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2011年01月09日

縄文探求シリーズ 縄文時代の集団~竪穴式住居や集落に見る集団の様子?~

こんにちわちわわです。
前回は竪穴式住居の建築的なアプローチを試みましたが、今回は一歩進んで縄文人の集団はどんな集団だったのか?に迫ってみたいと思います。
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縄文人の集団性については、戦後の和島理論を起点とし、さまざまな学説が登場しますが、文化人類学的論証や民俗学的論証が多数ある一方、考古学的裏付けがとりにくく、確固たる学説が確立しにくい分野でもあります。
今回は諸説を尊重しつつも、竪穴式住居や環状集落の様子を紐解きながら縄文時代の集団について肉薄していきたいと思います。
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【縄文人の集団を考察する和島理論】
かつて列島に展開した「原始集落の実相とその変遷」を解明するためには、集落を構成する住居の成員数にもまして「住居跡とその成員が如何なる性格の集落に属し、またその集落の構成部分として如何なる機能を果たすかを、具体的に、従ってまた歴史的に追求する必要がある。」(和島)
という問題意識に基づいて、和島氏は縄文時代を集団婚、つまり多夫多妻ともいうべき原初的な婚姻形態に支配された「古い無階級氏族社会」として位置づける氏族共同体論を提唱しました。集落それ自体が自系的な氏族共同体的性格を帯びた一つの「強固な統一体」として存在し、このような「自然発生的な血縁集団」の内部にあっては同居制を基調とする個別的な家族形態は未成立であり、住居内の炉によって表徴される一世帯はあくまでも「同質の劣弱な単位」に留まっていたと論説しています。
この同ブログでも過去に紹介しています。
学者による集落論第2回【縄文の集団に学ぶ~その7】和島家族論って本当?
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/08/001101.html
しかし、この和島論は考古学的物証に乏しく、以後さまざまな論説が噴出する火種となっていることも確かです。
【竪穴式住居には誰が住んでいたのか?】
この説に迫る唯一の考古学的物証は、姥山貝塚B9号住居出土人骨における、成年男子2人、成年女子2人、性別不明子供1人が、食中毒等で5人同時に死亡し、そのまま発掘された遺跡に見ることができます。
諸学説では、この例を姉妹2人と2人の男性、もしくは、姉妹2人と、兄弟2人との間に成立する多夫多妻ともいうべき複婚家族という仮説を立てています。
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ところが、この説は5人同時死亡を前提とした仮設であり、実は姥山例は第三者による埋葬を思わせるように上部に硬質の褐色土で覆われていた事が知られており、特に床面西側に単独分布していた1号女性は四肢を折り曲げるなど、屈葬を思わせる整然とした遺存状態を示していた事が明らかになっています。5人同居=5人同時死亡説の矛盾は明らかであり、西側の1号女性は廃屋葬という形で廃屋後の本住居に埋葬されることになったのです。
すなわち、ここで明らかなのは、一住居に成年女性一人とその子供に対して、成年男子2人が同居していたという事実です。
【竪穴式住居内の男女の空間領域】
前期には完全に定着しますが、早期には住居の中央に炉が設けられます。これは石器時代の屋外炉による集団生活から、屋内炉による住居単位毎の食住生活が定着したことを意味します。
さらに、入口側に子供が死亡した時に埋葬する埋甕に示される女性の空間、奥側に石柱を中心とする男性の空間が共通仕様として定着します。
この事から、父系家族説を唱える学者さえいますが本当でしょうか?
少なくとも、母子に集団を支える男を加えた現在の家族に近い男女年齢構成による食生活が営まれていた事だけは否定のしようがありません。特に入り口に近い活動域に女性域があるという事は、炊事を中心とした家事労働を女性が果たしていたと見て間違いないでしょう。
【環状集落の構造に見る集団の構成】
中期に見られる遺跡は、2~6棟を基礎とする一単位が広場を中心にして二単位程度並存している事が多いようです。
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住居の配置を細かく見ると、2住戸を一つとする集団が2~3集合して一単位とし、それが2単位存在する集落が主流を占めます。
すなわち、1住戸4~5人(約3㎡/人)が2セットで1家族(ここでは仮に家族と呼びます)それが、2~3個集まって8人~30人が1単位、それが双対する形で最小で16人~最大で60人が一つの集落を形成している事になります。
【出自を継承する墓の構造】
中期には中央に集団墓を抱く形の環状集落が定着します。
その構成には竪穴住居群や土溝墓群の配置を複数のセッションに区分する「分節構造」が見られます。
①2群をほぼ同数に区分されるもの
②分節単位により、数量的不均衡があるもの
③片側半分だけの墓群があるもの
の3つに大分されます。(①が大半を占める)
これは、分節されたそれぞれの墓群の埋葬者の抜歯形式の違いにも明確に現れており、出自の違う大きく2つの集団が併存して1つの集落を作っていたものと見て間違いないでしょう。
③の片側だけしかないものは、出自の違う他集団との遭遇を望んでいたものの、最後まで実現しなかった集落の姿だと思われます。
【千葉権貝塚の事例に見る1集団の出自による年齢と人数構成】
注目すべき分析事例があります。この遺跡では集団墓の人骨の出土状態を精察して、死亡の時間差を求め、時間差を除去した静止点での集団の構成員の数と年齢の特定を試みました。
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この集団は開設期に2つの現存するAグループ8人、Bグループ8人の2グループが合体し、計16人の1つの集団を形成したと分析しています。住居はそれぞれ2住戸づつの計4棟です。
高齢層の多いAグループと若年層の多いBグループがマッチングして形成された集団と思われますが、住戸数が集団開設期の4棟から、人骨を集積して集団墓にした20年間に一つ減り3棟となっており、そもそも子供を生める成年女子が少ないところ成人女性の死亡により、集団の拡大に至らなかったと見られています。
【以上から考察する集団構成】
権原貝塚の事例で見られるように、集団人口は16人程度では出産年齢の女性の数が安定されないため、最低の集団規模は恐らく20人以上30人程度、一つの縄張りで養える人口も集落の規模の大きさから最大で50人~60人と見られ、最適規模の30人~40人を1.5倍程度超えると集団は分割し、他集団と併合して新たな集団を形成するものと考えられます。
出自の違う2グループが1集落を形成し、そこでの男女の交換により婚姻制度の原点が形成されたのでしょう。
各住戸には、母子に成人男子と母の血族を加えた4~5人が1単位となる食住集団を形成します。1住戸当たり出生可能な女性は1人~2人で、2人を越えるとほぼ集団規模の限界でもあり、集団分割を余儀なくされたのではないでしょうか。
集団においては出自が決定的に重要な社会的かつ集団的根拠となり、出自を固定するためには必然的に母系集団となります。但し、家の大黒柱はやはり男であり、現代人が想像も付かないほど男女役割共認は強固に形成されていたのだと思われます。

投稿者 tiwawa : 2011年01月09日 List  

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コメント

戦前までは、庶民レベルでは、協働関係や共同体意識が残っていたのだろうと思います。明治以降、欧米の列強国からの強制圧力に伴い、国家政策を変えていった特権階級、試験制度を導入した官僚体制により、日本の上層部は、庶民の協働関係という関係の枠から大きく逸脱し始め、戦後、GHQによりさらに、市場原理への洗脳と共同体意識の解体を経て庶民にいたるまで、もっとも重要な縄文体質(本源性や共同性)を見失ってゆく経過がこの歴史を見て明らかになりました。
 何が、この震災で覚醒したか?は、この特権階級と庶民の矛盾、特権階級の嘘・騙しの露呈、及びもっと必要な日本人の特性(縄文気質)をはっきりとりかいしたのだと思いました。
 これから我々が進む道は、過去の社会を復興するのではなく、新しいみんなが納得する事実に基づいた共認原理に基づく社会を作ってゆくことなのだろうと思われます。

投稿者 2310 : 2011年5月14日 19:18

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