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2010年09月23日

シリーズ「日本人の“考える力”を考える」第6回 縄文人の信仰は如何にして受け継がれたか

■縄文時代の精霊信仰・自然信仰
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自然の恵みが豊かだった縄文時代、食料を確保する手段として、狩猟採集生産か漁猟採集生産を営んでいた。四季の変化もあり、多様な動植物が存在していた日本列島では、恵みをもたらす自然への感謝の気持ちが、精霊信仰→自然信仰へと発展していく。
各共同体ごとに恵みをもたらしてくれる自然への信仰が強まっていったが、”自然”というような抽象的な概念が登場することは無く、(精霊信仰から発展したことからも分かるように)非常に具体性を持ったもので、一つの山、一つの川、海のある部分、などへの信仰であった。例えば富士山の神や三輪山の神、玄界灘の海の神、住之江の海の神などのように、特定の場所の自然物に宿る神であった。
このような極度な具体性が、縄文時代・日本の信仰の特徴で、中国大陸の「天」や西洋の「ゴッド」というような抽象的な信仰は生じなかった。抽象的な神は「頭の中」に存在するものであり、それはすなわち現実とは切り離され「持ち運びができる」ということである。一方で具体的な神とは、自然そのものに宿る神であり「持ち運びができるものではなかった」。また、様々な自然物に囲まれている縄文人にとっては、具体的な自然物一つ一つに宿っている神が無数に存在することになる。
「無数に存在する」「極度に具体的な」「移動しない自然神」への信仰が、縄文人の信仰形態であり、日本人の信仰の原点でもあるのだ。

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■弥生時代の稲作伝播と青銅器祭祀の広がり
縄文時代後期、越人によって(朝鮮半島経由で)稲作がもたらされたが、縄文人がその生産様式を大規模に受け入れることはなかった。
そもそも、狩猟採集生産や漁猟採集生産を、豊かな自然の中で営んでいた縄文人にとって、必要性が薄かったからだ。また、大規模に耕作地を開拓する必要がある稲作は、具体的な自然物一つ一つに神が宿るとしていた縄文人にとっては、受け入れがたいものだったからだろう。
しかし、紀元前4世紀ごろ(2400年前ごろ)から渡来人と共に鉄と青銅器が伝えられると、稲作は全国的な広がりを見せ始める。
中国大陸では青銅器文明の後に鉄器文明へと移行していくが、紀元前4世紀ごろには製鉄技術が確立されており、日本にはほぼ同時に伝来してきた。当時、鉄器は武器や農耕器具の原材料であり、磨けば光り輝く青銅器は祭祀器具の原材料であった。
渡来人が勢力を拡大していくにつれ、鉄製の農機具も広がりを見せ、寒冷化し自然の恵みが減少していた日本列島人にとって農業生産は魅力的に映ったことだろう。
また、越人は稲作技術と同時に、農耕神信仰をも持ち込んだ。多神教世界で生きてきた縄文人にとって、農耕神を受け入れることに抵抗は少なかっただろう。しかし、元来、自然物一つ一つに神を見出していた縄文人は、農耕祭祀を土地祭祀と一体化させていく。つまり、耕す土地の神を鎮めるための祭祀を生み出していくことになる。この時使われたのが、青銅器だった。(戦争が激しかった九州地方では、豊穣の期待よりも戦勝期待が高まり銅剣・銅矛が埋納された。戦争が激しくなかった畿内では、豊穣を期待する農耕祭祀が大きくなっていき、銅鐸が埋納された。)
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ここで生まれた農耕神は、縄文信仰と一体となっていたこともあって、「移動しない」。だから、新たな水田を開拓すれば、その度に新しい農耕神が必要となった。実際には、「分霊」しながら農耕共同体が信仰する農耕神が、勢力範囲を拡大していった。
■祖霊祭祀の誕生
農耕と同時に私有意識も持ち込まれたため、農耕共同体での指導者層が徐々に固まっていく。また、農耕共同体の規模拡大に伴い、農耕集団同士の緊張圧力の高まり→戦争圧力もあって、守護神信仰が高まっていった。
農耕共同体の指導者層は中国大陸からもたらされた支配概念を用いて、共同体の安定の為、支配を正当化する必要に迫られる。そこで生まれたのが、指導者層の祖霊を守護神と重ね合わせて信仰する、祖霊信仰だった。
この時代には、自然信仰が残ってはいたものの、農耕共同体における重要な祭祀は、農耕祭祀と祖霊祭祀へと移行していた。
■多神教神話の登場と神社の原型
こうした状態の中、北九州発の戦争が玉突き的に日本列島全体へと広がっていく。しかし、戦争とは言っても皆殺しにするようなものではなく、部族間の支配-被支配の関係が固まれば、それ以上継続されることはなかった。また、実際の戦争になる前に、支配-被支配を決定する場面も多かったであろう。いずれにせよ、小規模で独立した農耕共同体は、服属・支配を繰り返しながら、クニとしてまとまった大規模集団へと拡大していった。
ここで、それぞれの農耕共同体での祖霊祭祀や農耕祭祀が問題になる。被支配部族に、支配部族の祖霊や農耕神を強引に祭らせれば、被支配部族の祖霊が祟りを起こすと考えられたため、安定的な服属・支配は達成できない。そこで、被支配部族の祭祀はそのままに、祖霊や農耕神の序列を定めていくことなった。
それぞれの、祖霊や農耕神には、”物語”が付帯しているが、それをつなぎ合わせることによって、支配部族-被支配部族の祖霊や農耕神の、「どちらが先で、どちらが上か」が分かるような「神話」が作られていく。つまり、古事記に見られるような、「多神教の神話」が地方ごとに生まれることになる。
この頃にはもう祭祀は非常に政治的な意味を帯びてくるようになる。紀元前200年以降には西日本各地ではそれぞれの共同体の区画内に特定の祭政用の空間を作るようになり、そこで共同体の首長権力者が中心となって諸々の祭祀や政治が執り行われるようになっていった。この祭政空間は神域とされ、そこには祭祀専用の建物や鳥居なども設けられ、神社の原型となったであろう。
ここにおいて、神域とそれ以外の場=ハレとケという観念が広がっていくことになる。
■まとめ
「無数に存在する」「極度に具体的な」「移動しない自然神」への信仰が、縄文人の信仰形態であり、日本人の信仰の原点でもある。農業生産、それに伴う農耕祭祀、支配者層が登場したことによる祖先祭祀、これらの祭祀を縄文信仰の中に取り込み、日本独自の農耕祭祀、祖先祭祀を紡ぎだしてきた。
古墳時代に向かって、複層的な社会が出来上がっていき、同時に氏族共同体を繋ぐ多神教的な神話が、地域ごとに生まれていく。これらを更に統合し、古代国家=大和王朝が誕生する。
(ないとう)
「日本人の‘考える力’を考える」シリーズ
第1回~序:追求の目的と視点
第2回~追求の立脚点
第3回~縄文土器はなぜ凝ったのか?
第4回~銅器にみる縄文以来の自然観
第5回~神話を国家起源に持つ日本の可能性と限界(前)
第5回~神話を国家起源に持つ日本の可能性と限界(後)

投稿者 staff : 2010年09月23日 List  

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