天皇制と道教の関係とは?~支配層の思惑~ |
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2008年12月08日
縄文時代 大陸から渡って来たお墓
こんにちは。
Hiroshiさんが『前方後円墳は、出自の異なる古代部族の和合・合体の証し?』 にて古墳の成立過程を投稿いただきました。
前方後円墳の元となった円丘墓や方丘墓を調べるうちに、そもそもお墓がどのように変化していったのか、縄文時代まで遡って調べてみました。
まずは、縄文編を紹介します。
応援ヨロシクです。
●縄文時代:『土壙(どこう)墓』
・素掘りの墓に死者を葬っただけの簡単なもの。
・この土壙墓は全国で見られるのが特徴であり、発生当初は土壙に直接埋葬する一段掘りの形式が多く、その後は土壙の中にさらに埋葬用の穴を掘った二段・三段形式のものが見られるようになった。
・遺体は埋葬の際に手足を折り曲げて、しゃがんだ姿勢で埋葬する『屈葬』が殆ど。
・時には胸部から腹部にかけて大きな石を乗せた『抱石葬』で葬られていることもある。
・縄文時代後期から弥生時代にかけては、手足を伸ばした形で埋葬する『伸展葬』が出現した。
図は抱石葬です。
●縄文時代後期~:『甕棺墓』
・単に穴を掘って埋めるだけの埋葬法から、遺体を納める為の容器『甕棺』(かめかん)が作られるようになった。
・墓に使用される棺専用として生まれた。
・甕棺には一個の深鉢型土器を用いる単式甕棺と,二個を使った合口甕棺の二種類がある。
・甕棺は主に北九州で見られるが、弥生時代になると西日本を中心に全国に普及した。
・各地で発見される甕棺の土質を調べると、地元の土ではなく、他所の土を使って焼かれたものが多いことが判った。
・中には中国から伝わったであろう鏡や銅矛、銅剣などが納められている例もある。
・甕棺と一緒に発掘された土器棺のなかには、火葬にされたと思われる子供の骨が納められている事もあり、既に一部の地域では火葬による埋葬が始まっていたと考えられる。
(以上、お墓の歴史より)
こちらが甕棺です。
○甕棺墓の源流
・甕棺の源流は中国に見られます。
・中国では甕棺に子供を葬る風習が全土に広まりましたがその年代は放射性炭素による測定の結果紀元前4000年頃と考えられます。
・同2500年ごろには子供だけでなく、成人も甕棺に葬るところもでてきました。この頃のものは形(合わせ甕棺)が北部九州のものとそっくりのものもあります。
・中国全土ではその後、この風習は消滅するようです。その理由としては時代と共に北方系の木槨・石槨・石室等の墓制が浸透したことによる影響だと考えられます。
・これまでにわかっている限りでは、最後まで(戦国時代終わりごろまで)甕棺の風習が残っていたのは長江河口地域です。
・長江河口地域での甕棺の風習が見られなくなる頃から北部九州で甕棺の風習が始まったと考えられます。
・それから遅れて韓半島南部でも甕棺の風習が始まることを発掘結果は示しております。
・甕棺の風習がはじまる正確な年代はわかっておりません。一応、北部九州では紀元前2世紀末ごろ、韓半島南部では4世紀ないし5世紀とされております。
・韓半島の北部からは甕棺墓は全く見つかっておりません。このことから考えて韓半島南部の甕棺の風習が、古代中国から韓半島の北部を経由して伝わった風習が時間を経て残ったものである、とは考えにくいようです。
・以上のことから甕棺墓は長江河口地域→北部九州→韓半島南部へと伝わったと考えるのが一番理解し易いのではないでしょうか。(以上、科学の目で見えてきた日本の古代 より)
●縄文時代晩期~:『支石墓』
・『支石墓』は縄文時代晩期に出現した墓制。
・地中に埋められた甕棺の上に数個の支石を並べ、その上を平らな一枚石で覆う様式が一般的。
・大きく分けて三つのタイプに分類される。
・第一は「石棺型支石墓」と呼ばれるもので、箱型石棺を地中に埋め、その周りを石で敷き詰めた上に平らな石で蓋をする様式。
・第二は「碁盤型支石墓」と呼ばれるもので、字の如く碁盤のような厚い平らな石を支石で支え、さらに川原石のような丸い石を敷き詰めてそこに埋葬する様式。
・第三は「卓子型支石墓」と呼ばれるもので、大きな平らな石を二枚の板石で支えるテーブル型の様式。
・支石墓は朝鮮半島を中心にアジア各国で見られる墓制であるが、我が国では九州北部を中心として碁盤型支石墓が多く見られる。
(以上、お墓の歴史より)
○支石墓の源流
・東アジアの支石墓は、紀元前1500年頃に遼東半島(遼寧省)から吉林省南部付近で発生。
・紀元前1000~500年頃、支石墓は朝鮮半島へ伝播した。
・紀元前400年頃から次第に支石が低くなっていき碁盤式といわれ、朝鮮半島西側の中南部と北部九州に見られる。また、青銅器(銅剣など)の副葬も見られ始めた。
・世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれている。(ウィキペディア)
以上から見ると、
・甕棺墓第一波
紀元前二千年頃に長江中流域における苗族の屈家嶺文化が滅んでおり、この時、舟で日本に渡ってきた際に甕棺墓の風習も持ち込んだのかもしれない。
・支石墓
中国遼東半島→朝鮮半島→縄文晩期~弥生早期に北九州へ
・甕棺墓第二波
中国戦国時代の終焉(紀元前二世紀末頃)楚の難民か?→北部九州へ→その後朝鮮半島南部に渡ったのか?
出土品の年代がハッキリせず不確かなところもありますが、引き続き、弥生時代の墓制を追ってみます。
お墓の記事は以下もご覧ください。
『縄文人にとってお墓とは何だったのか?』
『古代の墓の変遷~集団統合から、支配・国家統合の為の装置へ』
『まとめ・・・・お墓の変遷』
(by eto)
投稿者 nishipa : 2008年12月08日 TweetList
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コメント
投稿者 norio : 2009年1月6日 20:04
norioさまへ
聖武天皇は母が藤原不比等の娘・宮子であり、藤原氏を外戚にもつ初めての天皇と言われています。
藤原=百済系=仏教を布教の流れではないでしょうか?
従って聖武天皇は百済系だと思います。
私には聖武天皇=新羅系であるというのが???なのですが。
投稿者 tano : 2009年1月6日 22:30
やっさんへ
神社とは支配者の地域拠点であり、さらに名より実をとった新羅系豪族による全国ネット・・・これで神社が天皇制度と並んで秩序と共認を司る日本独自の中枢装置であることがよくわかります。と同時に科学がこれだけ進んだ現在でも”気持ちが悪い”というだけでついお参りしてしまう神社とは相当深い潜在位置を占めている事の表れだと思います。
なんせ、その母体は1万年以上に渡る精霊信仰に基づいているのですから。
やっさんの追求テーマに加えて、縄文時代の神社的なものってあったのでしょうか?八百万の神の本質って何?という遡ったテーマもトライしてみてはと思います。
いずれにしてもやっさんの次の投稿を楽しみにしています。
投稿者 拾う神 : 2009年1月7日 01:56
聖武天皇は天武天皇の曾孫で血が直接つながっています。しかし、聖武天皇は母が藤原不比等の娘・宮子であり、藤原氏を外戚にもつ初めての天皇であり、藤原氏の言うことを聞くということで即位したのでしょうね。
納得
投稿者 norio : 2009年1月7日 20:22
やっさんへ
聖武天皇は天武天皇の曾孫で血が直接つながっており、天皇家は父系であるである可能性が高いことからも、聖武天皇は天武天皇系であること考えます。
平安期に天武天皇系の血筋は根絶やしにされます。奈良時代の聖武天皇が完全に藤原系であればそこまでする必要もなかったと考えます。
また聖武天皇が藤原系なら、新羅系の神社が全国に多数あるのなら、改めて全国に国分寺を作ることに矛盾があります。
またわからなくなってきました。
投稿者 norio : 2009年1月10日 19:20
やっさんへ 再考しました。
聖武天皇は天武天皇の曾孫で血が直接つながっいます。また、天皇家は父系である可能性が高いことからも、聖武天皇は天武天皇系(新羅系)であると考えられます。しかし聖武天皇は母が藤原不比等の娘・宮子であり、藤原氏(百済系)を外戚にもつ初めての天皇と言われており、藤原氏のいうことを聞くという存在になっていたと思われます。
新羅系の神社が百済系の神社よりも全国に多数あるのなら、改めて全国に新しい神様として仏教を広め、全国に国分寺を作り、新羅系の神様の存在を薄めたいと、百済系の支配者(藤原氏や聖武天皇)は考えたという可能性もあります。聖武天皇は血筋は新羅系だが実態は百済系というのは、行なった政策から判断して正しいということになります。
だから天智天皇系(百済系)の平安期になっても仏教は普及され、平安京にも多数の寺が建てられたのですね。
投稿者 norio : 2009年1月10日 20:26
やっさんへ
天武系【新羅系】の血統が途絶え、天智系【百済系】に戻るのは49代の光仁天皇からです。ちなみに天武天皇は40代、聖武天皇45代です。
『続日本紀』に拠ると、桓武天皇以後、山陵の奉幣は天智40代から間を飛ばしてすぐに光仁天皇49代となり、天武系の諸天皇の奉幣は、平安時代以降は全く確認できず、また現在でも、天皇家の事実上の菩提寺である泉涌寺において位牌が置かれているのは、天智の次は間を飛ばして光仁となり、同様天武王朝(天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、(称徳))8人の位牌はありません。
投稿者 norio : 2009年1月10日 21:10
いつから天武天皇(新羅系)から百済系天皇にもどったのでしょうか。調べてみなした。
聖武天皇は天武天皇の曾孫で血が直接つながっています。また、天皇家は父系である可能性が高いことからも、聖武天皇は天武天皇系(新羅系)であると考えられます。
しかし聖武天皇は母が藤原不比等の娘・宮子であり、藤原氏(百済系)を外戚にもつ初めての天皇と言われており、藤原氏のいうことを聞くという存在になっていたのかもとも思われます。しかし聖武天皇は藤原氏とは対立していました。聖武天皇の治世の初期は皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していました。天平元年(729年)に長屋王の変が起き長屋王は自殺、長屋王の変は長屋王を取り除き光明子を皇后にするために不比等の息子で光明子の兄弟である藤原四兄弟が仕組んだものといわれています。
聖武天皇は全国に国分寺を造り、仏教を広めました。新羅系の神社が百済系の神社よりも全国に多数あるので、改めて全国に新しい神様として仏教を広め、全国に国分寺を作り、新羅系の神様の存在を薄めたいと、百済系の支配者(藤原氏や聖武天皇)は考えたという可能性があり、その政策は百済向けと解釈されます。聖武天皇は血筋は新羅系だが、行なった政策は百済系ということになります。ちなみに天智天皇系(百済系)の平安期になっても仏教は普及され、平安京にも多数の寺が建てられています。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平16年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出したと言われています。新羅系の神様の存在を薄めたいというわけではなかったことになります。
天武系【新羅系】の血統が途絶え、天智系【百済系】に戻るのは49代の光仁天皇からです。ちなみに天武天皇は40代、聖武天皇45代です。
『続日本紀』に拠ると、桓武天皇以後、山陵の奉幣は天智40代から間を飛ばしてすぐに光仁天皇49代となり、天武系の諸天皇の奉幣は、平安時代以降は全く確認できず、また現在でも、天皇家の事実上の菩提寺である泉涌寺において位牌が置かれているのは、天智の次は間を飛ばして光仁となり、同様天武王朝(天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、(称徳))8人の位牌はありません。
また天平勝宝8年(756年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して聖武天皇は崩御しています。心は天武天皇系(新羅系)であったということです。
投稿者 norio : 2009年1月10日 21:44
>8世紀までに建てられた神社の数は3000~5000社。そのうち、新羅・出雲系スサノウ一族関連の神社が7割、百済・九州系関連の神社が2割、その他少々と言われています。
わからなくなってきました。天武天皇のあと、同じ新羅系の聖武天皇は仏教を広め、奈良の都に東大寺を建立し、全国に国分寺を造らせます。新羅・出雲系スサノウ一族関連の神社が7割もあるのなら、なぜ同じ新羅系の聖武天皇は全国に国分寺をつくらせたのでしょうか。