縄文探求シリーズ【縄文人の衣装と装飾】~縄文人はいつから服を着たのか? |
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2010年09月20日
シリーズ「日本人の起源」(2)
「日本人の起源を探る」シリーズは前回の「予告編」を受けていよいよ第1弾の「日本人形成のシナリオ(入り口として)」です
・人類の移動は良く知られたとおり以下の図で表されます
「新人アフリカ単一起源説」に基づいて描いた新人(現代型サピエンス)の拡散。
一方、ウォルポフ(ミシガン大学アナーバー校教授)らは、100万年余り前にアフリカから出た原人達が、世界各地で次第に地域色を強めて新人へと進化した、とする「多地域進化説」を提唱して反論しており論争が続いている。
クリック御願いします
○今回紹介する「日本人形成過程のシナリオ」については「更新世(リンク)から縄文・弥生期に掛けての日本人の変遷に関する総合的研究」研究班(リンク)によって上梓されたものです。
この研究斑は、国立科学博物館人類研究部のスタッフと数名の部外研究者が協力してプロジェクトチーム(研究代表者溝口優司(国立科学博物館人類研究部 研究グループ長))を作り、特に鍵を握ると思われる時代に的を絞って、2005年度より5カ年計画でこれらの問題を再検討し、新たな日本人形成過程のシナリオ構築を目指したものです。研究斑のメンバーはリンクを参照。以下紹介です。
・現代日本人の起源・形成過程に関する、ほぼ「科学的」と言えるような分析は150年ほど前からあったのですが、それらに基づく現代本土日本人についての仮説は今日、「置換説」、「変形説」、「混血説」という3つの説に大きく分類されています。(中略)
・置換説は、弥生時代頃の渡来民が、それまで日本列島に住んでいた縄文時代人をほとんど絶滅させたか、あるいは辺境の地へ追いやってしまい、代わりに自分たちが日本列島の大部分を占めるようになった、と考えるものです。つまり、遺伝的影響がほぼ100%で、現代本土日本人はほとんど渡来民そのもの、ということになります。
・変形説は、日本列島の土着の民であった縄文時代人が、環境要因の影響で少しずつ身体的に変化して現代本土日本人になった、と考えるものです。この場合は渡来民の遺伝的影響は0%です。
・混血説は、渡来民が土着の縄文時代人と混血して、古墳時代以後の日本人の基礎を作った、と考えるもので、この場合は、現代本土日本人は縄文時代人と渡来民の遺伝子がある程度の割合で混ざった遺伝的組成を持っている、ということになります。
・さて、現代日本人の形成過程に関心をもつ欧米の人類学者の多くは、150年ほど前から今日まで、ほとんど一貫して置換説を支持してきました。他方、50年ほど遅れて提出された日本人人類学者の初期の説もやはり置換説でしたが、1950年頃に変形説が提唱され、それが1980年頃まで多くの日本人人類学者の間の定説となっていました。混血説も日本人人類学者によって1940年頃に提唱されたのですが、その頃は細々としか支持されず、1980年頃までは変形説に押され気味で、影の薄い存在でした。しかし、その後、徐々に置換説に近い混血説が日本人人類学者の間で優勢になって今日に至っています。
○其々の説がどのように唱えられたかを簡単に見てみましょう。
<置換説>
置換説を唱えた外国人研究者の主張の経緯は「考古学出発の日」と、二重構造モデル: 日本人集団の形成に関わる一仮説」(1994埴原和郎、国際日本文化研究センター)に詳しい。
※シーボルト、1823年に来日。日本人と日本文化について広範な研究を行った。
科学的な日本人起源論・形成論の始まりは、P.F.v.シーボルトが有名な著書「Nippon」を分冊出版しだした1832年と言ってもよい.
(シーボルト肖像)
※ベルツ、ドイツの病理学者 (E. von Baelz, 1883, 1885,1901) は生体学的研究に基づいて日本人を薩摩型と長州型の二つのタイプに分類した。アイヌと沖縄人が共通の起源をもつことを指摘した。
(ベルツ肖像画)
※モース、1877大森貝塚を発見、日本の新石器時代人はアイヌによって置き換えられたとする説を唱えた
<変形説>
・鈴木 尚(すずき ひさし、1912年~2004年、人類学者、東大名誉教授
埴原和郎の師匠。人骨の詳細な調査検討に基づき、縄文時代人が弥生文化の流入に伴う生活環境の変化のため、いわゆる小進化によって弥生時代人に変わったという「変形説」を主張した。リンク
<混血説>
代表的なのは埴原和郎の「二重構造説」です。
(埴原和郎)
他に、崎谷 満【著】『DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?』ではY染色体DNAの分析を通じての最新の研究成果により、「日本列島における言語の多様な姿」「日本列島における多様な民族・文化の共存」説が展開されている。
☆江戸期~明治の外国人研究者が置換説を採った原因は、発掘された研究試料の少なさもありそうですが、侵略すれば原住民は皆殺しにするという欧米人流の「常識」が潜んでいるような気もします。
・また明治~戦前までは皇国史観や戦時のナショナリズムに押されて、日本民族は混血であるなどという学説を唱える雰囲気ではなかったのかも知れません。○研究斑による2005年段階での日本列島への移動集団経緯は以下の図で示される
※各番号は歴史的に旧い順を示す。①②が6~3万年前東南アジアや東アジアへやってきて、その他の後期更新世人類となった。(その他、詳しくはリンクを参照)
○2005年段階で有力な説は「混血説」です。
しかしまだまだ、検討すべき点がたくさんあります。
(1)縄文時代人の祖先集団はどこから来たのか?
(3)縄文時代人の祖先は具体的にどのような人びとだったのか、どのような経路で日本列島に入ってきたのか?
(6)弥生時代前後の渡来民からの遺伝的影響はどの程度だったのか?
(その他の疑問はリンク参照)
○その後この研究斑の調査活動は2010年3月で終了しました
研究成果論文はリンクにあります。
(画像リンク)
・調査では
、(1)日本列島のいわゆる「旧石器時代人骨」の再検討の結果、後期更新世の沖縄港川人と北海道~九州地方縄文時代人の下顎骨の間に多数の形態的相違点を見出だした。これは両者の間に系譜的連続性を認める従来の仮説に見直しを迫るものである。
或いは(3)北海道縄文・続縄文時代人骨のミトコンドリアDNA分析の結果、
・北海道の縄文・続縄文時代人の系統の頻度分布は、本土日本人を含む現代東アジア人集団における頻度分布と大きく異なっていることを明らかにした。
・北海道縄文時代人のミトコンドリアDNAの一部は、最終氷期に南シベリアから、細石器と御子柴文化をもつ祖先によって持ち込まれた可能性が示唆された
○この図は研究斑のプロジェクト研究によるもの(但し、溝口代表研究員の個人的知見)
以上の推測渡来経路図の上に着色した部分は本プロジェクト研究で得られた新知見である。黄色部分は、北海道縄文時代人は北東アジア由来かもしれないという仮説(Adachi et al., 2009)、緑色部分は、縄文時代人の祖先は東南アジア・中国南部のみならず広くオーストラリアまでも含めた地域の後期更新世人類の中から探さなければならないという指摘(Mizoguchi, n.d.)、薄紫色部分は、港川人はアジア大陸の南方起源である可能性が高いが、縄文時代人とは下顎形態に多数の相違点があり、それらの間の系譜的連続性は見直される必要があるという主張(Kaifu et al., n.d.)を図化したものである。
☆約3年間にわたるプロジェクト研究の結果、当初想定した解明課題の大半が残る結果となった(リンク)。つまりそれだけ日本民族のルーツは多種で、遺伝学的にも南方、インド、モンゴル、北方シベリア系、が島伝いにまた朝鮮半島や樺太半島伝いに様々なルートで時代を重ねて渡来してきたのが実態のようです。
更なる検証が期待されます。
☆縄文時代1万年の間も海の向こうからの集団移動と、中国大陸・朝鮮との交流は途切れることなく、続いていたという可能性もあります
それでも、日本人の国民的特質として語られる「縄文体質」が連綿として現在にまで残り続けているのは何故なのかという問題も残ります。
・今回は「日本人形成のシナリオ」シリーズの第1回として、列島への集団移動の議論の系譜を概観し、現段階での最も有力と思われる説を紹介しました。※そのほか同様の関連サイトとして、「縄文時代以前から複数のルートで移住してきた?」リンク
・「縄文人の故郷、スンダランド」リンク
・「日本海南方海峡の開閉問題」リンク
日本本土の島嶼化は約170万年前に始まり,それ以降の間氷期には日本海に対馬海流が流入した.
・「大陸文化の縦断路-日本海文化圏-」リンク 国境のない時代とはいえ、7,000年前、ようやく朝鮮半島に現れた新石器文化の土器が、直ちに海峡を越えて対馬(上の写真の右の説明書き)に渡って来ていた事は、列島と半島の交流がいかに密であったかということを示す。
・「日本人の心のふるさと-照葉樹林文化-」リンク
投稿者 ryujin : 2010年09月20日 TweetList
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コメント
投稿者 2U : 2011年1月18日 21:52
染色体と渡来人の流れを組合わせるのは、おもしろい試みですね!
今後にますます期待です!!
拝見していて、少々気になったことがあります。
1.スサノオは物部で良い?蘇我ではないかと思うのですが?
2.物部の前に天皇家と婚姻関係を結んでいた葛城は?
3.江南からの「越人」と書かれていますが、その当時はまだ「越人」には船舶の技術はなく、どちらかといえば、「呉人」ではないかと思いますが。
以上3点が気になりました。
投稿者 takashi : 2011年1月18日 23:06
大和政権を藤原政権と呼ぶのは強引すぎませんか。確かに中臣連は天児屋命はを祖としていますが、政権を運営するほどの実力がなかったわけで、あえて挙げるなら、物部氏と軍事を統括していた大伴氏でしょう。藤原氏が政権をとったのは、平安時代になってからですから、ここに名前を出すのは適切とは言えません。
天皇家の氏神だったのを天武天皇が自らの宗教的権威を高めるためにてこ入れしたのが伊勢神宮隆盛の始まりで、それまでは天皇・皇后・皇太子だけが奉幣を行えるという閉鎖的な神社でしたので、比率が少なくても不思議はありません。
投稿者 mzch : 2011年1月19日 04:16
最近世界的に注目されているY染色体分析と日本の歴史をうまく融合させた分析、面白いです!
ところで、細かい話しになりますが、古事記や日本書紀には、スサノオよりも後の時代に大国主が登場します。確かにこの二人の関係はなぞが多く、大国主は固有名詞ではなく複数存在していた説や、スサノオの息子説、同一人物説などなど諸説あります。
図解によると、スサノオの前に大国主が日本にやってきている図になっておますが、このあたり、どのように考えていらっしゃるのでしょうか?
投稿者 午後の紅茶 : 2011年1月22日 21:15
2Uさん、takashiさん、mzchさん、午後の紅茶さん。コメント、ご指摘、ご意見ありがとうございます!
ちょっと自分の中でも勘違いしていた部分もあり…^^;再度構築中です!
また記事としてアップしますので、今しばらくお待ちくださいm(__)m
投稿者 さーね : 2011年1月23日 00:01
神話の世界/神社の歴史/渡来人の歴史が、フィクション・ノンフィクションを複雑に織り交ぜながら結びついているのは驚きです。
このような視点で勉強するまでまったく知りませんでした。
ところで西洋の部族闘争の歴史には、鉄と馬が大きく関わっています。この記事で紹介されている3人の内、鉄と馬との関わりが強いのは、スサノオでしょうか?
このあたりも掘り下げて調べてみたいですね。