて文明史が始まる事になります。しかし逆に言えば、本土での1500年間をわずか700年間に圧縮して時代が進んだとも言えますし、その700年間は本土の1500年とは全く異なった歩みをしてきたという事が伺えるのです。

そしてこの時代を解明するのに必要なのがその中心に位置する琉球王国の在り様の解明です。

 

本題の琉球王国は侵略か自治かの問いに移ります。

琉球王国の最大の特徴は明、日本、東南アジアを繋げる中継貿易です。琉球王国の誕生に大きく影響したのが隣国、明の建国(1368年)でした。明は中国で誕生した初の南の統一王朝です。首都を福州に置き、沖縄と地理的に近い南シナ海を拠点とした新生国家でした。当時まだモンゴルの影響を受けた元の武力が強大な時代、武力が弱い明は建国すると同時に国外との交易ネットワークを強化する政治戦略を立てます。国家が貿易を主導する海禁政策はそれによって打ち立てられます。

三山時代を経て既に東南アジアとの交易網を形成していた沖縄はその地理的優位さを活路にこの時代、明の最大交易国家として朝貢関係を結びます。沖縄本島で育てていた戦闘馬を明の武力として最大限提供したのはもとより、明から絹を受け、日本に売り捌く、同様に東南アジアの胡椒や特産物を買い付けて明や日本に流通させる。そうやってこの時代、琉球は明と共に歴史時代に登場してきたのです。琉球王国は首里城を徹底的に中国風にした事からも、明に依存し、明に守られて300年の王朝時代が続いた事が伺えます。朝貢は琉球王が変わる度に行われ、その都度明からは多くの官僚が沖縄を訪れ、長期滞在しました。中世のこの時代、国家間で戦争が常態化し、その外圧は沖縄にも常態的にかかってきます。しかし、この状態にあって沖縄は必ずしも明の支配下に入り植民地化されていた訳ではありませんでした。

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沖縄の交易網 ~お借りしました

 【琉球王国誕生に至る歴史背景】

琉球は侵略ではない、自治である。先にこの仮説を立てて歴史を見ていきます。

琉球王朝では政治的リーダーを「王」ではなく「世の主」と呼ばれました。この事が最も自治を象徴しているのですが、「世の主」という概念とは琉球王朝が誕生する400年前、グスク時代に生まれていました。世の主はアヂとか大親とも呼ばれ、農耕時代に登場した土地の揉め事や争いを納める、“共同体の平和と秩序を守る為の職能をはたす”人物に与えられたと言われています。グスク時代(各地に戦乱が発生し、石で要塞を作った時代)を経て、世の主というリーダー像が作られ、小競り合いを繰り返しながら3つの地域に統合されていく、それが沖縄の文明時代の始まりでした。

グスク時代は弥生時代から大和朝廷の時代にかけて古墳をつくり争いを止揚した本土日本とトレースできます。しかし沖縄が異なるのがこの時代を作ってきた人々でした。

三山(3つの地域)のリーダーに成り、グスク時代を統合したのは商人集団でした。東南アジアや日本とのパイプを持ち、中国と朝貢関係を作った者がリーダーとなって行きます。逆に言えば、商業的連携が最も重要視された のがこの時代のリーダーの資質でした。

これは本土日本の大和朝廷のリーダーが大陸(百済や任那)から来た王族や官僚だった事と比べると大きな差異です。

 

【なぜ商人集団が世の主か?】

この問いを考えながら、琉球王国を考えてみます。

沖縄に農業を伝えたり、その後の沖縄の商業を起こしたのは土着沖縄の人たちではありません。おそらくは九州から種子島、奄美を経て辿りついた一派だと見ています。9世紀から10世紀のこの時代、九州からどのような人が流れ着いたのか推測してみました。

ヒントは9世紀に同様に朝廷から攻め込まれた蝦夷(東北地方)です。蝦夷は縄文人の末裔で、朝廷からその地を追われ北海道に向かいます。その一派がアイヌを形成して行くのですが、同様の追い込みが九州にもあったのではないでしょうか?南九州は北九州を除いては火山灰で農耕が難しいという土地の問題もあり、長く支配の外にありました。しかし、朝廷による日本統一の圧力を中世に受け、東北地方同様に縄文人の末裔が海を越えて支配の外にはじき出された、その一派が沖縄へ流れ込んだのではないかと推測します。

蝦夷に対して隼人と呼ばれる辺境の縄文人末裔の集団がこの時代大量に流れてきたのだと思います。彼らは戦闘の意識はありませんが、既に文明時代を経て農耕技術や文字の習得は得ていました。いわば、縄文気質を持った文明人が沖縄のネットワークを作る人的要因となっていったのです。彼ら(又は彼らに誘発された沖縄土着民)はグスク時代を経て交易を用い、700kmに及ぶ沖縄諸島を一つの政治的まとまりとして繋いでいきました。

 

琉球王国では国家間の貿易を「御取合い」と呼びます。この事が象徴してるように交易の最大価値を琉球では収益や搾取ではなく、商売によって相互の関係を取り持つ“共生”事業と捉えていたようです。また最大の価値はそれによって武力も財力もなかった沖縄を諸外国からの戦争圧力から守り、維持していったのです。

人類史において古代市場は須らく、国家誕生と同時に発生し、市場対象は宮廷、商品は贅沢品に代表される珍しいもの、商人は国家に寄生し、交換関係によって財を蓄える搾取、略奪の性格を持っていました。国家と共生しながらも私権社会と同時に登場した徹頭徹尾私権的な存在でした。

しかし、琉球で登場した商人集団は幾分その要素を外れており、外圧から集団を守る為に必然として生まれた交易集団でした。商業が略奪と共生という両方の要素を兼ね備えているとしたら、略奪の色を少なくし、共生に特化したのが沖縄の商人集団であり、世の主だったのではないでしょうか

 

【琉球王国時代の中国への意識】

沖縄は朝貢関係を保ち、明の下に組み込まれながらも決して魂までは売りませんでした

その事例が朝貢使への態度です。沖縄では女性の踊りは神の前で民に捧げるものとして自集団の存続の為に重宝にしていました。しかし、朝貢使への舞踊をしたのは男のみで、女性の踊りは差し出さなかったのです。悟られては困るのでこの時代、踊りは男が踊るものとして変えてしまいます。さらに首里城を中国一色にしながら、庶民の生活拠点には中国文化は入れていません。琉球存続に明は必要でしたが、明の文化も思想も受け入れる事は明確に拒絶しており、面従腹背という状態が琉球と明の関係でした。これは後の沖縄の人々の意識にも引き継がれており、本土返還の後の沖縄の人々の意識も決して日本政府を手が出せないお上と捉えず、したたかに自らの生きる場を自らで考えて粘り強く交渉しています

 

【琉球の御取合いが示す別の社会の在り様】

以上、琉球が支配や侵略ではなく明確に自治の意識を持って運営されていた事を示しました。ここまでの追求をしてきましたが、もう一つの提起をしておきたいと思います。

中国、欧米など世界が作ってきた社会とは略奪、国家その延長での弱肉強食の私権社会です。沖縄はその間にあって、私権社会のルートを通らずに国家を形成し、継続させた稀有な地域ではなかったのでしょうか?その中心に交易市場があったことは何かを示唆しているように思います。つまり人類史には力の原理にのっとった社会の作り方と、互いに共存しようとする力学、琉球流に言えば御取合いの社会の2つのパターンがあるのではないでしょうか?

これは次の時代への可能性として一つの発想ですが、「共生を社会の中心原理にする」そんな形が沖縄の歴史の中に隠されているかもしれません。

投稿者 tanog : 2014年06月26日 List  

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コメント

>おそらくは九州から種子島、奄美を経て辿りついた一派だと見ています。

壇ノ浦で破れた平家の一族・関係者ではないでしょうか?
宮古島の平良姓は、平家の末裔という言い伝えがあるそうです。

投稿者 板坂健 : 2014年6月28日 10:29

>壇ノ浦で破れた平家の一族・関係者ではないでしょうか?
宮古島の平良姓は、平家の末裔という言い伝えがあるそうです。

確かにその説は有力ですね。時代的にも・・・
またその後の沖縄が商人として栄えたのも、平家が既に貿易のノウハウを国内で真っ先に開発していたことと符合します。
平家は元は縄文系とも言われますし・・・。

有効なコメントありがとうございました。

投稿者 管理人 : 2014年6月30日 12:43

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