| メイン |

2011年06月19日

「南から見た縄文」12 ~縄文のもう一方の源流・北方文化~

「南から見た縄文」シリーズでは、スンダランド発の古モンゴロイドが、温暖化によるスンダランドの水没を機に、世界に拡散する様子を通して、縄文文化について追求してきました。
 今回は視点を変えて、縄文の一方の源流となった北方文化について追求します。
 現代に繋がる最初の日本人は、この日本列島に3万年前頃石刃石器の文化をもたらした人々でした。彼等は中国北部・華北方面から、朝鮮半島を経由して日本列島に到来し、津軽海峡で北海道への渡海を阻まれたため、本州北端まで分布し、約1万年に亘ってその状態が続きました。
 そしておよそ2万年前、シベリアのバイカル湖方面からおもに樺太を経由して北海道・東日本にドッと細石刃文化が流入してきました。この文化の影響は極めて強くそれまでのナイフ形石器文化を消滅させてしまうほどでした。
 こちらからお借りしました。
今回は、このシベリアのバイカル湖方面から来た北方モンゴロイドについて、詳しく見ていきます。
応援よろしくお願いいたします !
Blog Ranking
にほんブログ村 歴史ブログへ

 にほんブログ村 歴史ブログへ


■何故、人類は酷寒のシベリアへ進出したのか?
 10万年前アフリカを出た新人は、4万年前頃には100kmの海峡を越えて、オーストラリアに進出しました。しかし、人類がシベリアでの定住が可能になったのは、マリタ遺跡に住居が営まれた2万3000年前のことでした。100kmの海よりシベリアの雪と氷は大きな壁だったのです。
 シベリアというと現在でも、零下30度を越える冬の厳しい寒さが印象的ですが、大陸性の気候のシベリアは温暖の差が激しく、夏は暖かく30度を越えることもあります。氷河期でも、夏は気温が上がり、緑の草木に覆われ、動物の生育に適した豊かな環境でした。
 氷河期のシベリアには、こうした豊かな環境を示す「オープン・ウッドランド」と呼ばれる地域が幅広い帯のように東西に連なっていました。

・約3万5千年前のオープン・ウッドランド(資料提供・五十嵐氏)
 このオープン・ウッドランドにはアフリカのサバンナのごとく数多くの動物が暮らしていたことが、化石の研究から明らかになってきました。全身に毛の生えたケサイ。シベリアで最も凶暴な肉食獣ホラアナライオン。そしてバイソンやジャコウウシといった草食獣も、群れを作って草原を駆け回っていました。そのなかでひときわ目立つ巨体の持ち主、それがマンモスだったのです。
 これらの大型動物は、氷河期のシベリアに特徴的な動物のグループということで、「マンモス動物群」と名付けられました。これまで発見された化石の量から見ると、マンモス動物群に属する動物の数や種類の多さは、当時の世界でも有数のものでした。氷河期のシベリアは、幾種類もの大型動物が闊歩する動物王国だったのです。

 そしてシベリアに進出した私たちの祖先の目当ても、この動物王国の動物たちだったのです。
 人類のシベリアへの移住・拡散のストーリーは、夏季に始まった挑戦が幾度も幾度も繰り返されるうちに酷寒に耐える術を学び取り、ついに通年での定住が可能になったと考えられます。
■何故、シベリアで急速に道具が進歩したのか?
 2万4000年前、シベリア進出とともに強力な殺傷能力を持った石器が見つかります。(日本人はるかな旅展「道具革命、人類のシベリア征服に貢献」より
 私たちの祖先がシベリアに進出した3万年前から2万年前の時代というのは、それまでの人類には不可能だったことが次々と実現されていった時代です。大型動物の狩猟しかり、シベリアという極寒の地への進出しかり。南洋では果敢に海を渡って新天地へ移動していく人びとが生まれました。絵画などの美術もこの頃に生まれたといわれています。大型動物の狩猟など集団行動が複雑化した結果、言語を使ったコミュニケーション能力が飛躍的に伸びたのもこの時期だという説もあります。
 ある学者はこの時期のめざましい進歩を「知恵のビッグバン」と言い表しています。
 なかでもこの「知恵のビッグバン」を最も体現した人間集団が、シベリアに進出した人びとでした。寒さを防ぐ衣服、暖気を逃さない住居、狩に使う道具といったハードウェアから、大型動物を捕獲する知恵、腐りやすい肉を保存するためのノウハウといったソフト面まで、極寒の地に進出するためには、地球上のどの場所で暮らすよりも数多くの知恵の集積が必要でした。
 つまり、南の地方では、動物を狩らなくても豊富な植物だけで食べていけたので、鋭い飛び道具的な石器は必要ありませんでしたが、植物資源に恵まれない北の地域に進出した人びとは、動物を捕らえるために次々と新しい狩猟具を考案しなければならなかったのです。
 つまり北の厳しい環境が、道具の急速な進歩の原動力だったのです。
 しかし、南方は温暖で一見自然外圧は高くないようですが、火山の噴火や台風、地震・津波など、自然の猛威が突如、襲ってきます。この自然の圧倒的な力に対して、人類はほとんどなす術もなく、受け入れ、祈るしかありませんでした。
 それにたいして、冬のシベリアの自然外圧は確かに非常に高いですが、住居や道具など道具を発達させることで適応することが可能でした。
 自然を畏怖し、自然を受け入れ自然に同化してきた南方文化と、自然に挑み自然をコントロールしようとしてきた北方文化という対比ができそうです。
■何故、シベリアから日本列島へ渡ってきたのか?
 今から2万年前から1万8000年前にかけて、シベリアに冬の内陸部では零下80度まで下がる大寒冷期が到来しました。
 シベリア全域で、マンモスの生育に適したオープン・ウッドランドが軒並み縮小するなか、唯一日本列島を含む極東地域に向かってオープン・ウッドランドが拡大していました。

約2万年前のシベリアで縮小したオープン・ウッドランドは南下した。
 約2万年前、寒冷化に向かう気候のなかで、多くの動物が南へ去ったり死に絶えたりして消えていきました。人びとは動物を求めて、来る日も来る日も広い平原を探し回る毎日が続きました。
 そんななか、軽量でしかも持ち歩く石を節約することができる細石刃は、寒冷化の極に達した2万年前以降、シベリアの人びとが移動生活の度を強めるなかで瞬く間に広まっていきました。
 シベリアと日本列島の間に点在する遺跡からは、細石刃が見つかっています。そうした遺跡を結ぶと、シベリアから日本列島へ、私たちの祖先が辿った道が浮かび上がってきます。
 最も太いルートは、大陸からサハリン経由で北海道に渡来するルートです。これは当時、海を渡らずに地続きで日本列島に到達できる唯一のルートでした。
 彼らは一旦は、水深が140mと深い津軽海峡で行く手を阻まれ北海道で行き止まりました。
 しかし氷河期の最寒冷期、津軽海峡あたりでは年によっては零下30度以下まで気温が下がりました。しかも当時は対馬暖流が存在せず、何年かに一度は海峡が凍ったと考えられています。彼らはこのチャンスをとらえて南の新天地・本州へと渡っていったのです。
■何故、北方適応したモンゴロイドが縄文文化の一方の源流となったのか?
 日本列島の遺跡数の増加から、2万年前以降、ヒトの数がどんどん増えたことが判ります。この細石刃を手にしたヒトの増加による乱獲と、急激な温暖化のため、1万5000年前から1万年前頃、日本列島から大型動物が姿を消してしまいました。
 草原の広がる大地であった日本列島が、温暖化とともに暖温帯落葉広葉樹林の森に覆われていったのです。しかも温暖化のため、津軽海峡を渡ってシベリアに帰ることもできなくなっていました。
 こうして、極寒のシベリアで北方適応し、肉食に頼って生きてきた北方モンゴロイドが、温暖化し森が広がって大型動物がいなくなった日本列島に取り残され、絶滅の危機に直面したのです。
 一方で、大型動物を絶滅に追いやった鬱蒼とした森が、実はドングリという栄養価の高い木の実を豊富に実らせていたのです。しかし、ドングリはアクが強く、渋くてそのままでは食べられません。
 絶滅の危機に瀕し、森の中で苦闘を繰り広げていた祖先たちは、ついに土器を使って、煮てあく抜きをすれば、ドングリを美味しく食べられることに気づいたのです。
 栄養満点のドングリを主食の地位に押し上げた土器は、粘土を焼成して作る、「人類が初めて化学変化を利用して作った画期的な道具」でした。
 土器は、素焼きで作ると言っても、簡単な作業ではありません。
 焼く時には、徐々に均一に温度を上げないと割れやすく、数時間かけて600度超~800度近くに上げていきます。
 また使用する粘土にも注意が必要で、水分や空隙、有機物の混入があると、焼いているときに発生するガスの圧力で、破壊してしまうことがあります。空隙や有機物を取り除きながら均質にこねた粘土で作り、予め良く乾燥させておく必要があります。
つまり土器を作るためには、
数時間に及び、勢いよく火を焚き続ける事
予め良く乾いた粘土細工がある事
この二つが、必須条件なのです。
 縄文以前の旧石器時代から、勢いよく数時間燃え続ける火を崇める行事や儀式があったのではないでしょうか。さいの神と呼ばれ、集落総出で行う小正月の行事が今も雪国越後には残っています。(どんど焼きなど、日本各地で色々な呼び方があります)
 またシベリア平原のエニセイ川流域にあるマイナ遺跡で、1万6000年前頃のヒト型の土人形が見つかっています。
 大昔のある日、シベリアの民は粘土で仲間の姿を形作った。それが何かの拍子に焚き火にくべられ、燃えカスの中に、何故か変形せずに堅く固まった土人形が横たわっていた。こんな偶然によって、人類は、粘土を焼き固めて様々な形の道具を作る技術を身に付けたのかもしれません。
 このようにして焼き物の技術を発見していた後なら、この技術を容器に応用するのは、もう少しの工夫です。 あとは、土器の必要性の問題だけでした。
 こうしてドングリを主食とするため、煮炊き用の土器を発達させて、「縄文時代」の幕が開けたのでした。
 この北方モンゴロイドが日本列島に適応するため築いた文化を底流として、その上にこれまで見てきた南方モンゴロイドの文化が塗り重ねられ、縄文文化が形成されてきたのです。

投稿者 tama : 2011年06月19日 List  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/06/1271.html/trackback

コメントしてください

 
Secured By miniOrange