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2009年11月28日

アイヌ民族は縄文人の末裔か?2 ~「アイヌ論争」~

こんばんわ。
 
アイヌは「謎の民族」だと、ずいぶん昔から言われてきました。アイヌについては、日本人起源論と同じように、色々な研究者が、諸説を出してきました。
アイヌは世界的にも「謎の民族」とされていて、100年以上も前から海外の研究者も色々研究してきました。その結果、考えられるあらゆる仮説が出されてきたというのが、これまでの状況です。
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縄文人とアイヌ人の関係性については、明治時代から様々な論争がありました。
 シーボルト父子及びベルツに始まるアイヌ沖縄同系論、モースのプレ・アイヌ説に始まり、白人説、オーストラリア原住民説、モンゴロイド説など様々な説が発表されました。そして、日本人の方からは、坪井正五郎氏の「コロボックル説」と小金井良精氏の「アイヌ説」がありました。坪井氏は「アイヌ民族は土器や石器を作らない上に、竪穴住居にも住まない」ことを挙げ、これに対し「アイヌ民族の伝説にでてくる北海道の先住民コロボックルこそ、日本全体の先住民、すなわち日本石器時代人(現在で言う縄文人)である。」と主張しました。
 一方、解剖学者の小金井氏は日本石器時代人とアイヌの人々が四肢骨の骨幹が扁平であるという共通した特徴を持っていることから、日本石器時代人(縄文人)=アイヌ説を主張しました。コロボックル説は坪井氏の死後消滅。小金井氏のアイヌ説が主流となりましたが、その後の研究で疑問が持たれるようにもなりました。
 そして1960年代までは、アイヌ民族=「コーカソイド」説が支持され、縄文人は日本人(和人)の直接の祖先であり、アイヌ民族は北海道に住むまったく別の集団であるという説が主流となっていました。
 
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1970年代に入ると指紋や歯の形態学、北海道古人骨の発見、遺伝学の進展からアイヌ民族が東アジア近隣の人々と同集団であることが分かり、縄文時代人とアイヌ民族との関連が見なおされ始めました。現在では、様々な研究から縄文時代人がアイヌ民族に最も類縁関係のある集団であることが定説となっています。
 また、その縄文人orアイヌ人の起源を探る研究においては、1980年代までは、当時のサンプル数や、研究方法等の状況から、縄文人=南方起源説をとる埴原氏の二重構造論が有力でしたが、最近さらなるサンプルの増大やDNA研究等の結果、北方起源を取る説が出てきてます。
 今回はその二つの説(南方起源、北方起源)の中でも、有力とされている埴原和郎氏の説及び、崎谷満氏の説を紹介したいと思います。

まず、埴原和郎氏の説から紹介します。

 この図(梅原猛・埴原和郎共著『アイヌは原日本人か』より)は、21の人種の頭の骨を資料として、各集団間の類似係数というものをコンピューターで計算し、2次元に投影した結果です。プロットされた位置が近いほど、人種として近いことを示します。
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これによると、先ず右上に縄文人が固まっています。それからシベリアの寒冷地適応を遂げた人々が左上入っています。次に、左下の部分が現代日本人ですが、特に目立つのは、近畿の人と朝鮮人が非常に近いということです。ちなみにアイヌは右下にあります。
 この図から埴原氏は、縄文人から現代日本人に至る小進化の方向が追跡できると言います。先ず右下のオンコロマナイというのは道北の続縄文時代の遺跡であり、これが本州の縄文人に近いところにいます。このことから、少なくとも道北のオンコロマナイの遺跡の人々は、本州の縄文人とあまり違っていなかったことを示しています。そのため、北海道の人たちは図の右上から右下の方向に、つまり縄文人からオンコロマナイの方向に小進化を遂げたことが分かり、その小進化の方向の延長線上に現代アイヌが位置していることから、縄文人からアイヌ人までの進化が辿れます。
次に、現在の和人は、縄文人から言うと、ずっと左下へ向かって小進化しており、真っ直ぐ右下へ進化したアイヌとはかなり違う方向を示しています。その差が現在の和人とアイヌとの違いとなって、現れています。
 一方、シベリアの寒冷地民族は、左上にいて全く縄文人とも違い、その距離も相当離れています。そしてアイヌとはさらに離れている。このことから、アイヌは寒冷地適応を遂げていないことが分かり、これは縄文人と同じであり、古モンゴロイド(南方起源)の性質(新モンゴロイドは寒冷地適応を果たしています)を受け継いでいることが分かります。
 つまり、アイヌは原日本人であることが、埴原氏の現状の結論であり、和人よりもアイヌの方が、より縄文的形質を受け継いでいるとのことです。そして、そのどちらも南方モンゴロイドが起源であるとの説になっています。

  次に、崎谷満氏の北方を起源とする説を紹介します。詳しくはDNAでたどる日本人の成り立ちを参照ください。
 崎谷氏は、ヒトのY染色体のDNA型の分析により、縄文人(アイヌ人)の起源を探りました。
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 最初に日本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのはシベリアの狩猟民(2~3万年前)であり、バイカル湖周辺からアムール川流域およびサハリンを経由して、最終氷期の海面低下により地続きとなっていた北海道に達し、また一部はさらに南下し、北部九州に達したとしています。
 その後、1万数千年前に、大陸から縄文人の祖先となる系統が列島にやってきて混血したとしています。

 以上、南方起源説、北方起源説の二つの代表的なものを見てきましたが、これらの起源論争には、未だ明確な決着はついていません。埴原氏は『頭蓋骨』から、崎谷氏は『DNA』からという様に、学者の方々は、基本的には『物質』からその民族の特徴を割り出そうとしています。
 しかし、民族の「起源」あるいは、「特徴」を掴むために重要なのは、その共認内容がどのように形成され、どのように受け継がれていったか?ではないかと思います。(参考:日本人は”単一民族” 共認内容が「民族」を規定する)。
そしてそれらが、より明確に分かってくるのは、「言語」や「信仰」等の文化的なものを通してです。
次回からは、アイヌ民族の言語や信仰について調べることで、アイヌ人と縄文人の関係、さらにアイヌ民族の出自に迫っていきたいと思います。
 お楽しみに!!

投稿者 jomon10 : 2009年11月28日 List  

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コメント

怒るでしかし~さん、こんにちわ~。
お元気そうで、よかったです。
偶然にも、わたくし、最近、堺に行ってきました。
天王寺駅前から、チンチン電車で、住吉神社に寄って行ったんです。
堺というと、テレビコマーシャルで、安い引越し屋さんのイメージが強烈でしたけど、伝仁徳天皇陵、でっかいですね。
古代人の世界観や死生観と、中世商人の活動が、どう繋がっていて、なにが誤作動を起こしたのか、考えさせられました。
がんばってください。

投稿者 タツ : 2010年2月6日 15:35

タツさん、お久しぶりです。
偶然です、わたしも今週、天王寺~住吉大社(停車場名は細井川といいましたら)を2往復しました。仕事です。30年以上大阪に住んでて初めてでした。なかなか味のある町並み。
で、堺。12年ほど住んでいました。仁徳天皇陵は、高校のクラブのランニングコースでした。その当時は、古代はもちろん、日本史というものに全然興味がなかったので、その大きさを呪いつつひたすら走っていただけですが・・。
それにしても、
怒るでしかし~さん、
またまた大きく出ましたね~。
大風呂敷は畳むのもタイヘンです。
できるだけ畳まなくていいよう、追求していきましょう。

投稿者 うらら : 2010年2月6日 17:58

タツさん、こんにちは。
>古代人の世界観や死生観と、中世商人の活動が、どう繋がっていて、なにが誤作動を起こしたのか、考えさせられました。
タツさんも注目しておられる田中史生先生の御本を踏まえて、贈与外交の質的転換(友好のための贈与から、見返りを期待した外交競争へ)という転換が、まず、人類が道を誤った1つめの曲がり角なのではないかと、考えています。http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=225170 参照下さい。
仁徳稜は、見返りを期待した外交競争が生み出した中央集権的権力の象徴なのでしょうね。
ふたつめの曲がり角が、古代から中世にかけて起こっていると思うのですが、中世というのは、土着集団が中央集権的支配から脱却して自前の集団自治を奪い返すプロセスなのだと考えています。それは最終的に、下からの自治を基盤とした統一国家としての江戸システム=幕藩体制へと結実した。しかしながら、その過程において、下克上はあたりまえ、それに便乗した商人の策略も当たり前、というような無法社会が出現します。従って、中世の評価は、極めて両義的にならざるをえません。
同時に古代・中世を通じて一貫して縄文の贈与的精神が流れて続けていることも見て取れます。どこまでご期待に沿えるか、わかりませんが、いつものように叱咤激励よろしくお願いします。

投稿者 怒るでしかし~ : 2010年2月6日 20:16

うららさんへ。
堺といえば、仁徳稜と住吉さんですね。住吉は、海人族の守り神であり、海人たちがつくりあげた海のネットワークを基盤に、古代の稲作・水耕土木権力のネットワークも中世の商業権力のネットワークもつくられていったのは間違いないでしょうね。海人族たちは、権力とどのような関係を持ったのか?そこで、彼らが守り続け、譲らなかったものは何か?そのあたりが明らかになるといいな、と思っています。
大風呂敷の中身はプチプチだけ、ってことにならないように頑張っていきます。

投稿者 怒るでしかし~ : 2010年2月6日 20:36

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