森の民にとっての精霊 |
メイン
2007年12月13日
礼文島の民は三内丸山から流れてきた!?
縄文時代に市場取引はなかった。これは正しいと思う。
しかし一方で三内丸山にあるように多くの物資の移動は行われてた。
また、3500年前の礼文島では船舶遺跡と呼ばれるようにヒスイや琥珀など多くの各地の名産が集まっており、逆に貝のアクセサリーをアスファルトと交換にサハリンを越えて大陸へと運んでいた。
それらの物資の移動を一言で交換市場と対比させて贈与と呼んでいいものだろうか?
以下はるいネットで扱われている市場と贈与の定義である
【市場】交換取引は、武力闘争(およびその帰結たる身分制度による私権拡大の封鎖)からの抜け道として登場した。それどころか、最初に交換関係が登場した動機は、額に汗して働くよりも、(相手にこの品物が大きな可能性を与えてくれると信じ込ませることさえ出来れば)交換によって得る益の方が、ずっと大きいからである。
実際、古代市場も、女の性的商品価値を一層高めてくれそうな宝石や絹や毛皮を主要な交易品として、拡大していった。(なお、近世→近代も、呉服や毛織物やレースが起点になる。)それに対して日常の主食品(米や麦やイモなど)に対しては、その様な幻想的な可能性など描き様がない。
【贈与】共認原理に基づく友好の証
・他集団との接触によって生じた緊張圧力を相互の贈与によって回避。
・双方とも私有意識・自集団第一の意識は存在せず、友好の証として各々の集団が最も貴重と考える品を交換条件なしに贈与し合う。
礼文島の広域交易を贈与と呼ぶべきなのか市場の萌芽なのか・・・それとも・・・。
今日は縄文時代中期以降に頻繁に移動した物資の流れ=交流とはいったいなんだったのか?について徹底追求してみます。
日本列島最北の礼文島は最も活発な交流地域として紹介されている。
物資交流の実態を見ながらそれらを検証したいと思います。
礼文の交易ルート
礼文島の交流については以前この縄文ー古代ブログでも扱っております。同時にそちら(nisipaさん)の投稿も参照下さい。
さまざまな交易物資が集まった縄文後期の礼文島の外圧状況はどうであったのだろう?
①生業は漁労。海産物(特に大型海獣など)が比較的、豊かにあった。
②船泊遺跡の時期は3500年前~3800年前であり、全体的には寒冷化の時期にあった。
関東・東北地方は急激な人口減少が起こっていた時期にあたる。
③4方は海に囲まれており防衛力は高い。
④5500年前~4000年前まで栄えた三内丸山遺跡の交易拠点の一つであった。
贈与と想定するともっとも不可解なのが以下の内容である。これでは貿易拠点である。最北の小さな島に過ぎない礼文島になぜその必然性があったのだろうか?
>船泊遺跡では、種々装飾品が発掘されている。イモ貝など、千葉以南でないと採取できない貝で作られた装飾品があることから、装飾品或いはその原料を日本国中から集め、大陸に輸出していたとされている。
リンク
三内丸山の交易ルート
次に礼文島の遺跡の特徴を物語る記述を列記してみます。参考は日本人はるかな旅の「最北に生きた縄文人」より抜粋しました。
1)埋まっていた土器のタイプは、当時東日本で流行していた「すり消し縄文」という文様に、この地の縄文人によって独自の改良が加えられたものです。
2)礼文島の縄文人たちは、アシカやトドなどの海獣猟を盛んにおこなっていたようです。なぜなら、海獣の骨や解体に使われた石器のナイフがたくさん見つかっているからです。海獣の骨を加工して作った釣り針や海獣を捕るための銛先もたくさん見つかっています。
3)船泊遺跡には、はるばる本州や九州などから海を越えて持ち込まれたとみられる交易品がたくさん見つかっています。イモガイ、マクラガイやタカラガイは南の暖かい海に生息する貝です。特にイモガイは日本では九州や沖縄でしか採れません。はるばる日本の南から北の果てまで交易品として伝わってきたのです。
4)ヒスイのペンダントは、7号墓に埋葬されていた男性が身につけていたものです。ヒスイは新潟県糸魚川周辺が産地で、はるばる礼文島まで持ち込まれたのでしょう。ヒスイは貴重品です。身につけていた男性は村のなかでも相当に地位が高かったのかもしれません。
5)礼文島は、ロシアのサハリンや沿海州にもっとも近い島です。そのため、発掘当初は、埋葬されていたのは面長で平らな顔立ちをした北方アジア系の人たちかもしれない、と想像されました。しかし、壊れた人骨を復元してみると、幅が広く上下に短い顔面、出っぱった眉間、隆起した高い鼻など、彫りが深く四角い顔立ちが浮かび上がり、まさに本州で見られる典型的な縄文人そのものでした。
さて、ここから分析です。
なぜ礼文島はこれほどまでに広域の交易をしていたのか?その必然性は?
これは全くの私の仮説ですが、三内丸山と礼文島はセットで考えるべきではないでしょうか?三内丸山が4000年前に忽然と姿を消しています。500人に及ぶ人口を携え交易と多彩に繋がっていた縄文時代の中心地です。なぜ三内丸山が消滅したのかは多説があって決着がついていませんが、寒冷化説と伝染病説があります。私は後者ではないかと思うのです。それもあっという間に全滅させるほどの強烈な赤痢か結核のような病気でしょう。(中国とも玉などの物資の交流のあった三内丸山は物資と同時に病原菌もとりこんでしまったのだと思います、そうでなければあれほどの集落があれほど短期間に消滅する事は考えにくい)
既に礼文島と交流があった三内丸山の人の一部は伝染病が流行る前後に移住し(あるいは偶々、交易で移動していて伝染病から逃れた人がそのまま礼文島に居残った)礼文島であたらな居住域を広げて言ったのではないでしょうか。
というのも、礼文島の交易物はあまりに三内丸山のそれと近似しているからです。(図参照)
三内丸山ですでに出来上がっていた交易網を使ってこの島で活動を継続させていった。三内丸山が4000年前に消滅し船泊遺跡が3800年前から起きていることは年代的にも符合します。さらに礼文島に済みついた人が本土の縄文人であり、土器には東日本の様式を改良したものを用いていたと言う事とも符合します。
また装飾品を好み、すでにシャーマン的階層が分化してたのも三内丸山の成熟した縄文文化が流れていたと見れないでしょうか?
いずれにしても三内丸山という贈与という枠を超えた拠点があり、その傾向が礼文島にその後伝播していったと私は考えます。問題は三内丸山がなぜあれほどまでに広域と交易をする必要があったのか?それは集団間の緊張緩和という理由だけで言い切れるのか?そこが最後の課題になります。
緊張緩和→贈与でやり過ごすという方法を最初はとっていたと思われますが、それが常態化する中で、互いに必要なモノを定期的に交換するという交易の原型ができあがっていたのではないかという観点で検証してみる価値はあると思います。贈与でも市場でもない共認社会ならではの物流の起源があるように思います。このブログではまだ三内の記事が少ないので、次回は三内丸山の外圧状況を抑えなおしてそこを固めて行きたいと思います。(by tano)
投稿者 tano : 2007年12月13日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2007/12/383.html/trackback