| メイン |

2007年10月03日

学者「千田稔氏」の論文を論評してみる!(前半)

縄文時代の研究家に千田稔氏という著名な学者がいます。今回はその方の論文を取り上げて「今、なぜ縄文が取り上げられてきているのか」そして「どうする?日本!」に迫ってみたいと思います。
物質文明の現代に異を唱え、縄文時代にその答えを見出そうとする研究スタンスには我々が立ち上げて勉強している縄文―古代ブログに相通じるものがあり、共感を覚えます。著者の研究から私たちが追求しているテーマとの共通点と相違点を抽出してみました。
著者の論文「縄文文化と現代」の中から著者の論説の中心となる部分をピックアップしながら感想を入れていきます。
>自然破壊の深刻化するなか、我々はどういう時代に生きているのか、何をなすべきか、これを知ることは国民的な課題にもなっていると言ってよい。これには、前近代社会を「学問」的にとらえることが必要となろう。そのためには、具体的には、もはやマルクス経済学とか近代経済学ではなく、「新しい経済学」に依拠して、近現代と先史時代の比較検討を経済に限らず総体的に学問的に行うこと、これが重要になってくるのである。
・・・なるほど、書き出しがいいですね。
続きは押してからお読み下さい。↓
Blog Ranking
にほんブログ村 歴史ブログへ

 にほんブログ村 歴史ブログへ


>「前近代社会」を見る上で、我々はいくつかの偏見をもっている。例えば、「現在は高度に複雑化した文明社会であり、前近代社会は単純な非文明社会である」というものが最たるものであろう。だが、高度に複雑なのは、一貫して自然、その一部としての人間の組成(例えば、生物分子のモーターは「人工的熱機関を遥かにしのぐ100%効率」であり、脳神経系の仕組みは「現行の並列コンピュターが太刀打ちできない情報処理を行う」のであって、今日の企業組織、社会組織、教育組織などは高度に複雑化したものなどはないということである。こういうものは一瞬にして崩壊するものであり、移ろいやすい脆いものであり、自然、人間の高度に複雑な組成からみれば、無常で単純なものでしかないのである。現在の地球危機に直面して、我々は、人間が傲慢に都合よく思い込んでいるもの、仲間内だけで無前提におもい込んでいるもの、この欺瞞性を引き剥がし、真実をさらけだす必要にせまれているのである。
本当に高度に複雑なのは自然の体系とその中で進化してきた人間の脳神経であると著者は言っています。それに比べて工業社会が生み出した人工知能は単純であり脆いと言う。確かに脳は未だに解明されていないし、人間の組織論や性に関しては文明社会以降ほとんど新しい認識は出ていない。全くこの点は同意できます。
>人間は自然、宇宙から生まれはぐくまれてきたのであるから、そもそも「自然と人間の共生」などという発想からして、先進国人間エゴの残滓が濃厚ではないか。なぜ自然を破壊してきたのか、その理由の根源的考察と根源的反省なくして、人間の未来は絶望的なのである。この根源的考察・反省なくして、「未来可能性」などと称するのは笑止千万なのである。自然、宇宙は人間の母である。厳しい自然、宇宙を畏敬し、謝意を表明こそすれ、人間が自然と「共生」しようなどというのは、自然を破壊してきたことへの反省というより、「人間が生き残るため」に生み出した発想という側面が濃厚なのである。
この点を実現論では以下のように展開しています。別の表現ですが着眼点は同じです。

“いったい、人類はどこで道を誤ったのか? それを突きとめる為には、人類の始源(必要ならサル時代や哺乳類)にまで遡って、個体や集団や社会の存在(or 成立)構造を解明する必要がある。人類の原基構造を解明できれば、その構造のどこが不変部分でどこが可変部分かを知ることが出来る。(中略)だが、その認識=摂理がいかに現代の価値観からかけ離れていようとも、摂理=事実は変わらない。人間は、決して自然を超えることはできない。だから、自然の摂理をできる限り解き明かし、そこから学び取らなければならない。自然の摂理を無視し、踏みにじってきた張本人が現代の価値観であり、その結果が滅亡なのだから。”

長いので次稿に続きます。

投稿者 tano : 2007年10月03日 List  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2007/10/339.html/trackback

コメント

「幇」という集団用語は初めて聞きました。
>劉備、関羽、張飛、の三人は、以前からずっと見知っていた訳ではないし、血を分けた兄弟でもない。しかし、ひとたび桃園で義盟を結ぶや、実の兄弟なんかとは桁違いに固い契りの義兄弟となって、ここに劉備・関羽・張飛の三人幇、三人組みが成立する。
日本の邑が血縁で結ばれているのに対して中国の共同体は血縁とは別の関係を模索したようです。
なぜ中国がこれほどまでに血縁以外の結束を強くする必要があったのでしょうか?血縁関係には何か問題があったのか、そこらを探ることもヒントになるように思います。
「幇」を中心とした人間関係の多重性~続稿を期待しています

投稿者 tano : 2007年10月24日 20:23

幇は、近代では青幇とか紅幇のように、秘密結社とかっていう怖いイメージありますね^^;
何か、それくらい、異常な強さの繋がりを感じます。
ベドウィンは確かアラブの遊牧民族でしょうか?
彼らも相当信じられないくらい、自らの部族以外を敵とみているようですね。
こんな結束をする必要があった、社会構造が次は知りたいです!

投稿者 さーね : 2007年10月25日 22:38

tanoさん、さーねさんこんばんわ、
>なぜ中国がこれほどまでに血縁以外の結束を強くする必要があったのでしょうか?
>こんな結束をする必要があった、社会構造が次は知りたいです!
なんで結束を強める必要があったのか?・・・・・幇も宗族もすこぶる結束強そう。
いまのところ、中国があまりに巨大で戦乱が長く続いたことくらいしか考えられませんが、ギャング集団の結束に近いことがヒントになるかもしれない。結束の強い連中が勝ち残っていくはず。

投稿者 Hiroshi : 2007年10月26日 19:09

>いまのところ、中国があまりに巨大で戦乱が長く続いたことくらいしか考えられませんが、ギャング集団の結束に近いことがヒントになるかもしれない。結束の強い連中が勝ち残っていくはず。
ちょっと考えたんですが、中国が結束したのは”私権”という結束軸だったんではないでしょうか?血縁の場合まだ本源性が残っているので完全な私権の結束にはならない。血縁はむしろ外した方が結束力は高まる、そういった流れがあったのではないでしょうか?
そう考えればなぜ血縁関係をなぜ結束軸にしなかったかと見事に辻褄が合います。もちろん中国の中にも本源性を有した集団は南の方にたくさんありそちらの方はたぶん血縁重視の関係になっていると思います。

投稿者 tano : 2007年10月27日 01:46

>血縁の場合まだ本源性が残っているので完全な私権の結束にはならない。
>血縁はむしろ外した方が結束力は高まる、そういった流れがあったのではないでしょうか?
まず中国は、血縁も強力です。父系血縁集団『宗族』の結束も規模も日本では考えられないものです。
『幇』と『宗族』この二軸を視野に入れて、どういう場合にどうなるのか?ということだと思います。
また血縁だから本源性が残っているとは、単純にはいえないと思います。よく見ていく必要があると思うのですが、日本人なんかあまり血縁気にしてないし、むしろ同じ職場の結束のほうがよっぽど強かったりする。
元々の集団の違いに加えて、なにか圧力の差があってそれに対して、どう適応しようとしたか?ということじゃないだろうか?

投稿者 Hiroshi : 2007年10月27日 21:09

なるほど!
宗族というのもあったんですね。
hiroshiさんの追求を楽しみにしています。

投稿者 tano : 2007年10月27日 23:46

「幇」という概念の取り上げは面白いね。
ただし、中国語の「幇」は幅広い意味を持っています。
「○○>幇」と呼ばれる人たちは、新選組のような秘密結社もあれば、会社や学校の仲間同士もあります。
本人が意識していない場合も少なくならず、必ずしも固い絆で結ばれているとは思えません。
一概に論じてしまってもあれなんです…
>ひとことでこれを言うと――。
>何をしてもよろしい。窃取強盗ほしいまま。略奪、強姦、虐殺・・・・何をやっても少しもかまわない。
ここら辺の記述は激しく偏っています。
ただのヤクザではないでしょうか。
大体、少しろくな「幇(会)」においては必ずご法度が設けられています。
悪いことをしたメンバーに対し、法律のかわりに厳しい内部処罰を下したり組織から追い出したりすることはごく普通です。
(新選組のことをイメージしていただければお分かりになると思います)
義兄弟の場合も同様です。絶縁した上反目するまで至るケースがしばしばあります。
なお、血の繋がりが非常につよくて、おそらく何処の国よりも強いでしょう。これは、親子同居の世帯の数を観ていただければと思いますね。

投稿者 通りかかり : 2008年6月20日 12:38

コメントしてください

 
Secured By miniOrange