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2011年03月13日

「南から見た縄文」 スンダランドからタヒチまで、太平洋に広がる大語族、オーストロネシア語族(≒マレーポリネシア語族)!!

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新シリーズ「南からみた縄文」第1弾は、スンダランドから太平洋全域へと展開し、大勢力となっているオーストロネシア語族(≒マレーポリネシア語族)を扱います。
日本人と、南方、ポリネシア人はともに母音語族であるといわれます。世界の他の民族(子音語族)が、対立し立場をはっきりさせる会話をするのに対して、この両民族は相手と潜在意識を溶け合わす会話がベースだと言われます。
そして、縄文人は受け入れ体質で本源的と言われますが、タヒチのポリネシア人もやはり、例えば初めて白人が到来したときの歓待ぶりにみられるように、受け入れ体質で本源的と言えそうですね。
(以下、後藤明著「海を渡ったモンゴロイド」を参考にして書きます。)
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オーストロネシア語族の広がり
世界には5000から1万の言語があり、それらは語族というグループにまとめられます。例えば、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語など西ヨーロッパの言語とインドの古代サンスクリット語、現在のヒンディー語、イランのペルシャ語などは全て、インド=ヨーロッパ語族としてまとめられます。
このような大語族に匹敵するのが、オーストロネシア語族(≒マレーポリネシア語族)です。オーストロネシア語族には600から1200の言語が含まれると言われ、約2億7000万人の話者がいて、インドネシア語、マレー語、ジャワ語などが特に大言語です。さらにフィリピンのタガログ語、セブアノ語などがあります。
台湾先住民もオーストロネシア語族に含まれ、さらに、オセアニアの島嶼部、ニューギニア海岸、メラネシア、ミクロネシア、ポリネシアにかけて話されている言語のほとんどがオーストロネシア語族です。
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オーストロネシア語族(≒マレーポリネシア語族)の源境は?

では、今やこのような広大な拡がりを持つオーストラロネシア語族はいつどのうように広がり始めたのでしょうか。その起源は?
言語学的証拠から源境を探る
オーストロネシア祖語には、熱帯性の作物や植物に関する語彙が数多く存在しているので、その源境は赤道周辺の熱帯地域であると考えられました。そして、オランダの言語学者ケルンは、さらに海や航海に関する語彙から、それは海岸部であろうとしました。また、「南」を意味するselatanという語がマラッカ海峡周辺の言語では原義が「海峡」を意味し、南に海峡があるところであろう考え、ベトナム海岸部が候補と考えていました。
その後ハワイ大学のブラストは、限られた地域に分布する「松」「地震」などの語彙や、季節風に関する語彙から、ケルンの説を若干修正して台湾が総じて要件を備えているとしました。この説が現在もっとも広く受け入れられているようです。なんと台湾から遥か彼方まで広がったのですね、ずいぶんと離れているのに日本人とポリネシア人は同じ心を持っているんだなあと思っていましたが、縄文時代には、日本列島と台湾、言わばお隣さんだったわけですね。
(台湾語も同系統であると証明されて以降、マレーポリネシア語族改め、オーストロネシア語族とよばれるようになったようです。)
ブラストは台湾にあった原初オーストロネシア語族文化の特徴を、言語学の証拠から次のように要約しています。
①米と雑穀の耕作、②杭上の木造家屋、③豚、犬、水牛、そしておそらく鶏、④おそらく腰機による機織、⑤弓矢の使用、⑥土器の製作、⑦錫を含む何らかの金属の知識
これらの中で、作物は、熱帯地域にいたるに従って、熱帯地域に適したヤムイモ、タロイモなどの根栽、およびバナナ、パンの実のような樹木作物に転換しました。一方、フィリピン以南では航海技術関係の語彙の発達が著しい、としています。
太平洋への拡散のシナリオ
オーストラリアの考古学者ベルウッドは、上記言語学者ブラストの学説を積極的に考古学の証拠と結び付けています。
現在、中国本土にはオーストロネシア語族は存在しませんが、台湾あるいは中国本土の新石器文化にその起源があると考えられているようです。揚子江文明の系譜を引く集団であった可能性が大きく、拡散のシナリオは次のようなものと考えられています。
①紀元前4000年ごろから紀元前3500年ごろの時期に、先オーストロネシア語族が台湾へ移住した。彼らは稲や雑穀などの穀物や根菜類を栽培する耕作民で、航海技術は未発達だった。台湾では縄席文土器という、縄で土器表面に文様をつけた土器文化を生み出した。彼らの子孫が台湾先住民である。
②紀元前3000年ごろフィリピンの北部へと移住した。航海技術が改良され、土器は無紋ないし赤色スリップ(赤い泥など釉薬をかけた)土器へと変化した。
③紀元前2500年から紀元前2000年にかけて、フィリピン南部からボルネオ島、スラウェシ島、そしてマルク方面へ拡散した。樹木作物(バナナやパンの実)および根菜類が穀物と同じ程度に重要になった。
④紀元前1500年から紀元前1000年にかけて、スールー海やスラウェシ島付近で、移動性の海洋文化、すなわち漂海民文化が出現した。
⑤紀元前1500年から紀元前1000年の間にビスマルク諸島付近で生まれたラピタ文化が、さらに離れたトンガやサモアまで広がり海洋技術は未踏の島に及ぶほど進展した。
以上のように、台湾から出発したオーストロネシア語族は太平洋に散らばって行ったと、考えられているようです。
なぜ、オーストロネシア語族は台湾から太平洋へと出て行ったのか。
オーストロネシア語族は紀元前4000年ごろに、大陸から台湾へと移動し始めています。これはスンダランド水没の最終局面にあたり、それが原因とも考えられますが、それなら北へ逃れることも出来たはず。
むしろ、北から南下してきた漢族(O3、1万年前にモンゴル高原に登場)に押し出され脱出していったと考えるほうが辻褄があうように思います。
いったん台湾へ出ると、そこは航海技術を発達させるには絶好の土地でした。台湾とフィリピンの間(バシー海峡)は、島々にぐるりと囲まれて「内海状」になっている南シナ海にあって、その出口にあたり、流れが急で複雑なのです。
Y遺伝子分類では、縄文人はD2、オーストロネシア語族はO1であり、すごく近い関係にあるわけではないようです。しかし、両者とも、東アジアで最大勢力の漢族=O3と違って、私権時代に本格的に巻き込まれる前に大陸を出て行った民族。スンダランドで深めた本源性を保ったまま現在に至っているという意味で、非常に近い関係にありそうですね。

投稿者 fwz2 : 2011年03月13日 List  

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コメント

ついでにO2b系遺伝子についても。
O系なので現代の大陸遺伝子と混同されているけど日本のO2bのほとんどは中国朝鮮半島とは別物です。

大陸北部や朝鮮半島のO2b系はO2b*(*は既命名のサブグレード以外の分類)が主流で、お隣韓国の場合は特にこれが3分の1いて民族遺伝子とも言われていますが、日本では1桁%しかいません。

これに対して日本人の4分の1を占めるO2b1aは韓国では数%しかいません。朝鮮半島のO2b*もそうですが、O2b1aはそのまま東南アジア、オーストロネシアの遺伝子で、台湾に最も近い八重山地域では9割以上、ほとんど全員がこの遺伝子を持ち今のところ世界最高頻度です。

O2b1が遅くとも5720年前より以前、概論では約8000年前に47Z突然変異でO2bから分岐していて、現在、ジャワ島やベトナムに、それから上記の通り八重山超高頻度、日本高頻度、朝鮮低頻度で分布しています。ポリネシアは47Z以前の古い時代に広まったO2b系統が分布していますね。
つまり東南アジア→中国江南→台湾→八重山→日本というルートのようです。また江南や台湾から黒潮に乗って直接日本に辿り着いた人々も大勢いたようです。

これが何を意味するかというと、弥生系の文化を伝えた人々の主流も南方系のルーツを多分に持つ可能性が高いことです。彼らは中原民族(いわゆる漢民族)の圧迫で今は江南には居なくなった集団ですね。中国の史書にある倭族のことかと思います。日本人を倭としたのはこの刺青、抜歯、高床、漁撈、貫頭衣といった南方海洋的、沿岸的な文化が同一視されたからで、海伝いに版図が繋がる同系種族とされたわけです。

ちなみにこの系譜のかつての分布域は中国南部の内陸も含み稲作文明の伝播とも密に関係しています。こうした事柄の前で大陸北方の民族に稲作伝播を担わせようとする旧説はいよいよ可能性が低い話と言えるでしょう。

南方の本源的な民族性格の系属として、D2よりも直接的なのがO2b1aで示される流入に見えます。

投稿者 人類 : 2015年10月25日 03:55

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