【縄文再考】様々な地域から来て日本列島で混血した縄文人≒「多様性が縄文時代の人々」 |
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2022年01月27日
【縄文再考】これまでの縄文観を覆す、新たな事実が見つかってきた
この間、縄文再考という視点で追求してきましたが、最新の調査・研究により、これまでの縄文観を覆す、新たな事実が見つかってきました。
今回は、これまでの追求を整理・紹介します。
①2重構造の日本人⇒3重構造の日本人
http://web.joumon.jp.net/blog/2021/10/4279.html#more
・これまで日本人のルーツは、最初に列島に住み着いた縄文人(約1万6000~3000年前)と、大陸からの渡来民たる弥生人(BC900~AD300年頃)の混血にあるとされてきました(「二重構造モデル」)。
・しかし、金沢大や鳥取大らの国際研究チームの遺伝子研究によれば、縄文人の祖先集団は20,000~15,000年前に大陸の基層集団から分かれ、弥生時代には北東アジアに起源をもつ集団が、古墳時代には東アジアの集団がそれぞれ日本列島に渡り、混血していることが明らかになりました(「三重構造モデル」)。
・現代日本人は、縄文由来の遺伝を下敷きに、特に古墳時代の血を多く受け継いでいるのが特徴です。縄文・弥生だけでなく、古墳人も解明していくことで、日本人の精神性の全体像を解明することにつながりそうです。
図の引用:金沢大学HP
②縄文人は外からやってきたのではなく、列島内で交配し登場した
https://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=-4182
・これまで縄文人のルーツは南方か北方か、どこから来たのか?という議論が主流でしたが、そもそも縄文人というオリジナルは存在しない可能性があります。
・篠田謙一博士著「DNAで語る日本人起源論」によれば、「縄文人」は、東アジアの広い出自の人々がそれぞれ日本列島に来て、日本で交配しながら誕生した多民族という見解があります。
〉私たちは、これまで縄文人の起源を求めて日本の周辺の各地で人骨の形態を調査してきました。しかし、その時間の幅を現代にまで広げてみても、アイヌの人たち以外に縄文人に似た形態をもつ集団は存在しませんでした。その為縄文人の源郷を探る試みは頓挫しているのですが、そもそも縄文人は由来の異なる人々の集合によって列島内で誕生したと考えれば、外部に形態似た集団を探すことに意味は無いことになります。
〉他の東アジア集団との比較では、縄文人のユニークな遺伝的特徴が際立つ結果となりました。
〉縄文人がアジアの広い地域の集団からDNAを受け継いでいるので、特定の集団と近似しないのだと考えると説明が出来そうです。
私たちの祖先は日本列島にきて、縄文人になったのです。同様に、私たちの祖先は、日本列島にきて、日本人になったのです。
③日本海を囲む横断的な文化圏の中で育まれた縄文文化
http://web.joumon.jp.net/blog/2021/12/4540.html
・これまで縄文文化は列島内で独自で育まれてきたと考えられてきました。しかし、近年の発掘調査によって大陸と列島は文化的な相互作用があったことが明らかになりました。たとえば、約6000年前に、中国の耳飾り(C型ケツ状耳飾)が日本列島に拡散するなど、大陸でつくられた耳飾り・石斧・土器などで形状の類似性がみられます。
・また、列島内の黒曜石の流通をはるかに上回る規模で、列島産の黒曜石が北東アジアに拡散していたのです。
例えば壱岐産の黒曜石は、中国地方だけに止まらず、朝鮮さらにはウラジオストクやナホトカ周辺まで運ばれて使用されていたことが判明しています。
・日本人の源流である縄文文化は、大陸文化にも寛容的で、相互作用で発展してきたのでしょう。
④従来の常識をくつがえす縄文人の豊かな生活
【縄文再考】従来の常識をくつがえす縄文人の豊かな生活 – 縄文と古代文明を探求しよう! (joumon.jp.net)
これまで、縄文時代は「粗末な竪穴住居や洞窟を住み家とし、小集団で移動しつつ、狩猟・採取中心の生活を送っていた」と考えられていました。しかし、近年の発掘調査で、縄文時代は非常に活力に富んだ豊かな時代であったことが判明しています。
衣・食・住の視点でみてみると、
「衣」:耳飾りや腕輪などの装身具が多数検出。縄文人はおしゃれを楽しむ文化の持ち主だった。
「食」:主食は種実類。クリやクルミなど生食可能なもの、ドングリやトチノミなど灰汁抜き処理が必要な堅果も食べていた。
「住」:縄文人の住まい=竪穴住居という図式は、今や完全に崩壊し、高床式建物も縄文時代中期から存在していた。
まず驚きは、竪穴住居だけでなく、高床式住居もあったこと。
また、「縄文2021」の展示でも明らかになりましたが、狩猟・採集だけでなく、栽培・水産業を営むことで安定した社会であったようです。
さらに、「縄文人は農耕を拒否していた」とする説がある一方で、岡山県岡山市の朝寝鼻貝塚(あさねばなかいづか)(約6000年前)の地層から、稲のプラントオパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が大量にみつかっており、穀物の原始的農耕を有力視する見方がなされつつあります。
どうでしょうか?
私たちが抱いている縄文観とは異なる世界が見えてきました。引き続き、縄文再考により、事実に迫っていきます。
投稿者 ando-tai : 2022年01月27日 TweetList
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