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2014年09月16日

仏教に未知収束の志を見る~第4回 儒教が成した未知収束とは?

こんにちわちわわです。

これまで、仏教が「未知収束」に基づく追求の中で生じた思想であることを検証してきました。今回は、同じ時代、中国で起こった儒教について考察してゆきたいと思います。

kousinozou

儒教は日本でも規範や学問として江戸時代に庶民にまで浸透したことは以前このブログでも紹介しましたが、仏教と儒教はかなり別物ととらえた方がよいでしょう。
仏教が瞑想によって対象、世界観を追求しようとした抽象的思考、その地平にたどり着くのが困難であるのに対して、儒教とは同じ抽象的思考ではありながら、判り易く、直ぐにでも実践できる規範、心得の思想です。仏教が未知そのものを追求したのに対して儒教とは追求をする前の心得、志を指し示したものでした。その真髄は「仁」にあったのです。

儒教とは何か?果たして儒教もまた未知収束なのか?それを知る上で、まずは儒教を起した孔子を見ていきます。孔子の生涯は「史記」によると以下のように書かれています。

西周中期以降、礼楽は廃れ、諸侯はおこないを恣(ほしいまま)にし、強国が政治を牛耳った。孔子は、王道が衰え、邪道が興ることを傷み、詩書を整理し、礼楽を整えた。しかし、世の中は混濁を極め、孔子を任用することができる諸侯はいなかった。それゆえ、七十以上の君主に仕官を求めたが、徒労に終わった。

司馬遷は、孔子を、混濁しきった世の中を立て直すべく高い理想を掲げ、努力を重ねながら、誰にも理解されなかった人物ととらえています。儒学は漢の武帝が国学とするまで、日の目を見ることなく秦の始皇帝の焚書坑儒に見られるように徹底的に弾圧されてきました。
今回は孔子の生きた春秋・戦国時代とはどんな時代だったのか?を紐解きながら、孔子の目指した「仁」とは何かに迫っていきたいと思います。

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【孔子が一生をかけて追い求めた理想とは?】

「先秦政治思想史」によれば、
孔子に端を発する儒家の理想とは、仁の世界の実現であり、それは、「政治的上位者が身をもってまず実行することによってのみ可能となる。社会のすべての人々が情に厚く、心優しく、共に仁に向かえば、天下国家の治事は容易に達成できる。」とある。

孔子自身は仁の定義を明確に示してはおらず、あれこれ観念で固定することなく、まず実行することを弟子たちにそれぞれ具体的な実践方針として問うている。

①仁を実行するのは自分の力であって、他人の力に頼るのではない。(顔淵)
②実力のない者は途中で放棄する。前に進めないのは自分自身で限界だと決め込んでいるだけである。(擁也)
③知っていることを知っているとし、知らないことを知らないとする。これが知るということである。(為政)
④考え過ぎず、決めてかからず、頑固にならず、我を張らない。(子牢)
⑤過ちを犯しても改めないこと、これを過ちという。(衛雲公)
⑥広く学び、熱心に志し、必死に問いたずね、自分の問題として考える。仁はそうした過程の中にある。(子張)

つまり、孔子が主張したのは、人は自己の理想をどのように追求すべきか、他者に対していかに臨むべきか、社会とはどう折り合いをつけるべきか、といった倫理、教育、政治の原点にかかわる事であり、人が生きる上での最も根源的な原則ともいえるものであった。

【孔子の思想の背景にある周~春秋時代の戦争のありよう】
春秋時代の書物の記述のうち4割が、軍事、戦争にまつわる記述とされる。それは、当時戦争が人々の最大の関心事だったからである。
孔子自身も、祖先から引き継ぐ軍門の出であり、自ら戦士としても戦った。
周から続く、春秋までの戦では、春秋以前の君主は祭祀の主宰者である一方、戦争の最前線で指揮を執り、実際に戦闘行為に参加する戦士でもあった。

軍礼とは、窮地にある敵、脆弱な敵、負傷して戦意のない敵、喪中の敵などに対し攻撃を控える、また、原則として攻撃は交互に行う。さらに、自軍に被害を与えた敵であっても、その勇気と武芸が格別であれば、最大限の敬意を払う、といった行為を意味する。
時にはなんと、戦場で対峙している敵、あるいは、行軍の途にある敵に対し、戦闘や行軍の労苦をねぎらって飲食物を与えることすらあった。軍礼の存在はまた、逃亡した敵は追わず、降伏した兵に誅罰はおよばない、幼兵は殺さず、老兵は捕虜としなかった。

これらの軍礼は仁の精神の実践として理解することができる。要するに、敵の立場に立って敵が望まぬ攻撃を控えているのであって、それは「己の欲せざるところは人に施すことなかれ。」というの精神であり、敵の立場に立って、敵の望む臨戦ならびに攻撃態勢の確立を、己のそれよりも優先させるのは、まさに「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達する。」というの実践を行っているのである。
つまり、軍礼はその本質において、忠恕すなわち仁の実践であると見ることができる。

【社会変動と軍礼の消滅】
周初に成立して春秋末まで継続した「封建帝国」においては、周王を頂点として多くの封君がピラミッド状の階層を形成した。それぞれの封君は、上層の封君に対して臣を称しはしたが、実質的には一地域の世襲的な統治者であり、かつまた地主であった。さらに、彼らが帰属する親族組織が祖先祭祀によって秩序を維持する祭祀集団でもあった。こうした社会基盤が戦場における軍礼を生み出していたといえる。

しかし、孔子の時代には、こうした社会基盤が既に崩壊しつつあった。
そして、当時導入されつつあった国家授田制がそれ以前の分節的な土地所有形態を一掃するものとなった。

戦国時代における鉄製農具と牛耕による生産力の発達は、春秋時代以前の大規模集団による共同耕作を不要とし、五口の家が農業生産を担う主体となることを可能にした。
一方、国家の側も、もはや卿大夫への分封は行わず、納税と兵役の負担者である農民を直接把握し、小農民を戸籍に記録した上で、家毎に百畝の田を受給し、収穫量に応じた納税体制が成立する。これが国家授田制である。
農民は国家から直接支配されることになり、国君だけが真の意味の「君」となり、かくして、自立的な封土の長としての戦士は消滅することになる。
祖先観念の方は、朝廷へと移行し、祖先が介在して成立する共同体から、祖先の介在を必要とせず、人と人とが形成する共同体へと移行した。

これにより戦争もまた一変する。

戦闘人員は春秋では貴族と国人だけであったが。戦国には徴兵制により集められた農民へと変わる。軍隊の指揮は春秋では国君や卿大夫が自ら軍鼓を鳴らして行ったが、戦国になると将軍や兵法家が登場する。また軍隊の規模は戦車数百乗と戦士数万人であったのに対し、戦国では30万から100万の大規模な軍隊に拡大する。
よって、戦争に要する時間も春秋では1日か2日で終結する短期戦であったが、戦国では数年も続く持久戦が行われるようになる。
戦場での勝敗のみで勝負が決まった春秋に対し、戦国では交戦国の経済、政治、人口、技術水準などの全てを含む総合力、さらには、民気も勝負に関係してくるようになる。
かくして戦争においては勝利と戦功を上げることが最大の目的となり、手段は問われなくなる。
「孫子兵法」によると、
「兵はき道である。だからこそ能力があっても、無いがごとく見せ、利益を与えて誘い出し、混乱させて奪い取る。備えがないところを攻め、その不意をつく。」
「敵の考えの及ばないところに乗じ、想定外の方法を用い、無警戒のところを攻める。」
「戦闘は騙すことを根本とし、利益を得るために行動する。」
戦争は、貴族戦士がたがいに武芸を正々堂々と比べあう機会ではなくなり、軍礼は消滅した。戦国時代と春秋時代はその間で私権社会への突入を果たしているのであり、孔子とはその両方の時代を生きた人物であった。

【儒教が成した未知収束とは】
孔子が生きた時代は、戦乱の度が増し、本源社会から私権社会へ突入してゆく、まさに社会の大きなうねりの中にあった。それまで維持してきた本源集団が解体され、集団の中に暗黙のうちにあった秩序が崩壊し、何によって集団統合するか混迷を極めた時代だったといえる。そこに登場するのが諸子百家であり、中でも法による統合を目指す国が次第に力を増してゆき、ついに秦の始皇帝により法治国家として中国全土は統一される。

儒教は五常(仁、義、礼、智、信)という徳を拡充させることにより、五輪(君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教えている。中でも孔子は「仁」という観念で戦乱の世を統合しようとした。
「仁」とは、世の為、人の為に役に立つ行動をする意思、すなわち「志」である。
周から春秋時代まで潜在思念の中に眠っていた規範を言葉に置き換え、観念を作り出したのが孔子の成した偉業である。今日では当たり前として存在する規範を人類史で初めて言語化した事が孔子の最大の功績と見ることもできる。
孔子自身は釈迦のように世界観を見つけ出してもいないし、瞑想もしていない。しかし、仁という規範を確立するために無数の言葉を使い、伝え、実践し、変化する社会に楔を打つ事を試みた。一たび、仁の認識を得る事で追求の足場が出来上がる。互いに仁を共有する事で同志になる。そうやって私権社会の中で辛うじて追求の姿勢を維持したのではないだろうか?
現在、女子高生でも仁という言葉や意味を伝えると判るという。世の為、人の為に生きる事が逆に現在脚光を浴びている。2000年の歳月を経て今も使われるのはそれが志を表す規範であるからである。

閉塞した世の中こそ、人々は活力を持って生き抜く必要に迫られる。
活力の源は外圧に適応した内面の圧力にある。その内圧を高めるために「志」が必要であり、それは、他人や集団を想う気持ちを原動力とし、自らの意思で実践することによって形成が可能となる。孔子は春秋の閉塞した時代にその法則を見出したのである。
そういう意味で孔子もまた「未知収束」を体現した人物だったのかもしれない。

現在も当時とは状況こそ異なれ、同様に閉塞感に包まれた時代といっていいだろう。
今。論語が注目されているのは、人々が「志」を求めてさまよっているからである。

投稿者 tanog : 2014年09月16日 List  

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