「南から見た縄文」5~台湾に残る本源性のルーツとは |
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2011年04月24日
緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」第4回.地震・災害大国日本の歴史―2
江戸 安政地震の絵
地震・災害大国日本の歴史―1に引続いて近世(江戸時代)を見てみます。
以下は緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」第3回.地震・災害大国日本の歴史―1からの引用です
>災害には、台風、地震、噴火、津波、洪水、旱魃、長雨、虫害、飢饉、疫病等があります。これまで日本人は幾多のこれらの災害を乗り越えて来ました。このDNAが今の日本人に刻印されています。しかし、近代市場社会以降の日本人は、先人の教えを忘れてバブルを作り上げ、経済至上主義・利便性第一を追求して来ました。その結果、大切なものを見失ってきたように思います。それが何かを過去の記録に同化する中で見付けたいと思います。
今までの記事はこちらです
緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」 プロローグ
緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」 第1回 日本人の縄文体質~有事に現れるその共同性と本源性
緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」 第2回海外から見た日本人の共同性
緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」第3回.地震・災害大国日本の歴史―1
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●近世(江戸時代)
なまずを押さえる鹿島大明神
江戸では、幕府(お上)と村落共同体は地域の安全=安心の確保のために協働の度合いを強めて行く。そして、村落の長は地域の責任者としてその存在感が同時に高まっていった。太平の時代が生んだ農村の過剰人口が一定期間都市に滞留することで都市化が更に進む。その人々が都市で生きて行くために必要な生活情報は、庶民の手で作られる「かわら版」というインフラで整備されてゆく時代であった。幕府の積み重ねられた災害対応(マニュアル)と村落共同体の連携という安心基盤の上に、庶民の実感=かわら版による生活情報を塗り重ねることで都市化が進んだ時代といえる。
今と比較すると、庶民と緊密な連携で動いていた幕府の存在の確かさ(=安心感)に対して、だらしない現在のお上が浮き彫りになります。そして、江戸時代と同じように、戦後以降に都市に移動した庶民は、大震災を契機に、当時のかわら版に代る「ネット」の事実情報を通じて1つにまとまりつつあります。では詳しく見てゆきましょう。
>日本災害史(北原糸子編)を参考に記載します
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江戸時代は、災害記録の宝庫です。量的に見ると、信頼すべき地震記録として有名な、諸国に租庸調を免除する令を発した推古7年(599年)から江戸の終わりまでの有感地震記録の89%は江戸時代の記録です。この記録から、情報という視点で身分制社会のありようを見てみましょう。
・領主階級
被害の全体集計がある。為政者として領民の緊急救済に必要な被害数値を把握するためであり、同時に田畑の損毛高を把握し、当該年次の領国財政の動向を掌握するための行政上の最重要事項です。また、被害が藩の力の及ばないほどの大きなものであれば、幕府への拝借金を願い出る、あるいは利水や治水のための川々の普請を願い出ることも必要になる。
・下級階級
こうした被害状況を把握するための基礎的な調査の指令と集計をする。
・村落の指導者
上記の基礎資料は、下級階級の命により、村落の指導者などが調査して報告する。と同時に、村の建て直しのために立ち働いた経験を後世に活かす、または子孫が再度同じような災害に見舞われないための教訓を書き残す人も多い。
多くの記録の担い手は、村落や町の指導書という識字能力も高く、自らの地域社会における責任を自覚している人々である。
(例:稲むらの火 )を読めば当時の庄屋の責任感に同化出来ます。
○その他の情報
商品として出版され、不特定多数の読者が手にする小説、随筆類、それにかわら版と呼ばれる無届の出版物がある。特に、近世の情報統制下で無届のかわら版による人々の生活に関わる災害情報は幕府から黙認されていたようで、その残存状況は非常に多い。一般化するには18世紀後半、明和9年(1772)の江戸大火災あたりからと言われている。このころから都市の成り立ちは大きく変化し、農村の過剰人口が都市に仕事を求め、一定期間都市に滞留する社会的流動人口のパターンが作られた。人々はさまざまな伝手(つて)を求めて、都市に移り住む。都市は、人々がお互いの生活実態を知らなくても暮らしていける場であるのは、暮らしのための情報がなんらかの形で入手しやすい場所だからである。おそらくは、口伝手が大部分だったろう。都市では村落共同体とは異なり自ら情報を獲得し、自分で工夫を編み出す必要=需要があったからさまざまな形で情報が行き交った時代であった。
ペリー一行の船を主題とするかわら版
○江戸時代の災害と現在の災害について(江戸時代の河川災害から)
東日本大震災の津波のエリアは広かった。しかし、江戸時代の災害と異なり、特別とか想定外だったのでしょうか?ここで、過去の歴史と比較してみます。
信濃川の災害資料(1750~1800年)をみると、洪水は8年に1回の頻度で多発しています。少し、時代を遡って明治29年(1896年=約100年前)の洪水を見ると、新潟平野の大部分が水没しています。ということは、自然の猛威と共存する歴史は今も続いているのです。 下図参照 (関東大震災、阪神淡路大震災、中越地震、福岡県西方沖地震、能登半島地震、東日本大震災と、ここ90年間で多くの人が地震で命をなくしています)
今回は、津波災害の意識が遠退いた分、驚きが大きかった。しかし、緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」 第2回海外から見た日本人の共同性にあるように、天災を嘆くより、皆と一緒に生きることで、活かされている喜び(活力)を互いに感じ、そこに活路を見出そうとしている人々の自然な姿がある。これは、村落共同体が強く残る東日本の人々の中にあった、過去から綿々と続く「自然と共存する意識・皆と協働で生きる充足感」が素直に発現したと見るのが自然でしょう。そして、それを見た現代人の意識もそこに収束=同化し、いまや全世界に絆(共同体)は広がっている。
日本災害史 北原糸子編よりお借りしました
○1855年 安政江戸地震
日本災害史 北原糸子編よりお借りしました
安政江戸地震は安政2年10月2日(1855年11月11日)夜10時ごろ発生した。地震は内陸の直下地震、震央は東京港北部、マグニチュード7と推定されている。被害の記録から推定される震度分布図によれば(上図参照)、山の手の台地上は震度5、皇居外延、神田小川町、小石川、下谷、浅草、本所、深川など、下町と呼ばれる地域は震度6強、あるいは6弱と推定されている。町方の死者は4293人、負傷者は2756人(町奉行調べ)とされている。大名屋敷での死者は2000人を上回ると推定されるが、旗本や御家人の死者数は不明なので、江戸中全体では死傷者がどの程度になるのかは、不明である。江戸の応急対策をみてみることにする。
・大名屋敷の緊急・応急対策
被災した藩邸は116と推定されるが、幕府から再建資金を借用できた大名は12件、その援助総額5万8千両であった。対象は、当時の幕閣の中心の老中4名、寺社奉行3名、若年寄5名だった。これは、江戸時代の公的資金が貸し付けられる場合の規則に則って、無利息10ヵ年賦返済を原則とするものだった。緊急時の事務停滞を1日も早く復旧させる目的があった。現代流にいえば、中央官庁の復旧工事にあたる。その他の藩邸は、国元から藩邸の復旧資金や材木などの物資、職人、人足、及び米・味噌などを調達した。
安政江戸地震の大名屋敷の被害
江戸府内の大名屋敷(黄色)のうち、破損あるいは類焼などの被害が確認された屋敷(茶色)を示した。江戸の大名屋敷内では、少なくとも二〇〇〇人は死亡したと推定されている。
・旗本・御家人の被災後の対応
10月2日の地震発生後5日を経た10月7日に禄高に応じ、1万石以下から100石までの領地支配をする地方取と、100俵以下禄米取の御家人層に大別し、前者には無利息10年賦の拝料金を、後者には返済を要しない救済金(被下金:くだされきん)を与えるというものだった。(旗本層:4488人、御家人層:1万2966人)
・町人対策―町触
町奉行の調べでは死傷者は約7000人、建物被害は、1万4346軒と1724棟、それに土蔵1404戸前が倒壊した。安政地震の当時1865町が約240人程度の名主によって、数ヶ町から多い場合には30ヶ町程度をまとめて管理される仕組みであった。名主が置かれていない町々には月行事役が置かれ、行政の末端業務を担った。
最初の町触は、火の元の注意であった。市中全体へ至急の伝達が南北2ヵ所ある奉行所から触れ出された。それと同時に、諸物価・職人手間賃を高値にしてはならないことも触れ出されている。3日後に風紀維持のために、吉原から逃げ延びた遊女の取り締まりの強化を出した。
震災による死者は、「変死人」と称され、通常死亡した場合の検死の措置をとらなくてよいという指示が4日に出されている。ただし、名主が遺体の検死に立会い、変死・怪我人、潰家の調査を6日に持ち寄るように指令が出された。遺体の埋葬については、本所回向院が引き取り手のない死亡者を、回向無料で引き取る旨を奉行所を通じて各町に通達された。
・町人対策―お救い小屋
同じく4日には、お救い小屋の設置が触れ出された。浅草広小路・深川海辺町の2ヵ所は5日夕方、幸橋門外は6日夕方から開所、小屋入り願い者は、それぞれの小屋へ願い出るように触れ出された。また、小屋建設のための板囲い部材などの調達に支障が生じないように命じている。お救い小屋では同時に、窮民へ握飯の炊き出しが行われ、一人握飯1つずつ町々の責任者が受け取り、自分の町の窮民に配布した。町会所のお救い小屋は5ヶ所、ほかに上野寛永時寺管主の輪王寺宮が上野山下にお救い小屋を設置した。入所した窮民数は全体で2700人弱であるから、江戸の町方人口の5%程度にすぎない。お救い小屋設置から約1週間を経た10月12日から20日までの握飯配布を受けた人数は20万2400人であった。その後、其日稼ぎの者たちにお救い米が配布された。このお救い米を受けた町人は38万1200人余であった(「東京市史稿」救済篇4巻)。江戸の人口の70%にあたるお救い米受給者とは、普通に暮らしている江戸の庶民と考えてよい。
以上をみてきた町方住民への震災対策は、震災の救助に際して新たに設けられたものではなく、従来からの町会所の窮民救助のさいのマニュアル、つまり、大火で類焼した窮民救済、あるいは天保の飢饉時の窮民収容のお救い小屋設置、あるいはお救い米の給付など、すでに実績のある救済マニュアルに基づくものであった。このことは裏返せば、窮民として町会所の救済対象なる住民層はすでに1つの社会層として行政側に把握されていたということである。災害のような非常事態が発生したときには、行政上の救済措置が行われなければ都市の機能が安定的に展開しないという危機意識が根付いた社会だった。市中が混乱を極めていたと思われる震災3日後の10月15日には、生活回復に向け、予想される混乱を避けるために、両替の迅速化、職人不足の解消、日常の商売渡世への復帰、棄捐令や飯米不足に乗じた風評の取り締まりなどの細かい指示が出された。
ここからお借りしました
・町人対策―施行
現在の義捐金に相当する施行(せぎょう)は、民間の相互扶助が広く震災社会を覆い、生活困難な階層の生活回復に役立った。幕府は施行を積極的に行わせるために、施行を行った町人を褒賞し、名前と施行額を町々の番屋に張り出させた。ある程度の営業規模を持つ町人にとっては施行は一種の社会的義務であり、社会的ステータスを示す行為と位置付けられていた。
施行はお救い小屋に対するものと、町々の貧困層に対する場合とがあった。前者の場合で174件、米梅干、沢庵、鍋など多様な物品の施行があるので、施行額は算出できない。後者の場合は施行町人255人、施行額は1万5000両に及んだ。1両20万として、現在の金額に換算すると300億となる。
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○1783年浅間山天明噴火
浅間山天明噴火のかわら版 ここからお借りしました
詳細は記載しませんが、その時の復興策の一例を>日本災害史(北原糸子編)から記載します
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人も家も火砕流に埋まり村が消えてしまった藤原村のような村の再興問題である。幕府の実施的責任者:幕府勘定吟味役根岸九郎左衛門鎮衛の意を受けた藤原村隣村名主らの主導により、生き残りの村人93人をそれまでの家格や婚姻関係にかかわらず、新しい家族を作るために夫婦とし、家と村の再興を図った。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
引用終わり
ここには個人という概念はなく、共同体という紐帯を通じて再興する強い意志(手法)を感じます。震災後の孤独死が阪神・淡路大震災で問題になりました。その後の中越地震では、村落の共同体を維持しながら避難したことでそれを克服しました。(例:高齢化した小千谷市の死者は1名)
実は、昔の人は、人は人に生かされて充足(=安心)する。その安心感は、決して家格や既成の婚姻関係とは関係がない事を良く知っていたのですね。
●まとめ
江戸時代を振り返ると、現政権が1ヶ月経っても決められないことを、概ね1週間弱で、幕府と村落共同体の長の緊密な関係で実現している。そこに、かわら版という新しい媒体や、町触れや、お救い小屋、施行(義捐金他)による相互扶助の関係を塗り重ねて更に深く安心感を作った。
江戸時代以前の災害対策は、お上の祈祷(庶民も同じ)や、税の免除、土木工事等の技術改革。そして、庶民の村落共同体の構築による相互扶助体制で乗り切ることだった。
江戸時代は、幕府に認められた村落の長を中心とした共同体(=人々の充足感)を核として、災害と共存しつつ、全てのシステムが統合されて花開いたのが江戸であろう。お上・マスコミ・技術者・庶民について、現在と江戸時代を比較すると面白い結果になりそうです。今後の投稿で明らかにしてゆきます。 🙄
次回は、西洋文明が日本に入った明治から現在までを見て行きます。お楽しみに!
参考資料:
地震年表 日本(~江戸時代)
投稿者 sakashun : 2011年04月24日 TweetList
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コメント
投稿者 むらかみからむ : 2011年10月4日 23:19
日本古代史の中で 石渡信一郎&林順治氏の 『倭韓交差王朝説』は
きわめて理論的な説であると思いますが、どうして、異端説 扱いなのでしょうか?
(注:私は石渡教授&林先生と呼びます)
『倭韓交差王朝説』とは
(1)崇神は加羅から渡来し、九州のヤマタイ国を滅ぼし、350頃、纏向に第1倭国『加羅(南加羅))』を建て、箸墓に眠る。
(2)5世紀の中国に遣使した倭国王『讃珍済興』は 崇神の子孫になる。大きな前方後円噴に眠る。
(3)昆支と余紀は百済の蓋鹵王の弟。ともに崇神王家の済(ホムタマワカ)に入婿。昆支は応神になる。余紀は継体になる。
(4)応神は倭国王武として宋に遣使。491年に第2倭国『大東加羅(あすから=飛鳥ら)」を建てた。八幡大名神になった。
(5)継体は仁徳陵に眠る。仁徳から武烈の間は架空天皇。継体の息子の娘の石姫は欽明との間に敏達を生む。
(6)欽明は応神の息子で 531年継体の息子を討つ(辛亥の役)。ワカタケル大王となる。蘇我稲目と同一人物。
(7)蘇我馬子と用明と聖徳太子の3名は同一人物で、欽明の息子。隋に遣使したアメノタリシホコのこと。
(8)蘇我蝦夷はアメノタリシホコと敏達の娘の貝蛸(フツ)姫との息子。子の入鹿とともに天皇。崇峻、推古、舒明、皇極は架空天皇。
(9)馬子に殺された物部守屋は敏達の息子の押坂彦人大兄と同一人物。その息子が天皇になれなかった田村皇子。
(10)天智も天武も田村皇子の息子。但し、異母兄弟。天武の母は馬子(聖徳天皇)の娘で 天武は古人大兄と同一人物。
以上 10個は私の子供(小5)はウソだウソだと言っており、確かに、驚くべき説で、
内容も難しく、すぐには理解できないもの(特に記紀信者には)ですが、
石渡教授が論理的に証明された真実です。
ただちに、石渡教授は東大か京大の日本古代史の教授に推挙されるべきです。
そしてこの『倭韓交差王朝説』で 日本史の教科書は書きかえられるべきです。
私の子共もウソをマークシートしなければいけない不幸をだれか救ってください
どうして、当たり前のことが、できないのでしょうか??
ぜひ 新 騎馬民族説といわれる 石渡信一郎の倭韓交差王朝説について 論じてください
で、AD350年から450年頃が第一波の渡来が崇神天皇中心に朝鮮半島南部(みまな)から ありました。
その後 450年から600年頃にかけて 百済から 昆支(蓋鹵王の弟で後の応神天皇)と 余紀(彼も蓋鹵王の弟で後の継体天皇)を中心にそれこそ200万人規模の大量渡来がありました。。