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2010年03月27日

宗教ってなに?~1.宗教の認識論と近代思想

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フランス革命記念日よりお借りしました。
こんにちは 😀
新シリーズ「宗教ってなに?」が始まりました。
私たちのグループでは、これまでにもユダヤ教やキリスト教などの宗教史を扱ってきました。
カッピカピ:「ここにきて、そもそも「宗教ってなに?」という根源的な問いを扱うことになったのはなんでですかね?」
ちわわ:「それはだね…」
くまな:「これまでずっと宗教について勉強してきて、前回と前々回で縄文人から本源性を学んだから、ここでまた宗教に戻れば、本源性の中身をより広い視点から追求できるんじゃないかな。」
ぴんぐ~:「そっかぁ
S:「…zzz ん?応援よろしくお願いします。 Blog Rankingにほんブログ村 歴史ブログへ
くまな:「…とりあえず、るいネットから宗教ってなに?の答えを出すための参考投稿を探そうか」
S:「はい!」

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宗教の認識論と近代思想   北村さん」より

宗教及び近代思想の一つの特徴はその「あるべき世界」を理念として掲げることにあります。哲学用語的に言えば「当為」=「○○たるべき」という認識手法です。
さて何故「当為」の世界が必要になったか?は中々難しい問題ですが、おそらく歴史的には現実世界の可能性の閉塞から来ている認識論なのではないか?と思います。
つまり現実の世界を動かす可能性が封じ込められているので、非現実の当為の観念に立脚したということなのでは無いでしょうか?
この認識論はもともと近代思想の発明ではありません。西欧の宗教以来の認識論です。
つまり現実世界は身分制度や絶対権力によって、一切の可能性を封印されていた。しかし人間は精神的存在です。本来の人間の可能性やあり様を「神の世界」に置きそれで意識を統合しようとした。宗教の基盤と意義はそのあたりにあったのではないかと思います。
近代思想はいわばその神の世界の位置に「人間」をとって代えた。代えた理由はおそらく身分制度の桎梏から解き放たれ、市場での経済的利益の追求の「自由」が生まれ、少なくとも現実の可能性が半分開けたからではないかと思います(ただし利益競争や出世競争を担う「個人」として)。
しかも宗教が持っていた生活規範(超越規範)としての側面も剥奪し文字どおり私的欲望の主体としてのみ個人を解放したのです。
ただしついこの間までは、資本の「力の論理」によって相変わらず半分は現実の可能性は封印されていました。だからこそ現実の「力」に対して「当為」を持出すしかなかったというのが一つの解釈だと思います。
しかしこの観点で見れば、これは対抗手段としての見果てぬ夢です。
それだけではなく既にこの倒錯の一人歩きによる弊害の方が強まってきました。
このような理念=スローガンに代わる「事実の認識」への転換が要求されている時代が既に到来しているのでは無いかと思います。

古代宗教は、身分制度の下位の奴隷が「苦痛の日々、この変えられない現実」はあるが、「宗教、神を信じていれば、あの世で救われる」という欺瞞観念で成り立っています。ユダヤ教やイスラム教には厳しい戒律があり、まさに「○○たるべき」という思想といえます。
一方、身分制度が無くなるときに形成された近代思想では、個人の私権追及の可能性が開かれた為、封建的な身分序列はなくなった一方で、資本の身分序列が誕生しました。つまり「自由」「平等」(個人は自由であるべき、個々人は平等であるべき。これも「○○たるべき」という思想)という思想でありながら、現実に序列はなくなってはおらず、資本(遺産)の相続という形で、封建制度よりも身分は固定的なものになっている。近代思想は、思想と現実が倒錯している倒錯観念で成り立っています。
ここで改めて、「宗教ってなに?」を考えてみると…
縄文時代は飢饉になることも少なく豊かであったため、苦痛から救われたいという思いはそれほどなく、日々がんばっていれば報われる日もあり、宗教や近代思想の必要はありませんでした。一生懸命自然を対象化していれば、自然は期待に応えてくれていた時代でした。
飢饉が続き、苦痛からちょっとでも救われたい、という思いから生じたもの、現実には見えないものを信じることにしたものが宗教であり、宗教は自然の中では生まれて当然の、本源的なものであるということができるのではないでしょうか。

投稿者 staff : 2010年03月27日 List  

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