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2022年05月28日

【縄文再考】なぜ、極寒の地に縄文文化が華開いたのか?(北海道・北東北の縄文遺跡群)

大湯環状列石【秋田県:世界遺産(写真はコチラから引用)】

2021年7月、「北海道・北東北の縄文遺跡群」が国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界文化遺産に登録されました。

なぜ寒冷な地域なのに、縄文文化が華開いたのでしょう。

これには、確かな理由があるんです。

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■想像以上に豊かだった縄文時代

数字で説明するとリアリティを失いそうな気の遠くなる大昔(最終氷期の最寒冷期)、地球規模で凍てつき、海面が下がり、大陸と日本列島は陸続きになっていました。だから人々(ホモサピエンス:新人)は、日本列島に歩いて渡って来て旧石器時代が始まっています(3万8000年前)。また、北と南から押し寄せた人々は関東付近で、東西二つのグループを形成し棲み分けを始めたと考えられています。そして1万5000年前、新石器と土器を手に入れた彼らは、新たな文化を育んでいきました。これが縄文人と呼ばれる人たちです。

 

三内丸山遺跡 半円状扁平打製石器(写真はコチラから引用)

ちなみに旧石器は打製石器で、ナイフの役割を担う。新石器は磨製石器のことで、樹木を切り倒す石斧の登場は、画期的だったと考えられます。また、海岸線がみるみる上昇するほどの温暖化(いわゆる縄文海進)が始まっていました。

 

縄文時代の人口は、東日本に集中していましたが、理由はいくつもあって、当時の温暖な気候が北の大地を楽園にしていたと考えられますし、シャケ(鮭)の遡上する地域と縄文人の密集地帯が重なることも、無視できない事実です。毎年定期的にタンパク源がもたらされることは、想像以上に重要な意味を持っていたと思われます。きっと、大自然の恵みに感謝していたに違いありません。

 

東北地方の縄文人は、現代人の想像を超えた広い地域と交流を持っていたこともわかっています。世界有数の難所とされる津軽海峡をも果敢に横断していたことも。各地の文物が日本列島を往き来し、豊かな生活を満喫していたわけです。縄文人は世界の新石器時代人(農耕する人々だった)と比べて、豊かな食生活を享受していたことが明らかになっています。虫歯ができるほど「甘い生活?」だったということでしょうか。

 

三内丸山遺跡【青森県:世界遺産(写真はコチラから引用)】

かつて縄文人は、農耕も知らない野蛮人のイメージで語られてきました。しかし、三内丸山遺跡など、多くの遺跡が発掘されていく過程で、「縄文時代は想像以上に進んでいた」と、評価が変わり、礼讃されるようになってきています。縄文ブームなんかも最近ありましたね。

 

ただ、縄文人の発想を追っていくと、彼らが高度な技術や文化を作り上げていたことよりも、もっと大きな意味で、人類史上の大きな役目を担っていたのではないかと思えてきます。大袈裟に言えば、縄文人たちは人類の未来を変えていたということです。

 

文明と進歩を疑った縄文人

遺伝子研究が進歩して、日本人の不思議がいろいろと見えてきています。

 

日本人のハプログループは9つ(画像はコチラから引用)

例えば、列島人は多様性に富んだ遺伝子を持ち合わせていたことがわかっています。父から息子に伝わるY染色体は、世界のハプログループのほぼすべてが、日本列島にたどり着いていたということです。これは世界的にも珍しい現象と言われています。一方でお隣中国の漢民族のY染色体は単純で、それはなぜかというと、争いが絶えず、戦った敵の男性を根絶やしにしてしまったことを意味しています。彼らには共存という発想がなかったのです。つまり、なぜ日本列島に多くの渡来人がやって来たかといえば、大陸の戦乱から逃れるためだったと察しがつくでしょう。

 

そもそも、旧石器人も、「弱いから追い払われた人たち」だったのではないでしょうか。暮らしやすい場所の奪い合いに敗れた人たちが、さまよい歩いてたどり着いたのが日本列島だったと言い換えても良いでしょう。だから、多様な遺伝子が混ざり、「これ以上逃げられない島」で共存していたのです。

 

それだけではありません。縄文人たちは、文明や進歩に懐疑的だったと考えられています。オーストラリア出身で日本で研究を続ける考古学者(先史人類学者)マーク・ハドソンは、縄文人がイデオロギー的に、農耕を拒否していたのではないかと推理しています(『日本人と日本文化その起源をさぐる』ニュースレターNo.2国際日本文化研究センター)。

 

人類が戦争をするようになったのは、農耕を選択した結果だったと考えられています。農耕や文明を手に入れれば、生活は便利で豊かになるかもしれませんが、悲惨な状況が待ち受けていると、縄文人たちは考えたのでしょう。「中国文明は決して人を幸せにしない」その様子を、縄文人たちは見聞きして知っていたのではないでしょうか。

 

続縄文時代の分布(画像はコチラから引用)

この発想は、次第に日本の考古学者の間にも浸透しつつあるようです。日本列島人は、神や精霊は万物に宿ると信じてきました。これが多神教であり、現代日本人も自覚のないまま信仰を継承している万物信仰です。われわれは潜在思念の中で、常に文明や進歩に懐疑的であり続けたのだと思います。その代表者が、北の大地の住民なのであり、彼らはいつまでも縄文的な生活に固執し(北海道で続いていた「続縄文時代」)、あえて「進歩を拒んできた」のではないでしょうか。一神教的で文明的な「人間が神になり代わって自然界を支配し改造することができるという発想」を拒絶したのではないでしょうか。

 

かつての東北地方は貧しく、「白河以北一山百文(しらかわいほくひとやまひゃくもん:福島県白河地方から北は、一山に百文の値打ちしかない)」などと蔑まれもしました。しかし、縄文人の魂をもっとも強く継承したのが彼らであったとも言えます。宮沢賢治(東北出身)の『銀河鉄道の夜』に登場する鳥捕りの男は、「どうもからだに恰度(ちょうど)合うほど稼いでいるくらい、いいことはありませんな」と呟いています。これこそ、東北人の心の叫びなのだと思うこともできるのではないでしょうか。

 

今後、北海道・北東北の縄文遺跡群の研究が進む中で、更なる新発見や考察が私たちを驚かせてくれることでしょう。

投稿者 asahi : 2022年05月28日 List  

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