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2007年10月25日

縄文の宗教

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「自然人は、どこでもアニミズム、つまり超自然的存在、霊的存在への信仰をもっている。」と、言われているように、彼等の一切の行為は、経済的行為にせよ、政治的行為にせよ、芸術的行為にせよ、呪術・宗教的行為との混融を示し、宗教は未開人の生活の根幹をなすとされている。
では、縄文の宗教観はどういったものだったのでしょうか??「縄文文化と現代」に詳しく紹介されていますので、抜粋します 😀
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■自然の脅威
 常に自然の恩恵に浴し、活動的な生活を営んでいた縄文人たちにも、自然の巨大な力に対抗するだけの技術は持ち合わせていなかった。神奈川県平坂貝塚出土の縄文早期人の人骨には、何本もの「飢餓線」が形成されていることは、縄文人が絶えず自然の脅威にさらされていたことを示している。
 人間は、この自然への無力感にはてしくなく深い不安を覚えたに違いない。その結果、「人間の周りにいる動物や植物や事物は様々な働きをして人を助けたりその邪魔をしたりするから、こういったものにも魂や霊が備わっているに違いないと思うようになったであろう。
 そこで、彼らは呪文、儀礼などでこの自然に立ち向かい統御しようとするが、それに限界があることを痛感すると、「畏れや希望、嘆願矢挑戦の気持ちから高次の存在(悪霊、先祖の霊、神など)に訴え」て、ここに宗教が生じるのである。それは、まだ呪術に近い「プレアニミズム的宗教」である。

 縄文時代の宗教(精霊信仰)は、生死にかかわる程の厳しい外圧から生まれ、対象化しようとした結果生まれたものであることがよくわかります。

■多産崇拝
 人々は、「多産と再生」に対する崇拝の念を持っていた。絶えず飢餓の危険にさらされていたので、彼らは、大地、森、川、海など食物を与えてくれるものに崇敬の念を抱いたのである。だから、「収穫を祝う儀式などの公的な集まりでの性的放縦」があったとしても、それは「人間と自然の中にある豊饒の力に対する敬意を表す」(マリノフスキー 前掲書、52頁)ものであった。
 そして、その自然が季節に応じて多様な幸を豊かに与えてくれる循環を見て、人々は自分らの「懐妊、誕生、思春期、成人、結婚、死」というサイクルを再生過程と見てゆく。死は生まれ変わりの契機とみてゆくのである。人生の重要画期が、当時の人々の儀礼、信仰の対象になったであろう。
 人間の誕生が自然の循環のうちにとらえられていて、そういうことに関わる崇拝の念は生活共同体を維持するものともなっていた。生活に埋め込まれた「宗教」なのであった。
 
 彼らは、こうした自然の循環を冷静に観察して、その限りでの科学的・合理的思考を育んでいった。火は摩擦で起ること、道具を使用すると楽になることなどなど「生活の科学」を敬うべき自然から学んでいった。

 縄文時代の宗教は生死に密接した外圧から来ている為、生命の誕生である出産・死は特に重んじられた儀式となる。また、そこに自然の循環を見ることでその背後にある事実認識から、学んでいったことが伺い知れる。

■人間の死
 縄文人が、死後人間は神の国に行くと思っていたかどうかは分からないが、生死の自然循環においては、死後死者の国に行くと考えていたようだ。縄文時代後期以降、太陽の沈む「あの世」は西方にあるとされていて、アイヌ人も「死んだ人が立ち上がったとき、まっすぐ西の方に向いて行けるように頭を東に向けて埋葬する」のであった。
 埋葬法 だが、この「悲しみと恐怖を克服」することは個人ではできないのであり、「集団の力が必要」となり、ここに「宗教的な掟」「儀式」が必要になる。その一つが埋葬法である。
 
 縄文時代の葬送法は土葬で、楕円形の土坑墓に手足を折り畳んで葬る屈葬が一般的だった。石を胸に抱かせて葬る抱石葬がみられることもあるので、縄文人は死者がよみがえってくるのを恐れていたという解釈がある。逆に、屈葬は子宮の中の胎児の姿であり、再生への願望をあらわしていた、という解釈もなりたつ。
 2千以上の縄文貝塚のほぼ半分は関東平野にあった。縄文人は、「人間ばかりか、すべてのものの霊は死ねば必ず天の一角にあるあの世へ行く、そして、あの世でしばらくの生活を行って、この世へ帰ってくると考え」ていた。

 現代人と大きく違う点はこの貝塚への考え方に顕著に現れているように思う。彼等の精霊信仰は正に事実認識・対象への同化そのものであるが故、死の捉え方も「人間だけが特別」というものではない。全ての生命に当てはまると思われる事象を、人間にも当てはめて考えているのでしょう。
 このように、縄文の宗教は常に自然・外圧を直視する姿勢そのものから生まれていることがよくわかります。弥生時代以降、貧富の差が発生してからは権力者となるものが現れ、神もそのような特徴を強く帯びていきます 8)
 神は人間が創りだしている為・その時の社会影響が色濃く出てきます。縄文時代の信仰を解明することは、彼等の生活様式・何を感じていたのか?を調べる上で重要な鍵となりそうです 😀

投稿者 dai1028 : 2007年10月25日 List  

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コメント

アステカ・・・っていうと、「生贄」ってイメージが強いんですが、「チナンパ農法」など、まだまだ興味惹かれるところが多そうですね。
>「戦いの部族」だったのです。
遺跡や彫刻、石碑などからいろんな事がわかってきています。
どんな戦いだったのでしょうか?
次回は、その戦いについても教えて欲しいところです。

投稿者 匿名 : 2007年11月15日 22:33

是非続きが知りたいですね

投稿者 匿名 : 2007年11月22日 19:28

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