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2011年06月11日
「南から見た縄文」10 ~弥生期までの朝鮮半島と北九州の関係は?~その1
「南から見た縄文」シリーズもいよいよ第10回になりました。
第8回、9回と日本を大きく離れ、遠くフィンランド、チベットに残る共同体性を探ってきました。
今回は、日本の方へ戻り、北九州と朝鮮半島の関係について、見ていきたいと思います。
この関係を論ずるときに重要なキーポイントになるのが、第7回の江南地方に縄文の源流を探るで紹介した長江文明です!
まだ、読んでない方は、こちらを読んでから、今回の記事を読んでください
従来、弥生時代は、朝鮮半島からやって来た人々が大量にやって来ることで始まったと言われてきました。そして、その後も古墳時代、大和朝廷と移り変わる時も、やはり朝鮮半島からの王族等の流入があったとされています。
では、いったいいつから朝鮮半島と北九州との交流は始まったのでしょうか?また、その交流は朝鮮半島→北九州といった一方通行だったのでしょうか?それとも逆もあったのでしょうか?
そして、どんな人たちが往来したのでしょうか?
そこで今回は、旧石器時代から、弥生時代の終わりにかけて、朝鮮半島と北九州にはどのような交流があったのか?を探っていきます。
記事は2回に分けて掲載します。
応援よろしくお願いいたします
0プロローグ
1太平洋に広がる大語族、オーストロネシア語族!!
2オーストロネシア語族は、なぜ遠洋に拡がったのか?
3ポリネシア人が陥った罠、遠洋航海への可能性収束→父権化への道!
4沖縄は南九州から始まっている
5台湾に残る本源性のルーツとは
6早咲きの南九州の縄文文化
7江南地方に縄文の源流を探る
8共認時代をリードする北欧フィンランドと、その起源の秘密
9Y染色体「D」系統の分布から浮かび上がる縄文人と原チベット人の共通性
■ 後期旧石器時代~縄文時代早期(約3万5千年前~1万年前)
剥片尖頭器が九州に多いのはなんで?
ここでは、現在の我々に繋がる、現生人類(ホモ・サピエンス)が登場する後期旧石器時代から縄文時代早期までを見ていきます。
この時代は、主に石器の時代であり、石器の出土年代により人の移動を推定します。そこで、目安になるのが、約2万5千年前の鹿児島の姶良カルデラの噴火です。この前後でどのような石器が出るか?が主に焦点となっています。
後期旧石器時代の代表的な石器に、「剥片尖頭器」がありますが、この石器は、九州では主に姶良カルデラの火山灰の上層から出土しており、朝鮮半島では、その下層から出土していることから、この石器は、朝鮮半島から九州に伝わったと考えられます。
その伝わった年代は、約2万年前と言われており、その頃は富士山を始め、世界中で火山の噴火が起こり、最も寒冷化が進んだ(年平均7~8℃低下した)時期で、朝鮮半島と対馬、対馬と北九州が最も近づいた(水位が低下した)時期です。陸続きとまではいかなくても、対岸は見えていた可能性はあり、丸木舟等で渡ってきたのでしょう。おそらく、そこまでしてでも南へ向かいたくなるほどの寒冷化だったのではないでしょうか。
その結果、本州よりも南九州で剥片尖頭器が大量に見つかっているのだと思います。
やがて、1万3千年前頃になると最終氷期(ヴルム氷期)も終わりに近づき、後氷期あるいは完新世へと移行し始め、徐々に日本海へ対馬海流が流入しはじめ、朝鮮半島と北九州が海で断絶されることになり、8000年前頃まで、朝鮮半島と北九州との交流も絶たれることになります。
■ <櫛目文土器時代>縄文時代早期~縄文時代後期(約1万年前~3500年前)
朝鮮半島の土器文化はどこからやってきた?
温暖化が進み、1万年前~8000年前になると現在とほぼ同じ気候になります。
この頃になると、朝鮮半島最南端の済州島で、半島最古の土器(隆起文土器)が見つかります。そして、この土器は朝鮮半島を北上する形で、新しくなっていきます。
隆起文土器は、模様を貼り付ける方法で作られており、南九州の貝文土器や後の縄文土器の模様のつけ方と似ており、さらに北九州で見つかっているものと良く似た、結合式釣針も出土しています。
以上のことから、おそらく、この土器及び釣針は、スンダランドの沈没により、逃れてきた人々が南朝鮮に辿り着き、作成したのではないかと推測されます。
そして、この時ようやく、絶されていた朝鮮半島と北九州との交流が復活します。
この交流の復活で、九州から南朝鮮へ運ばれたものもあります。その代表的なのが、佐賀県腰岳産の黒曜石です。一方、中朝鮮以北では、東北朝鮮の白頭山産の黒曜石が発見されており、この時すでに、半島北部と南部では違う文化圏が形成され、南の文化圏は主に、九州→南朝鮮といった流れであったようです。
次いで、約6000年前には、中国北東部から伝わったと思われる、櫛目文土器が朝鮮半島北部から広まって行きます。
櫛目文土器が広まる以前(約7300年前)には、九州南部の鬼界カルデラが噴火し、その余波は朝鮮半島南部まで及びます。
(火山灰の降灰範囲 堺市埋蔵文化財センターより)
そのため、隆起文土器を作っていた半島南部の人々は一旦半島北部へ逃れたのだと思います。そこで、中国北部・ロシア・ヨーロッパにかけて広まっていた、土器に櫛目模様を入れる方法を学び、「櫛目文土器」を作り出し、火山灰の降下が落ち着くと(約6300年頃)半島南部に戻ってきたのではないでしょうか。
その半島南部の櫛目文土器が、北九州にも伝えられ、よく似た「曽畑式土器」が作られたのでしょう。
そして、半島北部では、中国東北部との交流は続き、この頃から、半島北部と南部での文化の違いが明確に現れ始めます。
この櫛目文土器の分布を示したのが、下図であり、東北朝鮮、西北朝鮮は平底系土器文化圏を形成し、中国東北地方との関係が深く、東朝鮮、西朝鮮、中朝鮮、南朝鮮では、尖底系土器文化圏を形成していきます。
(「朝鮮半島の考古学」より)
ツングース族はなぜ朝鮮半島へやってきたのか?
そしてついに、この文化の違いが決定的となったのが、約4000年前の世界的な寒冷化です。
この頃、朝鮮北東部の白頭山(長白山)が噴火し、周辺にいたツングース系部族(新モンゴロイド)が方々に散らばり、一部が朝鮮半島へ南下し、ワイ族・パク族となっていきます。
(グーグルマップより)
(白頭山噴火)
同時に半島南部には、黄河文明の南下に押し出された、長江文明を担った人々(古モンゴロイド)が海流に乗って、直接あるいは九州経由でやってきます。やがて彼らが、韓族及び倭族の祖となっていきます。
これにより、朝鮮半島は、北部では新モンゴロイドが、南部では古モンゴロイドが住まう土地となりました。そのため、ツングース族は未だ列島入りはできなかったと思われます。
この時点で、九州北部にも、長江文明を担った人々が多数やって来ていますので、彼らと縄文人との混血も進んだことでしょう。
次はいよいよ、長い縄文時代が終わり、弥生期に入っていきますが、その続きは「その2」で探っていきます
投稿者 jomon10 : 2011年06月11日 TweetList
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