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2019年02月07日

「縄文時代、人は何を考え、何を築いてきたか」 第2回 翡翠の道を追う(前半)

翡翠が縄文時代を通じて最も価値が高く、重宝であった事は既知の事です。
翡翠の道と言われるように全国北は北海道から南は沖縄まで糸魚川で採掘された翡翠が確認されており、黒曜石と並んで縄文贈与の象徴物とされています。
しかしこの翡翠についての採掘から利用方法、移動手段の情報(=ディテール)はこれまであまり注目してきませんでした。今回も「縄文探検隊の記録」の中から翡翠に関して書かれた記事を紹介してみます。

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■は私の問いかけ >は著書の抜粋

 ■翡翠とはどんな石?
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>蛇紋岩層に入り込んでいる硬い鉱物、輝石の一種で、白く緻密な組織の中に部分的に緑色を含んでいます。緑とは限らず、青紫色のものや赤っぽいもの、黒っぽいものもあります。

白い部分も鉱物学的には翡翠です。質的な特徴としては比重が大きくて硬い。ダイヤモンドも固い石ですが、衝撃に砕けやすいのに対し、翡翠は粘り強さもあって割れ難い特徴を持っています。中国の翡翠は軟玉と呼ばれ、ネフライトという翡翠とは全く異なる種類の鉱物です。色が似ているので翡翠と呼ばれています。

軟玉も硬玉も全国の遺跡から出土していますが、宝石としてのランクは硬玉翡翠の方がはるかに上です。硬く割れにくいということは加工もしにくいという事で、縄文人はたいへん苦労して装飾品にしていました。孔を開けるにしても、篠竹のような筒状の工具の先に研磨用の砂をつけて錐もみ式に押し付け、少しずつ窪ませていきます。再現してみるとやはり相当な時間がかかりました。

■宝石の条件とは~
>宝石は美しい色や輝きを持つ石を指しますが、宝石に列せられるためには、もうひとつ条件が必要です。それは希少性です。日本では10箇所ほどの地域で翡翠の産出を確認できますが、糸魚川市内には大きな翡翠の産地が2箇所あり、国指定の天然記念物になってきています。このエリアから産出した翡翠は量、質ともに他の地域を圧倒しています。
糸魚川と言えばフォッサマグナ。翡翠は激しい地殻変動の置き土産なのです

■翡翠の加工や流通は実際どうしていたんでしょうか?
縄文人が翡翠に注目したのは今から7000年前の縄文前期です。はじめの位置付けは石斧を作るための工具で6000年前あたりから装飾品に加工されるようになります。翡翠と言えば緑色のイメージがありますが、濃い緑色が好まれるようになったのは縄文時代も終わりごろのころで、最初の装飾品には白みがかったものも多く使われています。つまり、翡翠にも流行があったのです糸井川周辺で作られた翡翠の装飾品は北は北海道の礼文島、南は沖縄まで分布しています。
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長者ヶ原遺跡は縄文時代の物流研究の拠点として非常に重要です。翡翠の産出地で加工も行っていたのは、ここ糸井川周辺の遺跡だけです。もう一つの特徴は集落の規模。長者ヶ原遺跡は13ヘクタールあります。関東の縄文集落は広くてもせいぜい2ヘクタール。翡翠の生産拠点でもある長者ヶ原はスケールがとびきり大きいのです。翡翠の流通センターのような機能を持った特別なむらだったと思われます

翡翠がどこへどんなふうに分布しているか、それを調べる事はものが持つ価値や意味によっていろいろ変わってきます。魚や塩が運ばれるエリアはそれほど広域ではありません。これに対し、石器材料の中でもとりわけ高品質な北海道、長野県や伊豆・神津島産などの黒曜石はかなり遠い地域まで運ばれています。その分布状況やルートを見ると、物々交換のくり返しによって手から手にリレーされていったと言うよりも、運び屋のような役回りの人が居て、直接運んだと考えた方が自然だと思います。翡翠は数こそ多くはありませんが、拡がり方は黒曜石よりさらに広域です。九州以北に広がったのは縄文の後・晩期です。

 ■翡翠はどのように扱われたのでしょう?
>翡翠の大珠は大きな集落の墓から出土するようです。どの墓からでも出てくるわけではなく、ごく限られた墓から1,2点だけ。つまり翡翠を持つことはできたのはむらの中でも特殊な立場の人。個人が愛用した装身具というよりは、集落、あるはエリアにおけるその人のステータスを示す象徴のようなものだったのではないかと解釈されています。

糸魚川地方の集落は供給の役割を一手に担うようになっていたわけです。その翡翠製品は具体的にどのように運ばれていたのでしょうか。
陸の主要ルートはフォッサマグナに沿って流れる姫川沿い。ここを遡って信州方面に運ばれています。のちに塩の道と呼ばれる松本街道も、この翡翠の道をなぞっています。
糸魚川からフォッサマグナ沿いに道を進むと塩尻に出て諏訪湖に着きます。諏訪湖周辺の縄文集落は近くで採れる黒曜石を中心とした物資のストックヤードと配送基地のような役割を担っていました。尾根筋も道として使われていますが、道というのはだいたい水の筋に沿ってできるもので、その水が集まる諏訪湖は各地からの道の結束点になっています。黒曜石や翡翠などの貴重なものは諏訪から秩父、埼玉、あるいは八ヶ岳西南麓、甲府盆地、東京、神奈川方面に行きわたっています。

もうひとつの主要なルートが海路です。北日本では東北北部に翡翠が集中しています縄文時代は同じ価値観を共有するむらが文化圏を作っていましたが、そういう場所へ丸木舟で直接翡翠を運んでいたようです。
全国から出土している縄文時代の舟は全て丸木舟です。但しこれまで出土しているの縄文の丸木舟は内水面(河川や湖沼)用のものが多く、海用の船の実態ははっきりしていません。
長さはせいぜい8メートルくらいで波静かな日であれば安定性にかける丸木舟でも航行できたでしょう。小さな舟で海を長距離移動する方法については北海道に面白い記録があります。3槽を繋いで航行するそうです。横に繋げば双胴船のようになって波には強い。けれど船足は遅くなる。だから綱で縦に連なる。こうすると1艘が転覆しても助けることができるそう。ときに危険を冒しながら、わざわざ翡翠を運ぶ報酬はなんだったのでしょう。
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⇒次回へ続く

投稿者 tanog : 2019年02月07日 List  

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