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2013年03月26日

東にあった「もう一つの日本」~1.縄文晩期の関東は空白地だった?

シリーズ『東にあった「もう一つの日本」』、第一回は、旧石器時代~縄文時代までの関東(関東平野)を中心に見ていきます。
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(関東平野とは)
関東平野の特筆すべき特徴的は、そのとびぬけた広大さにあります。小平野の多い日本島の中にあって例外的に広大で、2番目に大きい根釧台地の3倍近い広さを持ちます。
広大な平野を形成した要因の1つは、平野をとりかこむようにして分布する多数の火山があることです。膨大な火山噴火に伴う火砕物質が、大量に盆地状地形に堆積し、平野を埋め尽くしました。関東平野を取り巻く様々さ自然環境要因が重なり、現在のような広大な平野となったのです。
この関東平野の地形を特徴づけるのが、“台地”“低地”です。台地は,おおむね段丘地形に当り,段丘礫層や関東ローム層のような洪積層でできているので,洪積台地という呼び名が古くから使われています。低地は,いわゆる沖積地で若い沖積層が堆積してつくった平野です。
この台地、低地が形成された地質時代を“第四紀”と呼び、約260万年前から現在にいたる時代です。第四紀は氷河の消長と人類の発展で特質されるべき時代であるとともに、現在地上にみられる地形や生物分布の様相はたいていこの時代に形成されています。
関東平野は、北方には阿武隈・八溝・越後山地、西方には関東山地、南方には房総半島と三浦半島があります。さらに山地の前面には多摩・比企等の丘陵と武蔵野・下総等の台地が広がり、台地の前面は低地が発達しています。
この台地を構成するのが“関東ローム層”とその上層の“黒ボク土”と呼ばれる黒く薄い地層です。関東ローム層には後期旧石器時代の遺跡が、その上層にある“黒ボク土”からは縄文時代の遺跡が多数確認されています。

※写真は、関東ローム層の断面、最上部が黒ボク土
今回は、この関東ローム層や黒ボク土といった“地層の形成過程”を切り口にして、関東平野の旧石器時代~縄文時代までを見ていきます。

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■関東平野の形成
<関東平野の成り立ち>

260万年程前以降の時代を第四紀と呼び、そのうち1万年程前までの時代を更新世と呼びます。
更新世において、寒い時期(氷期または氷河期)には氷河が発達することにより海水が減って陸地が増え、暖かい時期(間氷期)には氷河が溶けることにより海水が増えて陸地が減るということが繰り返しました。
その中で、海底では土砂や生物の死骸が堆積し、陸地では河川が運ぶ土砂の堆積や河川による浸食が起こり、また火山の噴出物が降り積もったりした結果、台地や河川・谷といった関東平野の骨格ができました。
火山は複数あり、活動時期も幾度もあったようで、それらによる噴出物の堆積が“関東ローム層”となり、関東地方の台地や丘陵地・山地に存在しています。

赤土とも言われる関東ロームは、関東平野の西にある富士山や浅間山が噴火して降り積もった火山灰だとふつう説明されますが、実態は少し異なり、関東ロームの層厚すべてが噴火現象によるものではなく、河原の砂泥や畑の土が春の強風で巻き上げられて風下に降り積もってできたもののようです。その証拠に、火山はめったに噴火しませんが(富士山はもう300年も眠っている)、いっぽう関東ロームは毎年0.1ミリ、100年で1センチ、1万年で1メートル積リ続けています。関東地方の河原や畑の土には火山灰がたくさん露出しているので、関東ロームの構成物には火山灰が多く含まれています。
■関東ローム層の中の後期旧石器遺跡
<旧石器時代の遺跡の分布>

日本の後期旧石器時代の遺物が最初に発見されたのは、1949年群馬県の岩宿遺跡、都内では1951年に茂呂遺跡が発掘され、その後関東ローム層から続々と石器が発見されます。日本列島の後期旧石器時代は、約35,000年前に始まり、縄文時代へと移行する約15,000年前までの約20,000年間続きます。(これより古い前・中期旧石器時代の地層の中には、今のところ人類の痕跡は確かめられていません)

(なぜ関東平野に多くの遺跡があるのか?)
地図を見ると特に関東平野に遺跡が集中していることが分かります。火山に近く火山灰が降り注ぐ関東平野に、多くの人々が暮らしていたのはなぜでしょうか?そこには、火山噴火・火山灰とその土壌がもたらす植生に関係があるようです。
火山灰の風化過程で遊離するアルミニウム化合物は、ほとんどの植物や作物にとっては“有害”ですが、ススキの生育にとっては好適条件となることが知られています。土壌の酸性度のほか、気候条件など、ススキの生育条件に合えば、ススキは繁殖することができます。
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雲仙普賢岳の噴火のように、火山灰というと一面灰色の世界をイメージしがちですが、関東平野には写真のようなススキの野原が一面に広がっていた可能性もあり、当時の人々は氷河期の厳しい環境の中で、火山灰土壌に生息するススキが貴重な食料源となり、それを求めて集まってき動物たちを狩猟の対象として暮らしていたのかも知れません。

※箱根仙石原のススキ野(コチラから)箱根火山カルデラ内に広がった標高650m前後の高原
■黒ボク土の中の縄文遺跡
<黒ボク土と遺跡の分布>

(黒ボク土は、縄文人が作った?)
縄文時代の遺跡は、約1万年前以降に関東ロームの上層に形成された“黒ボク土”から見つかります。黒ボク土については、以前「日本の源流を東北にみる(1)~火山がもたらした東北の縄文」でも取り上げましたが、黒ボク土は縄文人の生活と密接に関係していたようです。特に関東平野には広く黒ボク土が分
布し、それと重なるように多くの縄文遺跡が発掘さえています。
黒ボク土(くろぼくど)という名称は、土の色と乾燥した土を触った場合のボクボクした感触に由来します。黒ボク土は、日本では北海道、東北、関東、九州に多く見られますが、国外ではほとんど見られません。
母材である火山灰土と腐植で構成され、表層は腐植が多いため色は黒色又は黒褐色、下層は褐色で、火山山麓の台地や平地でよく見られます。火山噴火により地上に火山灰が積もり、その上に植物が茂る。枯れた植物は分解されて腐植となり、長い時間をかけて黒ボク土が形成されます。関東ロームも火山灰を由来とすますが、関東ロームが形成された時代は気候が冷涼だったため植物が分解されず、黒ボク土とは異なる土壌を形成しています。
この黒ボク土の生成には、1万年以上に及ぶ、縄文時代の人々の活動が反映されているといわれています。
これは、たとえば土の中に残っている植物ケイ酸体という、植物の中で作られ、さらに植物の種類ごとに固有の形を示す鉱物を調べるとわかるようです。現在の黒ボク土の中にも、過去の火山噴火ですでに埋もれてしまった深い所の黒ボク土の中にも、草本類に由来する植物ケイ酸体が、非常に多く見つかり、これはこの土ができる間のかなりの期間において草原(ススキの原っぱ?)であったことを示しています。
しかし、日本の気候帯から考えると、最後は木本類が卓越し森林に達するはずなので、草原が長く維持されたというのは自然ではありません。だとすれば、森林に至らず長きに渡って草原が維持されるためには、何らかの人為的な働きかけがあったと考えられます。
縄文人が狩や、茅場の維持、土器生産、薪炭生産、有用樹植栽のために森林を伐採し二次林・疎林を作った。その結果、日光が土壌に届くような「里山」的環境となった。それが長きに渡って維持され、長い時間の中で黒ボク土壌を生成した。
つまり、黒ボク土のもたらす環境が縄文の人々の生活を支え、その縄文の人々の生活活動が黒ボク土を作り出す。この1万年に亘る“土壌土”と“縄文の人々の生活”との相互作用が、黒ボク土を形成したのではないでしょうか。
人間活動が土などの自然生態系に大きな影響を与えてきたのは何も文明が発展した今日ばかりではなく、縄文時代や石器時代といったころから、綿々と続いていることなのかもしれません。
※この黒ボク土は、縄文時代だけでなく、その後の弥生時代以降も人々の生業と密接な関わりを持ち続けます。稲作農耕文化の結びつき、とくに放牧との関連性が高いようです。
■縄文晩期の急激な人口減少~空白地帯化する関東

多くの遺跡が見られた縄文中期の関東ですが、後期になり遺跡が減少し、さらに晩期に急激に遺跡が減少します。
縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、弥生海退と呼ばれる海水面の低下がおきました。関東では従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていきます。
縄文時代後期は寒冷化に伴う環境の変化により、木の実、動物などの食料が減少した時代ですが、さらに、約3000年前の縄文時代後期に富士山が4回の爆発的噴火を起すなど、関東平野一帯では富士山や箱根山の噴火が長期化したため食料の確保が難しくなり、それに伴い急激な人口減少が起ききたと考えられます。そのため関東では縄文時代晩期の遺跡はほとんど見当たらないという状況にまで至っています。
■弥生時代に、再び人口増加
縄文晩期に大幅に遺跡が減少し、いわば空白地帯となった関東平野ですが、弥生時代になると再び人口増加に転じます。歴史人口学の研究によると、弥生初期、紀元前10世紀頃の人口はおよそ7万6000人前後と推定されていますが、注目すべきはそれが紀元3世紀に入ると、60万人に膨れ上がる点です。縄文晩期に空白地帯となった関東に何が起きたのでしょうか? 弥生時代に移行し、どこから?どのような人々が関東平野に移り住んだのでしょうか?



地域の差こそあれ、縄文時代までは日本列島全体がほぼ同じ社会様式としてひとくくりに出来る時代でしたが、弥生時代以降は、列島の東西で明確に社会様式に差が生じる時代に移ります。次回、東にあったもう一つの日本の成り立ちに迫ります。
乞うご期待下さい!
◆参考にさせていただいた主なサイト、論文など
 『「縄文遺跡の立地性向」ノート1、黒ボク土とは』
 『水と土(1)黒ボク土 人が作った土?』
 『クロボク土とその形成環境』
 『黒ボク土の生成と農耕文化 : とくに放牧との関わりについて』

投稿者 sai-yuki : 2013年03月26日 List  

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コメント

山野井『日本の土』の新聞広告に魅せられてネットサーフィンしたら貴稿にヒットしました。山野井は焼畑を挙げていましたが、放牧という説(渡辺真紀子?)もあって少し戸惑っています。どちらが有力説でしょうか、また貴方のお考えは?

投稿者 コバヤシセイジ : 2015年3月17日 05:54

縄文、古代史に興味を持っているものです。
なかなかユニークなサイトでこれからじっくり読ませていただきたいと思います。
関東の黒ボク土ですが、どこかの研究者の論文で黒いものは炭素粒子であると読んだことがあります。縄文時代から江戸時代に至るまで、連綿と続いた焼畑農業、自然の森林火災等で出来上がった土壌であると思っています。
放牧では歴史も浅く、もっと局地的な現象となるのではないでしょうか。

投稿者 匿名 : 2015年10月15日 22:56

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