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2014年12月09日

地域再生を歴史に学ぶ~第1回「縄文時代の地域の真髄は”ネットワーク”だった」

縄文時代には、「地域」は多数の集落が協力したり、遠方の集団と交易でつながったり、ダイナミックな広がり相互関係をもっていました。

縄文時代は1万年の歴史があり、この時代に培った土台が未だに日本人の中に息づいていると思われますから、そのような縄文時代集団の広域にわたる相互関係→地域意識とはどんなものであったか、他の国や地域とどう違っていたのかを考えてみることは重要と思われます。まずは、その広域の協働の具体事例から紹介します。

①狩猟採集における共同作業

縄文人は採集と漁労が中心でした。まとまって採取や漁労ができる場は限定されており、いずれも生活範囲を超えた集団同士が重なりあいます。そこでは争いより、むしろ共働して大きな収穫を得るという行動を取りました。サケマス漁などは、いくつもの集団が一斉にその時期に集まり、食べきれないほどの食料を持ち帰って越冬の食糧にしました。

イルカや鯨漁なども集団漁で囲い込む事で大きな収穫を得ました。

どんぐりや栃の実にしても、獲れる場所、時期は限られているわけで、そこに複数の集団が集まって収穫していました。また、小動物やキノコ類、山菜は採取しすぎては次の年から収穫できません。獲りすぎないよう収穫量をコントロールする事も互いの集団間で行われたものと思われます。

自然の恵みの中で生かされる縄文集落は時に共働、時に互いに監視、制限をかけて自然とだけでなく集団間での共存を図りました。

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②集落による分業と共同保護・管理

縄文の集落は、固有の産物を大量に作り(→分業して)、遠隔地をも含む需要に応えたところがあったようです。黒曜石の採掘(岡谷市清水田遺跡)、ヒスイの玉の加工(新潟県長者ケ原・寺地)、磨製石斧の加工・研磨(神奈川県尾崎遺跡)、土製耳飾(晩期の群馬県千網谷戸)などがあります。

また、千葉県の東京湾岸の貝塚では、海岸から5,6キロ奥でも大規模な貝層が残されているそうで、海に出るには他の集落のそばを通る必要があり、各集落が、縄張りを主張、対立し、周囲の資源を独占していたのでは、こんなことは起きないでしょう。また、中期の東京中里貝塚でも、近隣集落の合意なしには実現できないような規模で、カキ・ハマグリなどの資源の保護・管理が行われていた形跡があるとのことです。

③大規模な祭りにおける広域での集落間の協働

祭りの場の巨大モニュメントは、どれも多人数の共同作業でしか建造不可能と思われます。たとえば、金沢市チカモリ遺跡(晩期)の環状の巨大木柱など、直径1メートル、重さ1トンを超え、50人がかりで運搬しなければなりません。石川県の巨大木柱列は他にも県内のいくつかの遺跡で発見されていますが、その間隔は15キロから50キロで点在しており、共同の祭りはそのエリア内、つまり歩いて日帰りが可能な範囲にある集落が共同で実施したと思われます。

祭りといえば集団の統合を高める行事と捉われがちですが、縄文の桁違いの規模の祭りは単一集団の為ではなく、いくつもの集団を束ね、互いの交信を高める為の装置でした。日本の祭が現代でも地域間を繋ぐ役割をなしているのはこの縄文の祭り性によるものと思われます。

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贈与・交易

黒曜石に始まり、水晶、土器、塩、貴重なものがいくつもの集団を渡って長距離に流れました。縄文時代のネットワークの根底に互いの集団間の緊張圧力、戦争圧力を緩和する贈与というシステムがあります。その集団にとって最も貴重なものを贈り合うというのが贈与の始まりですが、それが集団間の技術を高め、曳いては縄文時代の高い土器技術の創造に繋がりました。贈与は集団間の緊張圧力を緩和したが同時に集団間(同類間)の切磋琢磨の追求競争を作り出しました。

以上見てきたように、縄文の時代には一般に考えられるより遥かに広域にわたる、ダイナミックな連係、協働をしていまし、自ら生きる場を構築してきたと言えます。

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●狩猟・採取の時代には、広域の連携・協働が必要

では、国家が地域を管理する私権時代には想像も付かない広域にわたる共同体同士の協働が行われていたのはなぜでしょう。ここは発想の転換が必要で、縄文時代には、のちの私権時代と違って、むしろ地域が主体性を持って協働が開かれ、可能性としてあったと考えるべきと思います。

例えば、農業を営む集団は確かに、特に水の利用を巡って近隣の集団と調整や協働が必要なのは間違いないでしょう。しかし、縄文の採集の社会では、(一定広域を移動し食料を得る生活をしているため)森林からの恵みを共有する集団が農業の場合より遥かに多く(広域にわたる)ことになります。当然、一集団が自集団のことだけを考え利用しつくすことなどありえませんから、集団間での調整・統合関係がより重要になります。(贈与などの社会行為の必要性も高くなる。)

山がわの採取部族と、海の漁労部族の連係もあるのですが、これは上記では説明できませんがなぜ起こるのか。縄文時代、極限時代に比べれば豊かになたとはいえ、まだまだ、ギリギリの生活でした。同じ山の集団同士では、基本的に同じ資源に頼って生きていたでしょうから、気候変化などで食糧は乏しくなったときは互いに苦しい状況のはず。そのような時、生業の異なるも同士が協力し、補完しあうことは、(集団は基本的には自給して生きているが)生存確率をより高めるために、非常に重要でした。

●縄文時代の地域の真髄は”ネットワーク”だった

一方、縄文人のネットワークは単に隣町、隣地域に留まらず、200kmも300kmも離れた遠隔地まで届いています。また、福井県の鳥浜の事例では遠く中国大陸まで物資や人が移動しており、交通技術のない時代としては破格の長距離交易が行われていた事が特徴的です。

これは日本が四方を海で囲まれており、沿岸部を通じて舟で移動する、安全な海の交通網を持っていた事と、半分程度いたと思われる漁労民の存在がそれを可能としていました。

そして情報を求める動きは現代人も古代人も同じで、集団の安全、安心を確保する為に外部情報は貴重で価値あるものでした。まして古代には新聞も守ってくれる警察もいません。自らの集団は自らで守らなければ生きていけませんでした。インターネットを使って誰でもいつでも知りたい情報が手に入る現代とは情報の価値が全く違っていたのです。images[5]

言い換えれば縄文人のネットワークとは集団として生きていくために必要不可欠なものであり、互いに助け合い、情報を共有し、刺激を与え、与えられる中で無限に伸びていったのだと思います。

そういう意味で縄文の地域意識とは現代より広域で重層的だったのではないか?そう仮説を立ててこのシリーズを継続していきたいと思います。

投稿者 tanog : 2014年12月09日 List  

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