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2016年12月31日

織田信長の真実

旧来の秩序を壊し、戦国乱世を切り拓いた「破壊者」――。日本史上、最も有名な男と言っても過言ではない織田信長に対して、多くの人がそのような人物像を思い浮かべることでしょう。

しかし近年、そんな従来のイメージに囚われない、「新たな信長像」が提議されています。新史料の発見、あるいは史料の解釈の変化によって、これまで常識として語られてきた「通説」が改められることは、歴史研究ではしばしばあります。

今回はそんな織田信長に関して見直されている史観と謎をいくつか紹介したいと思います。

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WEB歴史街道http://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/2266?p=1より

■信長が目指した「天下」の概念

戦国史において従来、「日本全国」を指す言葉として「天下」が用いられてきました。しかし近年では、「天下」とは主に「畿内」を指す言葉とされています。そして各大名は日本全国の統一など目指しておらず、単純に自国の領土を拡げることのみに注力していたとする考えが一般的になってきているのです。

また、信長は美濃を手中にするや、「天下布武」の印判を用い始めたことから、その時から全国統一の野望を抱いたと語られてきました。しかし、この際の「天下」も、「日本全国」を意味しないとする解釈が広がっています。  しかし信長は「天下布武」を掲げた瞬間から全国統一を意識し、その点で武田信玄や上杉謙信ら他の戦国大名と一線を画す存在でした。信長は後に畿内周辺どころか中国の毛利氏、四国の長宗我部氏と相対しました。あれだけの軍事的規模と、同時並行で各所に戦いを仕掛ける姿からは、畿内や近国を押さえるだけでなく、「その先」を見越していたと感じずにはいられません。

■足利義昭、室町幕府との関係性

信長は「天下布武」を掲げた後、足利義昭を奉じて上洛し、義昭を15代将軍につけて幕府を再興します。従来は、当初から室町幕府体制の打破を目指しており、義昭と手を結んだのも傀儡政権を築くためであった、とされてきました。ところが近年、信長と義昭は「良きパートナー」であり、最終的に決裂したのは義昭が信長を裏切ったからで、信長は本来、室町幕府を転覆させようとは考えていなかった、とする見方が有力です。

しかしこの点に関しては、従来の説も捨てきれないのではないでしょうか。確かに、信長と義昭は以前から言われていたような険悪な関係ではなかったのでしょう。信長は当初より義昭をトップに置きながらも、自らが実権を握ろうとしていた、つまり「傀儡政権」樹立を目論んでいたと考えています。信長は、義昭から管領や副将軍の役職に就くことを打診されていますが、これを拒みました。後々、幕府体制を打破する時に、謀叛人と誹られるのを避けるためであれば、この行動も腑に落ちます。

■なぜ、信長は「全国統一」に近づくことができたのか

信長が掲げた「天下」の意味や、幕府や朝廷との関係性がどうであれ、彼が全国統一に迫ったことは確かです。近年、信長の「先進性」に異が唱えられていますが、この点は揺るがぬ事実であり、「なぜ、信長だけが他の大名とは異なり、全国統一に目を向けることができたのか」は戦国史の大きな命題でしょう。

「真実の信長」を紐解くカギは「経済力」です。信長の原動力は「富の力」でした。義昭からの副将軍の提示を蹴った信長は、一方で堺と近江の大津、草津を直轄地にします。普通の大名ならば権威を欲するでしょうが、信長はあくまで「実利」を取りました。トップがこうした合理的な思考を持てばこそ、織田家は飛躍的に成長し、畿内に留まらず全国を視野に入れる「余裕」を持てたのでしょう。

■小牧山城に見る信長の革命観

iRONNAよりhttp://ironna.jp/theme/174

今年2月に愛知県小牧市教委が発表した小牧山城の発掘調査では、信長が自身の手で初めて築いたとされる小牧山城は、従来考えられていた2段備えの石垣ではなく、3段の石垣を構える本格的な城郭だったことが明らかになった。

小牧山城は、後に信長が現在の滋賀県近江八幡市に築く安土城のルーツとされ、織豊系城郭の系譜をたどる研究においてもその存在価値は高い。今回の発掘調査が意味するのは、近世城郭の始祖とされる安土城にも通じる高度な石垣造りの築城技術を当時の信長が既に有しており、他の戦国大名よりもはるかに優れた技術力やアイデアを持っていたことを顕著に物語る。

信長研究において、第一級資料とされるポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの自著「日本史」によれば、フロイスが安土城を観覧したとき、技術の粋を結集させた荘厳な天主と他者を圧倒する要塞としての側面を持つ巨大な建造物に「かつて見たことがないほど壮大な宮殿」と驚かずにはいられなかったという。

この記述に込められたフロイスの真意を想像すれば、当時の信長の「先進性」と「斬新さ」を疑う余地はない。築城技術一つをとっても、信長はやはり革命児だったのである。

■桶狭間の戦いの真実は?

逸脱!歴史ミステリーhttp://ncode.syosetu.com/n6873bm/8/より

信長の戦勝する確率は七割ほどだったと言われます。意外と勝ってるじゃん、と思われるかもしれませんが、一敗が命取りになる戦国の世においては、この戦績でよく生き残ってこられたと驚くほうが正しいでしょう。事実、武田家や上杉家は戦勝率九割を超えていたそうですから。   その危うげな信長は、でも二六歳の年までそれほどの大きな戦を経験することもなく、ほぼ不敗の成績を打ち立ててきました。そして迎えた『桶狭間おけはざまの戦い』。おそらく日本がいまのように我慢強く堅実な社会を築いて来られた礎となった戦いでしょう。貴族の母を持ち戦国武将としては政治家の資質のほうを取り沙汰される今川義元を、生粋の武家社会の中で鍛えられた信長が打ち倒した、非常に大きな意味を持つ戦です。

以前から小競り合いを起こしていた織田氏と今川氏。ところが今回の義元は本気でした。信長に大した兵力がないことを見抜いていながら四万もの大軍を引き連れてきたんです。過たず、五千に満たないほどの兵士でこれを迎えなければならなかった信長。最終的に清州城を出た信長の軍備は四千人でした。まさに一〇分の一。

決戦当日。朝から織田勢の砦を三つも潰した義元は気を良くしていました。そこに地元の信長に反感を持つ民が「どうかがんばってください」と酒や食べ物を振舞ってきたのです。すでに織田軍なけなしの四〇〇〇の兵さえ半分に減らしていた義元は、絶対の勝利を確信して宴を開いたのです。午後一時。それまで晴れ渡っていた空からにわかに豪雨が叩きつけてきました。酔っ払いながらも慌てて避難しようとした義元の背後すぐに、なんと信長の家臣が立っていたのです。服部小平太は斬りつけるも義元の反撃に遭い負傷してしまいます。そこで信長の小姓(身の回りの世話をする少年。森蘭丸もこの一人)の毛利新介がとどめを刺しました。大将とも言える位置にあった義元の死によって、今川軍は総崩れになるのです。   実はこれらの記述は『信長公記しんちょうこうき』によるもの。この史料は信長の功績を記した書物です。つまり信長の不利になることは書かない。実際、信憑性を問う声も上がっています。   では桶狭間で行われた真実はどうだったのか。

桶狭間の戦いでは、まず前哨戦とも言える小さな戦いが名古屋近郊で繰り広げられました。名古屋の東南に位置する丸根砦と鷲津砦に迎撃軍を待機させていた信長に対し、今川の同盟国の松平元康まつだいらもとやす(後の徳川家康)と家臣の朝比奈泰朝あさひなやすともが襲撃をかけたのです。そしてまず松平元康が丸根砦を、朝比奈泰朝が鷲津砦を難なく陥落させました。というのも信長はこれらの砦に五千人ぐらいしか配備していなかったです。今川軍が進撃してくれば当然ここを突破してくるのにそんなに力を注がなかったんです。調子づいた今川軍はさらに中嶋砦も攻め全滅させます。信長の拠点とする砦はこの敗北で残り二つになってしまいました。圧倒的な劣勢です。

が、これが信長に思わぬ勝機をもたらします。相次ぐ戦勝の報告に油断した今川軍が酒宴を始めたからです。

これを仕掛けたのが信長が今川軍に送り込んでいたスパイ蜂須賀小六。全ては信長の計算どおりだったのです

■本能寺の変の真実

しばやんの日々http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-97.htmlより

天正10年6月2日、織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺で主君信長を襲った「本能寺の変」については何度もドラマ化されて、知らない人がいないくらい有名な事件だが、この事件で織田信長の遺体が見つからなかったという記録があることを最近になって知った。

信長は本能寺で自刃したことになっているのだが、遺体が見つからないのになぜ自刃したと言えるのか、誰が自刃するのを見たのか、なぜ死んだと言えるのかなどと多くの人が疑問に思うに違いない。  「自刃した」と書かれているので明智軍の武将が信長を斬ったのではないことは確実だが、もし信長の遺体が発見されなかったのならば、明智軍にとっては、信長が逃げて生き延びた可能性を否定できないはずである。

織田信長はこの本能寺をよく上洛中の宿所として利用していたそうだが、事件のあった日に本能寺から200mほど離れた教会にいた宣教師ルイス・フロイスの記録が残っている。この該当部分を読んでみよう。

 「…本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達すると、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。ところでこの事件は市(まち)の人々の意表をついたことだったので、ほとんどの人には、それはたまたま起こったなんらかの騒動くらいにしか思われず、事実、当初はそのように言い触らされていた。我らの教会は、信長の場所からわずか1町(ルア)を距てただけのところにあったので、数名のキリシタンはこちらに来て、折からの早朝のミサの仕度をしていた司祭(カリオン)に、御殿の前で騒ぎが起こっているから、しばらく待つようにと言った。そしてそのような場所であえて争うからには、重大な事件であるかも知れないと報じた。まもなく銃声が響き、火が我らの修道院から望まれた。次の使者が来て、あれは喧嘩ではなく、明智が信長の敵となり叛逆者となって彼を包囲したのだと言った。」(中公文庫『完訳フロイス日本史3安土城と本能寺の変』p147-148)

「明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真先に警備に当たっていた守衛を殺した。内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には宿泊していた若い武士たちと奉仕する茶坊主(ラパードス)と女たち以外は誰もいなかったので、兵士たちに抵抗する者はいなかった。そしてこの件で特別な任務を帯びた者が、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭いで身体をふいている信長を見つけたので、直ちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀という武器を手にして出てきた。そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。だが火事が大きかったので、どのように彼が死んだのかは判っていない。我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上になんら残存しなかったことである。…」(同上書p148)

このように、フロイスの記録によると信長がほとんど警戒しておらず、無防備に近い状態であったことは間違いがなさそうだが、信長の死の場面についてはこんなに現場に近い場所でも諸説があったことがわかる。 しかしなぜ信長の遺体が見つからなかったのだろうか。木造建築物が火事になった場合の温度は1000度程度だ。「生きながら焼死」したのがわかっているのであれば、この温度で骨が残らないのは不自然だ。

Wikipediaによると、  「光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという別説がある。また信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来・弥助がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明となっている。」と書いてある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7 遺体については火薬で爆散したという説を支持しておられるようだが、それならばフロイスの記述の中に、爆発があったことが書かれていないのが不自然だ。 よしんば火薬の爆発があったとしても、信長の遺体や遺品がいくら探してもみつからなければ、信長が逃亡して生き延びている可能性を考えない方がおかしいような気がする。なぜこのことを議論しないのだろうと思っていると、ネットでこんな記事が見つかった。

次のURLに、いずれも江戸時代の初期に書かれた小瀬甫庵の『甫庵信長記』、松平忠明『当代期』で光秀が行った信長の遺体の捜索状況について書かれている部分が引用されている。 http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide081.htm

小瀬甫庵の『甫庵信長記』では 「御首を求めけれどもさらに見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も恐れはなはだしく士卒に命じて事のほかたずねさせけれども何とかならせ給ひけん、骸骨と思しきさえ見えざりつるなり。」と記している。  『当代記』では「焼死に給うか。終りに御死骸見え給わず。惟任も不審に存じ、色々相尋ねけれども、その甲斐なし。」とある。  「惟任(これとう)」というのは明智光秀のことだが、もし信長の遺体が見つからないのであれば、光秀は信長の生存を怖れないはずがないと思うのだ。

『甫庵信長記』は文学作品としては読まれても、記述の3割以上がフィクションで史料としては評価されていないのだが、では史料価値が高いとされている『信長公記』ではどう記述されているのか。つぎのURLでその原文を読むことができる。 http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/sintyokouki_16.pdf

そこには、  「信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし侯へば、何れも時刻到来侯て、御弓の絃切れ、其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是れまで御そばに女どもつきそひて居り申し侯を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来なり侯。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ侯か、殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ、…」(巻十五、「信長公本能寺にて御腹めされ侯事」) と、ここには信長が自刃したことは書かれていても、遺体のことについては何も書かれていない。

ところが、同じ日に信長の嫡男である信忠が二条新御所に篭城して明智軍と戦い、最後に自害する場面では『信長公記』にはこう書かれている。  「…三位中将信忠卿の御諚には、御腹めされ候て後、縁の板を引き放し給ひて、後には、此の中へ入れ、骸骨を隠すべきの旨、仰せられ、御介錯の事、鎌田新介に仰せつけられ、御一門、歴貼、宗従の家子郎等、甍を並べて討死。算を乱したる有様を御覧じ、不便におぼしめさる。御殿も間近く焼け来たる。此の時、御腹めされ、鎌田新介、冥加なく御頸を打ち申す。御諚の如くに、御死骸を隠しおき、無常の煙となし申し、哀れなる風情、目も当てられず。」(巻十五、「中将信忠卿、二条にて歴々御生害の事」) と、信忠については遺体を隠す命令を出したことが明記されている。

『信長公記』には信長の遺体については書かれていなくとも、信長が信忠と同様の措置を部下に指示した可能性は高いと思われる。

しかし信長の遺体は、後日秀吉が探しても見つからなかったという。 ということは、信長の遺体を余程わかりにくいところに隠したか、遺体を外部に持ち去った人物がいるのか、明智軍が遺体を確保したがその事実を秘匿したか、あるいは隙を見て信長が逃亡するのに成功したかのいずれかだろう。  次のURLでは本能寺の変の黒幕がいて、明智軍が遺体を確保したが秘匿したという推理をしているが、この説も面白い。確かに、もし信長が生きていたら、明智光秀は信長からいつ報復を受けてもおかしくないのだが、なぜ悠長に京都にとどまっていたのは不自然だ。 http://www.uiui.net/~9musai/pc/odanobunaga/NobunagaChapter-020102.htm

話を元に戻そう。信長や信忠はなぜ部下に自分の遺体を隠せと言ったのだろうか。  一言でいうと、当時は首級を晒すことによってはじめて、その人物を討ち取ったことを世間に認識させることができた時代なのだ。もし明智光秀が信長の首を討ち取っていれば、その後の歴史の展開は大きく異なっていた可能性が高いと言われるほど、相手の首級を取ることが重大事であったのだ。

摂津の梅林寺所蔵(天正十年)六月五日附中川瀬兵衛尉宛羽柴筑前守秀吉書状にこんなものがある。  「上様(信長)并(ならびに)殿様(信忠)、何も無御別儀御きりぬけなされ候。ぜゝか崎へ御のきなされ候内に、福平左三度つきあい、無比類動候て、無何事之由、先以目出度存候云々。」  要するに秀吉は、信長も信忠も巧みに明智の難をまぬがれて無事であったという具合に茨木城主の中川清秀に宣伝しているのだ。

秀吉は、こういうニセ情報の手紙を各地に送り、他の武将が明智光秀に味方するのを妨害したということだ。  信長の家臣の大半が日和見を決め込んだのは、信長の首が見つからなかったことがかなり響いているのではないか。明智光秀は秀吉の情報戦に敗れたとはいえないか。  当たり前のことなのだが、テレビもラジオも写真もなく、手書きの文書と口頭報告で情報を伝えていた時代のことだ。ニセの文書もいくつも作られていたことだろう。有名武将の死を広めるには、人通りの多いところで晒首にすることが明治維新の頃まで続いたことを忘れてはならない。要するに敵方の武将の首を取ることができなければ、情報戦に勝つことは難しい時代だったのだ。

ところで、遺体がなかったはずの織田信長の墓が全国に何か所もあるのは面白い。  一つは京都市上京区にある阿弥陀寺の石碑。当時の住職が本能寺の変直後に家臣が信長の遺体を火葬した場に遭遇し、その遺骨と後日入手した信忠遺骨を寺に葬ったと伝えられている。  一つは京都市北区にある大徳寺総見院の五輪塔。この寺は秀吉が建立し、木造を2体作って1体は火葬し、1体を寺に安置したという。  一つは静岡県富士宮市の西山本門寺。ここには原宗安が本能寺の変で戦死した父と兄の首とともに、信長の首を持ち帰り首塚に葬ったという話が残されている。  他にも、高野山奥の院、安土城二の丸跡、岐阜市崇福寺、名古屋市総見寺などがWikipediaで紹介されている。

 

 

 

投稿者 katsuragi : 2016年12月31日 List  

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