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2022年11月12日

環状列石から見る縄文の墓と祭り

みなさん、こんにちは!
これまで縄文~古墳、続縄文時代(リンク)と追求を深めていきましたがまだ縄文時代で触れていないとある「モノ」があるのです。これもまた縄文時代の墓制を語る上では必要なものです。
今回はそんな環状列石についてみなさんと追求していきます!

松尾釜石環状列石

■環状列石とはなにか?
以下(リンク)より参照
縄文時代後期の前葉と晩期(いまからおそよ3,000~4,000年前)につくられた、石を海や川から運んで来て環状に巡らせた施設のこと。
環(円)の直径は30メートル前後から大きいもので50メートルを超える環状列石も存在し、形状も円形に近いものから隅が丸い方形に近いものがあるなど、遺跡ごとに特徴がある。祭祀や儀礼にかかわるモニュメントであったと考えられ、お墓が環状列石に組み込まれていたり、その周辺にポツン、ポツンとある場合なども多種多様。

数回にわたる調査を経て、石列は25×28メートルほどの円形で、直線状に延びている箇所があることがわかった。中央帯と呼ばれる部分はなく、二重の環でもなかったが、「環状列石の基本的な構造をとるのではないか」と考えられるようになった。その南東側には60ヵ所余りの配石墓があり、環状列石と配石墓の間には、モガリ(遺体の安置)を行なった場所だとか、倉庫といわれている掘立柱建物の跡もあり、秋田や青森の環状列石と比べて貧弱ではあるが、他の遺跡と構造上は同じ形態をとる。縄文時代後期初頭から前葉にかけての遺跡で、環状列石が太平洋側でも見つかったということでも注目を集めている。

■祭祀施設で何を祀っていたのか?
主には生死に関係することだと考えられる。地面に穴が掘られて、そこから人骨が出土すれば、それはお墓であると確実にいえると思いますが、人骨が出土するケースは多くない。ただ、人骨が出土する事例もあるため、祭祀といっても、「葬送に関わることだろう」と思われる。それが大規模だった場合、その場所が集合墓地であり、もしくはいまでいう葬祭センター的な使われ方をしたのではないか、という見方となる。
モガリが何を意味していたかはわからないが、仮に掘立柱建物が一時的な遺体の安置場所であるならば、かなり手厚く、死者を敬う気持ちが多分にあったはず。墓地のそばに掘立柱建物があるということは、家族だけではなくて、その集落に暮らす人々のためでもあったのではないか、とイメージできる。

また(リンク)より
縄文時代の環状列石の中には墓地の不明瞭な例も存在する。とりわけ中部・関東の環状列石には墓地を伴わない例が少なくないことから、大野遺跡の土壙群の中に墓が含まれていた可能性を否定し、さらには大野の環状列石自体を特別視する考えがある。しかし、最近、中期中葉~末葉の環状集落が発掘された神奈川県川尻中村遺跡では、中央広場を中心にピット群、その外周に住居群が分布する明瞭な重環状構造が確認されるとともに、ピット群の内側からは中央広場を囲むように構築された環状列石が発見されている。
構築時期といい、環状集落と一体化した重環状構造といい、大野の「集落内環状列石」との相似性は明白であり、しかも列石の下部や内側からは土壙墓群の分布も確認されている。
では、中期後半には中部山地や関東西部の山寄りの地域に登場する墓地を伴う「集落内環状列石」の分布が、中期末葉以降、中部・関東では不明瞭になり、環状集落の中心域から外れた北東北においてかえってその伝統を受け継いだ「集落外環状列石」の分布がみられるようになるのは何故なのか。

■環状列石の建設と地域共同体
大野遺跡では、環状列石や直線状列石に使用された数百個近い円礫の多くは、径1メートルを超える大形礫を含めて遺跡の四十メートルほど下を流れる伊奈川から運び上げられたと考えられている。
直線的帯状配列の集落構成を特徴とする青森県三内丸山遺跡については、遺跡の広がりや出土遺物の多さなどから1500年にわたって継続した人口500人の「縄文都市」であったという説が「縄文文明」論とあわせて唱えられている。
しかし、当時の自然・経済条件を考慮に入れるならば、三内丸山は最大でも人口100人ほどの、しかも1500年にわたって「断続的に」継続した拠点的集落とみるのが妥当である。一集落への過度の人口集中は、資源の浪費や生活環境の汚染とも相俟って、集落そのものの存続を脅かす要因となるだけでしかない。そのシンボルともいえる高さ20メートルの「高層の神殿」同様、「縄文都市」は荒唐無稽のフィクションに過ぎない。
全体として200人、あるいはそれ以上の人々から構成されていたと考えられる「地域共同体」こそは環状列石の建設や儀礼を支えた主体であると同時に、父系外婚にもとづく通婚関係の基本単位でもある。

■環状列石を舞台にした祭り
ところで、環状列石の形成をめぐって認められた明瞭な結界の形成、区画の特別化についていえば、その主要な目的が住居群と中央広場―中央墓地、日常空間と非日常空間、生者の世界と死者の世界のさらなる截然とした区別にあり、またそのことによる中央広場の儀礼的性格の一層の強化にあった可能性はきわめて強い。
そうであれば、中央広場に墓地をもつ環状集落から「集落内環状列石」、さらには「集落外環状列石」の形成へと至る一連の動きこそは縄文社会をめぐる祖先祭祀の高次化の過程そのものにほかならず、とりわけ後期を中心とする大規模な「集落外環状列石」の形成は、縄文時代における祖先祭祀の一つの完成された姿、祖霊を祀るために歌舞・飲食し、神話・伝承を再現する最高のステージとして位置づけることが可能である。
大野遺跡では環状列石の周囲より縄文時代の醸造具とも太鼓ともいわれる人面装飾付き有孔鍔付土器(図9)や屋外埋設土器など、祭祀性を色濃く漂わせる遺構・遺物が発見されている。
さらに19号住居では岐阜県美濃地方の土器を用いた屋内埋甕(乳幼児甕棺)が検出され、通婚圏を超えた他地域からの女性婚入者―母親の存在をうきぼりにしている。しかし、環状列石を舞台にした祖先祭祀を考える上で特に注目されるのは、環状集落、「集落内環状列石」、「集落外環状列石」の3者に共通して認められる、中央墓地や列石を取り囲むように外縁部に特徴的な分布をみせる掘立柱建物群の存在である。
民俗例によれば、墓地という非日常的な空間にしばしば高倉が群集する背景には、クラが収納された穀霊を祀るための祭場でもあるという伝統的な観念が存在している。

縄文時代でも環状集落中央の広場は重要な祖先祭祀の場であり、葬送の場であったからこそ、その外縁に埋葬儀礼関連施設と並んで祖霊によって守護されるべきクラが建てられ、全体として重要な共同祭儀の場を形づくっていた可能性が強い。
縄文の聖域ともいうべきこうした小宇宙を貫く祖先崇拝にかかわる呪的原理の濃密な流れは、クラに収納された植物質食料などの豊饒の儀礼とも一体となって、かれらの社会の再生と豊饒を希求する祈りへと収斂されていったことであろう。

■環状列石と縄文式階層社会
従来、環状列石内には関連する集団の構成員すべてが平等に埋葬されると考えられてきた。しかし、大野遺跡の「集落内環状列石」を例にとれば、列石内に残された土壙墓の総数は多く見積もっても百基ほどであり、「地域共同体」の一時期の構成員数にも遠く及ばない。後期の大規模な「集落外環状列石」でも事情は同様であり、1集落という枠組を超えた埋葬行為が想定される西田遺跡の環状集落でも、確認された土壙墓だけでは該当する集団の構成員を数世代にわたって収容することは到底困難であることが指摘されている。
環状列石は単なる「集団墓」ではなく、すべての構成員が葬られることのない不平等な墓、階層的な性格を帯びた「特定集団墓」であったとみるのが妥当であり、しかもその萌芽は環状集落の中央墓地の中に見出される。
その産み出し役である「地域共同体」の互酬的な機能を思い起こすならば、こうした環状列石を舞台に執り行われた祭祀・儀礼の数々が個別化を進めつつあった集団構成員の系譜的な結び付きを強め、集落内外を取り巻く様々な矛盾を調整する重要な潤滑剤的役割をはたしたであろうことは想像に難くない。
しかし、すでに明らかなように、この高次化された共同祭祀施設は、祖先崇拝を中心とした集団全体の再生・豊饒を希求する場であると同時に、集団構成員の不平等な葬送の場でもあった。
いうまでもなくそれは矛盾であり、このような複雑かつ錯綜した状況の中にこそ、階層社会の成立に向けて大きく舵を切ったこの時代を象徴する、まさしく記念碑的な存在としての環状列石の本来の性格は刻印されていたということができる。
とりわけ季節を選んで行われる祖先崇拝を中心とした祭祀・儀礼は、かれらの威信を広く誇示する絶好の機会であり、列石の外縁に設けられたクラの収納物に対するかれらの管理・運営権がそうした威信をさらに際立たせ、具体的な力を付与していったことは疑いない。
引用以上

これら2つに共通する点として、環状列石は墓であり、祭場でもあったということ。そしてこれまで歴史の教科書では「倉庫」として書かれていた高倉は配置状況から鑑みてもただの備蓄庫ではなく、穀霊を祀るための祭場であったと考えられること。そこから考えられる墓制は古墳時代へと続く階層性を持った特定集団墓の現れだということである。


 

 

投稿者 yanagi : 2022年11月12日 List  

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