―縄文再考― 縄文土偶の謎に迫る~土偶の使い道~ |
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2022年02月25日
【縄文再考】まとめ①~縄文体質は今も日本人の基層をなす~
こんにちは!
2021年9月からシリーズとしてお届けしてきた【縄文再考】のまとめを行いたいと思います。これまで、45記事の追求をしてきましたが、そのなかで見えてきた中身は何か?新しい認識は何か?今回のまとめ記事ではシリーズを総覧していきます。
縄文再考シリーズの始まりは、この記事。
この記事で課題提起した内容に沿って、以下まとめを見ていきましょう。
①民族における勝ち、負けとは何か。縄文人は負けたのか?
⇒いきなり全体まとめです。
旧石器時代から、既に青森まで到達した古人類(原日本人ですね)。東アフリカの北から南までの各出自の民族が、北から、朝鮮半島から、沖縄諸島から渡来し各地で交配しつつ、出自ごとの文化を保ち続け、多様性の中に各地で生き抜いてきたのが、「縄文人」である、というのが当ブログの結論です。生存闘争に勝って生き抜いてきた一方で、同類闘争では武力衝突ではなく『融合』をもって「縄文時代」を形成した世界的にも稀有な存在です。その後の弥生人(渡来人)の到来でも全面戦争ではなく、むしろ融和する発想を持った背景と言えますね。その後の古墳時代通じ、列島内では権力闘争を除いてほぼ融和で『日本人』を形成してきたということになります。
要するに、民族が自決的に生き抜くことが「勝ち」なのだとしたら、縄文人は明らかに「勝ち」の存在と言えるでしょう。
②縄文人のルーツ。人類アジア起源説の可能性は?
⇒上記の通り、東アジアには既に旧石器時代、さらに遡る原人、猿人時代にも様々な古人類がいて、アフリカ最古より古いインド北西部のシヴァピテクス(1300~800万年前)まで出土しています。さらには、東南アジアにしか生息しないオランウータンとヒトとの分岐が1400万年前、という説もあり、人類アジア起源は十分可能な仮説と言えるでしょう。ただし、古人類の段階でも、アフリカ、欧州、中央アジアなど多様に派生し、交配も相応にあったとすると、本当の起源がどこか(どこからが人類かも含めた)は未だ検討の余地は多分にあります。おそらくは、多地域起源説の方向で考えるのが妥当のようにも思えますね。
一方で、原日本人に通ずる旧石器時代人のルーツについては、当ブログでは下記の結論としました。
【旧石器時代にシベリア経由で到達】
⇒縄文人への系統(北方ルート:陸路)
【旧石器時代に華北・朝鮮半島経由で到達】
⇒縄文人への系統(対馬ルート:陸路)
【南方から沖縄経由で到達】
⇒縄文人への系統(南方ルート:海路)
【縄文時代に華北・朝鮮半島経由で到達】
⇒渡来系弥生人への系統(対馬ルート:海路)
【弥生時代に華北・朝鮮半島経由で到達】
⇒渡来系古墳人への系統(対馬ルート:海路)
➂縄文の母系制社会はいかなるものか。男の役割は?
⇒当時の生活を正確に把握することは困難ではありますが、縄文時代は、女が集落の安定部分(=採取・子育て・土器を用いた煮炊き)を担っていたと考えられます。男は狩猟が主。獲物を捕獲できないことも多かったでしょうから、女に生活を支えてもらっていた側面が多分にあったのではないでしょうか。一方、弥生時代は水稲耕作が全国に普及します。農作業による生産技術が主となり、大陸からの渡来人の影響を大いに受けて、父系制社会が拡がっていったと言えるでしょう。
④土器、土偶の意味するものは?
⇒縄文時代における、母系制社会の母なるもの(自然、出産、採集⇒集団統合)への帰属意識(祈りでもある)を土台にした表現、他集団への持ち運び(贈与、婿入り)の役割を担っていたのが「土器、土偶」と言えるでしょう。母なるものへの祈り≒集団への祈りでもあるため、祈りの強いもの(華美なもの)は高い共同体思考があるものとしての証になります(他集団への証明にも)。弥生時代からは、父系制社会なので、母なる土偶はその必要性を失っていったと考えられます。日本列島で土偶の次に偶像が現われるのは、古墳時代の「埴輪」を待つことになりますね。
⑤弥生人は何者か?
⇒端的な結論として、大陸からの渡来人であるということになります。しかも、朝鮮半島の出自である可能性が多いに高いです。水稲耕作の技術を本格的に日本列島に流布しつつ、縄文人も拒絶ではなく受け入れていたと考えられますから、徐々に融和と交配を繰り返していったと考えられます。ただし、ココで生まれた支配層が「武力」という概念も日本列島に持ち込んだと言えるでしょう。
⑥弥生人(渡来人)と縄文人は、どのように共存したのか。
⇒弥生人と呼ばれる大陸からの渡来人が縄文時代晩期から日本列島に流入していたことは、縄文遺跡からの水田跡の発掘からほぼ明らかです。水稲耕作の技術を持った渡来人が、九州や山陰地方から流入し、西日本に広く分布して徐々に縄文人と交配し、融和して弥生時代を形成したと考えられます。縄文から弥生への移行期にあたる年代の遺跡から、遠賀川式土器と呼ばれる最古級の弥生土器が共通して発掘されており、その足跡を追うと、縄文人と弥生人の共存と融和の歴史が透けて見えてきますね。
以上が、【縄文再考】シリーズのまとめになります。
ところで、何か新認識はあったか?
日本人の起源という事を考えた場合、やはり縄文的なものをその後も「継承」していることではないでしょうか。直後の弥生時代に父系制社会になりながらも、その基層は現代になった今も持ち続けていて世界的にもまれな自然や同類への肯定視に満ちた民族が日本人である、ということになろうかと思います。また、先日の記事でも紹介しましたが、縄文時代における「8つの文明原理」という視点はなかなか面白く、追求を深める価値があると思います。
①狩猟・漁・採集
②平等社会
③文字を持たない
④土器つくりに執着した
⑤土偶=女性中心の文明原理
⑥自然との共生
⑦融合とネットワーク
⑧木造技術
「民族」という定義は、DNA解析云々から言うと中々難しいのですが、混血、交配しつつも、基層意識だけは現在まで変えずに持ち続け、明らかに民族性を有しています。今後は、弥生、古墳時代の追求となりますが、「社会(制度、仕組み)」と「意識」が違うのに共存しているその認識構造や社会への対応の仕方など、日本民族形成の過程に入っていくことになるのではないでしょうか。
次回もまとめです。縄文人が対峙した自然外圧を整理します。
投稿者 asahi : 2022年02月25日 TweetList
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