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2009年12月13日

アイヌ民族は縄文人の末裔か?(4)~「東北蝦夷とアイヌ人の関係を見る」

こんばんわ 😀 このシリーズもいよいよ中盤にさしかかってきました。
一旦ここで、これまでの流れをおさらいしておきたいと思います。
新テーマ「アイヌ民族は縄文人の末裔か」
アイヌ民族は縄文人の末裔か?(1) アイヌの歴史と文化(基礎データー編)
アイヌ民族は縄文人の末裔か?(2) ~「アイヌ論争」~
アイヌ民族は縄文人の末裔か?(3) ~「オホーツク文化」~
第1回でアイヌ文化の歴史を概観していきました。
アイヌの歴史を通史で見ていくと、アイヌ文化形成期には交易民としての特徴がみえてきます。擦文時代での和人、オホーツク文化からの影響が大きいとされ、アイヌ人の交易体質はどのようにして形成されていったのかが注目される点です。
第2回ではアイヌ起源論争のこれまでの歴史と現時点でのアイヌ史観を紹介しています。
アイヌ人の顔体の形質の特徴は北方適応した新モンゴロイドではなく、古モンゴロイドの南方形質を引き継いでいます。古モンゴロイドが基底となりその後、新モンゴロイドと混血して現在に至っている事は明らかです。ただ、南方モンゴロイド起源説と北方モンゴロイド起源説が決着しておらず、現段階では頭蓋骨から埴原氏が前者を支持し、崎谷氏、松本氏がDNAや遺伝子から後者を支持しています。
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第3回ではアイヌ文化に大きく影響しているオホーツク文化を扱っています。
住居形態、葬送儀礼、熊祭式典などオホーツク文化を伝えた移民はそのままアイヌに吸収され、トビニタイ文化としてアイヌ文化の基層を形成していきます。
列島の北端の北海道はオホーツク文化に限らず、その地理的特徴から大陸からの移民を常に受け続け、その度に外の文化を吸収し変化してきました。その典型がアイヌ文化と言えるかもしれません。日本人が大陸の東の果てで多様な民族や文化の終着点と言われる象徴的位置に玄関口である北海道は位置していました。移民を交戦ではなく吸収という形でとりこんだアイヌ人に縄文人としての特徴を重ねて見ることができます。

第4回は北海道と東北地方の交流史について見ていきたいと思います
 ただ、このテーマを追いかけていくうちに単なる交流史だけでなく日本人の起源から遡って東北、北海道という地域を押さえなおしていく必要性を感じました。
そこでテーマを切り替えて今回は日本人の起源とアイヌ人ー日本人の分化過程というテーマで追求していきます。(ちょっと壮大ですがおつきあい願います)
日本人のルーツ図解
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この図解は縄文ー古代ブログのオリジナル図解で、現在ではたたき台です。この図解を元に以下、日本人の起源とアイヌ民族の形成過程をみていきたいと思います。
【3万年前~縄文創期】~東日本と西日本でそれぞれの文化が発生
日本列島は1万5千年前までは陸続きでした。
3万年前にスンダランドが温暖化によって水没すると古モンゴロイドが陸、海を伝い南北へ分散していきます。その中で北に移動しバイカル湖まで行き着いた北方モンゴロイドが2万年前~3万年前の寒冷期に大陸を渡って北海道から入ってきます。(これについては崎谷氏の論説を一旦根拠にしています。)
一方、南方からは1万5千年前に陸、海を通じて九州へ南方モンゴロイドが到達します。この集団は鹿児島県で9000年前には上野原遺跡を形成し一旦九州に定着します。
縄文時代創期には東日本縄文人と西日本縄文人の2つの系統が併存していました。%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9B%B3.jpg
2万年前の日本列島
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【縄文早期~中期】~東日本と西日本の合体
しかしその後の火山活動と温暖化の進行によって9000年前から西日本縄文人は徐々に東へ移動していきます。温暖化は6500年前から急激に進み、現在より2度ほど高い環境を日本列島に実現し、6000年前には西日本縄文人は本州北端まで到達し三内丸山に代表される円筒土器文化圏を形成します。この文化圏は南方モンゴロイドと北方モンゴロイドの合流によって形成され、その後の縄文文化の原型になっていったと見ます。
この時期、温暖化により対馬海流(温流)が流れ込むことで津軽海峡が8の字状の海流になり、本州と北海道を行き来することが容易になります。三内丸山と同規模の集落は対岸の函館にも形成され、石狩平野全域に文化圏は広がります。
南方モンゴロイドを起源とする集団はこうして北海道にまで定着するようになります。
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津軽海峡の海流図(縄文時代温暖期)
⇒参照円筒土器文化圏
【縄文晩期】~アイヌ民族の原型は亀ヶ岡にあり?
三内丸山は1500年間継続しますが、3000年前の急激な寒冷化(現在よりマイナス2度)により南方的性質を持っている集団から順番に西へ南へ移住していきます。移住した集団は西日本縄文人と混血し、西日本縄文人に東日本縄文人の性質が遺伝していきます。これが2度目の南北のモンゴロイドの混血を生み出しました。彼らは縄文末期江南人の渡来によりついに九州で稲作を初め、その後の弥生人、さらに朝鮮半島からの渡来人を日本人に移行していきます。
images.jpg亀ヶ岡文化~遮光土器
縄文時代の東北・北海道地方はこの時期人口を減らしましたが、寒冷地にまだ適応できた集団が残って3000年前に始まる亀ヶ岡文化を形成していきます。亀ヶ岡文化は土器の質や量だけでなく、土偶や呪術、装飾品、栽培技術など当時の中国に成立していた殷王朝の北方的文化の影響が見られ、寒冷化のこの時期に中国やアムール川流域から北海道を経由して流れてきた新モンゴロイドの一派の影響を受けていた可能性があります。
こうして縄文晩期の最後の寒冷化によって北海道、東北に残り亀ヶ岡文化を担った集団がその後のアイヌ・蝦夷(えみし)の原型になっていったのではないかと思われます。
【続縄文から擦文へ】蝦夷ーアイヌへの分化
亀ヶ岡文化を形成した一派はその後も6世紀まで続く温暖化、寒冷化の波によって北海道、東北を往来していきます。アイヌ民族は寒冷化した5世紀には東北地方まで移動する一派も出てきますが、北方から渡来してきた新モンゴロイド(オホーツク文化以前)との混血をしながら大きくは北海道に定着していきます。
一方、すでに縄文時代晩期から製鉄技術を獲得していた東北地方の集団は蝦夷―その後のマタギとして東北地方で独自の文化を形成していきます。蝦夷は8世紀には朝廷の討伐を受けますが、直接支配までいたらず、植民地のレベルで留まったため12世紀の奥州藤原の時代まで蝦夷は自治を継続させ、東北地方に縄文文化の形質を残していきます。
aterui.gif←蝦夷の象徴「アテルイ」
アイヌ民族については続縄文時代―擦文時代を経由してオホーツク文化を吸収し14世紀にはアイヌ文化を形成していきます。
【アイヌと蝦夷の繋がりは・・・】
アイヌ民族と蝦夷の民族的つながりについては学説上も決着がついておらず、玉虫色の状況ですが、私は上記の見解から縄文時代には同じ文化圏にあった集団がその後、北海道と東北の地域とその周辺地域の影響によって異なる文化に変化していったのだと見ています。
蝦夷は和人との接触を繰り返す中で農耕文化を取り入れ、アイヌは北方のオホーツクの文化と融合する事で狩猟生産に特化していきます。しかし、言語的基盤や思想性、その中に色濃く残る縄文的資質は現在でも継承されており、敢えて分けて議論する事に有用性を感じません。

以上、見てきたように日本列島は大きくは南方モンゴロイドと北方モンゴロイドという古モンゴロイドの混血、さらにはその後に渡来した北方適応した新モンゴロイドの混血によって文化が形成されていきますが、そのいずれもが縄文時代の激しい気候変動によって繰り返し頻繁な人の移動が成されたことによって形成されてきたように思います。
まるで様々な絵の具をまぜてできたような複雑な多彩色の文化が日本文化であると思われますが、根本には自ら移動して同化していった南方モンゴロイドの色彩が色濃く付いているように思われます。なぜアイヌ人が南方的形質を残し、南北が合流してできた縄文的資質を継続してきたか、その答えはこの南方モンゴロイドの道程にあるように思います。
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2009年12月12日の読売新聞よりお借りしました。⇒ニュース
次回からはいよいよアイヌ民族の根幹である言語、婚姻、信仰について見ていきたいと思います。縄文探求グループのエース 8) が登場します。請うご期待下さい。

投稿者 tano : 2009年12月13日 List  

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投稿者 ブログランキング : 2010年2月21日 13:03

もともと自然と共生し、農耕や狩猟を営んできたインデアンは、必要な量しか手元に置かず、そして、家の格を上げるために客人をもてなすというポトラッチにおいても、おそらくハンドメイド&ハンドクラフトの贈り物が中心で,、来るべき日にむけてコツコツと積み上げられたものだったに違いありません。
その彼らのやり方がヨーロッパ人の侵略を経て貨幣経済が導入されて劇的に変わっていきます。
以降ポトラッチにインフレが起こり、競争が激化。
財を投げ打つことで格が上がる彼らの文化は身の破滅まで行き着き、西洋人に危険視され禁止されてしまいます。
冨が集中するしくみはやがては破滅へ向かうことを暗示しているようですが、私権意識の低い彼らが先に破滅したのは「騙し」のテクニックを持たず、全てをさらけ出してしまったからで、私権社会がいかに「騙し」の社会であるかを物語っているようにも思います。

投稿者 馬 : 2010年2月23日 23:29

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