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2012年05月03日

「日本人の起源」を識る~6.アイヌ民族の謎(縄文人D2の末裔か、狩猟系C3の末裔か?)

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画像はウィキペディアより

アイヌ民族とは何者なのか?
アイヌ民族の成立を巡る議論は、文化的特徴の類似点から縄文人の末裔であるという説や、DNA研究や人種、言語の研究からは独自に成立したという説など諸説交々です。

ただ、これまでの縄文時代前後の気候・地形状況、最初に列島に渡来した「C3」に加え、縄文人を形成したと推測される「D2」などを踏まえ、文化の融合を図ってきた歴史を見れば独自に成立したとする仮説には無理があるように感じていました。

そんな中、前回の日本に南方の風を吹き込んだ海洋の民「C1」では、気候変動(ヤンガードリアス期)による「D2」と「C1」の混血・融合について一定の方向性が示されました。

これはアイヌ民族にも当てはまるのでしょうか?
過去の投稿を参考にみていきたいと思います。
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1.アイヌ民族とは何者なのか?~その起源に迫る~
アイヌ民族の起源を難しくしているのは、その文法形態(抱合語:シベリアからアメリカ一帯のネイティブ住民の言葉、エスキモー諸語、インディアン諸語等)や寒冷地適応していない南方モンゴロイドが起源であるという様々な矛盾を孕んでいる点です。
しかし、この矛盾が多ければ多いほど、他民族との混血・融合が繰り返し行われたこと示しているとも言えます。

<抱合語にみるアイヌ民族の起源>
日本語は膠着語(単語にくっつく助詞の違いで意味が異なる、「てにおは」を使う言語)なのに対して、アイヌ語は抱合語と呼ばれ膠着語とは全く別系統の言語です。このシリーズで扱ったC3(参考:『前縄文時代の解明(狩猟・移動の民C3)』)が北海道から入り地続きの津軽海峡を経由して日本各地に拡散したことを考えれば、アイヌ民族の起源がC3とも言えそうですが、実はC3の文法も日本語と同じなのです。このことから、C3の流入以前にアメリカに渡った古いアジア系集団の特徴をもつ人々の一部が、北海道に入り抱合語を定着させた可能性が高いと言うことになります。

<Y染色体ハプログループD2が主力のアイヌ民族>

さらに、前述のようにC3が現在のアイヌ民族の主流を占めているかと言うとそうではありません。その後にやって来たと思われるD2が主流になっています。



C1 C3 D1 D2 D3 N O1 02a O2b O3
アイヌ 0% 13% 0% 87% 0% 0% 0% 0% 0%

アイヌにおけるY染色体による系統分析は右記のようになっています。
これらのことから推測すると、まずは原住民とC3が、その後にD2(D2の文法も日本語と同じ)が融合したと考えられます。
なお、現在のアイヌ民族にはD2、C3以前に抱合語を使っていたと思われる先住民のY染色体は確認されていないということになります。これは調査固体の数が少ないこともありますが、そもそも先住民の数が少なく、徐々に北海度に流入してきたC3やD2と混血・融合することによって数が減っていった(絶滅していった)と考えられます。
つまり、抱合語を使っていたであろう先住民が居なくなっても、抱合語だけは使用され続けたのです。
これは、これまで考えられてきた民族の融合とは全く異なっていると思われます。
では、改めて融合とはどういうことなのでしょうか?

2.融合とはどういうことか?
先の日本に南方の風を吹き込んだ海洋の民「C1」で提示された融合の方法を再度みていきます。

D2はC1と遭遇し、その中で生きていく上でまず、相手方を注視し、彼らが用いていた言語を吸収、理解しようとした。さらには彼らと会話(コミニュケート)する為に言語を用いるようになった。D2がC1の言語を取り入れたのはそういう動機ではないかと考えるのです。
実際この事は私たちの生活体験からも容易に想像できます。例えば何らかの事情で急に大阪で生活する事になった東京の人の場合、特に子供であればあっという間に大阪の言葉を覚え、いずれ東京の言葉を忘れてしまい2年もすればほぼ完全な大阪人になっていきます。その時の意識は、友達を作ったり、皆と仲良くしたいと言う素朴な意識です。郷に入れば郷に従えという言葉にもありますが、その土地で暮らす為にはその土地(集団)のルールを身につけるというのは殆ど本能に刻印された同化能力の一つなのです。

ここで挙げられているD2とC1の融合のようなものが、アイヌにおいても実現された可能性が高いように思われます。
つまり、抱合語を使う先住民と最初に日本に渡来したと考えられていた「C3」や縄文人を形成したと推測される「D2」、後のオホーツク文化を築いた「C3」などが、先住民の生活を真似るために抱合語を学び共にアイヌ文化を形成したと思われます。
その中でも特にアイヌ文化に影響を与えたと思われるのが、現在、最も多いY染色体ハプログループ「D2」ではないでしょうか。
では、「D2」はどのように融合していったのでしょうか?

「D2」は縄文時代早期には九州にしか居なかったと思われますが、落葉樹林帯の北上に伴い「D2」もよりそれまで徐々に北上し、縄文中期の6000年前までには三内丸山に代表されるように本州最北端、或いは一部は北海道に渡り採集漁労の縄文文化を花開かせたと考えられます。

1500年続いてきた三内丸山が4500年前に突如消滅しますが、これが「D2」と先住民が融合したきっかけになっているように思われます。原因は特定できませんが、三内丸山の「D2」の民たちは四方八方へと避難を強いられることになったと考えられます。
つまり、北海道の南部で生活していた「D2」の民も北方に向かわざるを得ない状況=生死を賭けた移動を行ったと思われます(どのような事が起こったのか不明ですが、三内丸山遺跡が突然消滅した状況を鑑みると、その影響範囲は大きかったと思われます)。
そのような状況下で北方移動したD2はアイヌの先住民と遭遇し、生きていくために先住民を注視し、言語を吸収し(上記のD2がC1と融合したように)融合していったと考えられるのです。

民族と言う捉え方をした場合、どうしても西洋のイメージが強く略奪や侵略によって言語などを含めて文化が一変するようなことを想像しがちですが、アイヌをはじめ日本列島で起こったそのような略奪や侵略ではなく、先住民に学び・同化するという争いのない融合と言うべきものであったように思われます。
そして、先住民に学び・同化しなければ生きていけなかった外圧状況であったが故に、先住民の言語が残り続けたと考えられます。

3.縄文文化(体質)を受け継ぐアイヌ民族
「アイヌが何者なのか?」など民族の出自を考える場合、多くの学者はそのDNAなどの遺伝子学的な要素や、言語学などに偏った判断を行いがちですが、そのような判断は一面的であるように思われます。
前述したように、アイヌとは複数の民族が融合して出来上がった民族であると考えた方が、現在、判明している事象には整合しているように思われます。

現在のアイヌ民族に最も多い「D2」は同時に縄文人の起源であるとも考えられており、両者には以下のような共通点があります。
アイヌの創生神話にある二柱神による国生みは、列島の日本書記や古事記の創世神話と類似していることや、この創世神話にみる自然界の様々な対象を神とするアニミズム的信仰や文字を持たずに口承で伝えられてきましたことも縄文人と同じです。
また、アイヌ民族の集団は近世まで首長を擁した共同体としての形態が取られており、縄文時代の集団形態を踏襲していたとの推論も立ちます。
このような共通点があるにも関わらず、言語の違いなどで全く別の文化であると言ってよいのでしょうか?

人間の意識は本能機能、共認機能、観念機能の三層構造となっており、初期人類が獲得した観念機能それぞれが、現在形においてその全てが作動している。
この観念機能(特に言葉)は多様で容易な共認を可能にし、共認内容の無限の組み替えを可能にしてきた。我々が「文化」と呼んでいるものも、民族毎の「共認内容」のことを指している。共認内容が民族を規定しているのであって、本能(=DNA配列)が民族を作っている訳ではない。

つまり、言語の違いがあるにせよ、言語によって「文化」が決定される訳ではなく、「文化」はその信仰や共認内容に規定されるものであると言えるのではないでしょうか。そう言った意味においてアイヌ人も縄文文化(体質)を受け継いだ民族であると思われます。

縄文人を形成したと思われるD2は、一方は江南文化(農耕)を受け入れて後の日本人、もう一方は北海道の一部で狩猟文化へと融合したアイヌ民族と考えられます。

投稿者 yoriya : 2012年05月03日 List  

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コメント

インドの仏教が、結集をする度に観念のみに傾倒し、権威主義に陥っていったことは間違いないでしょう。そして、それが大衆から遊離する原因にもなったのは確かです。
しかし、それが釈迦の頃からそうであったとするのはどうでしょう?
>これを大衆にも響く観念体系としてまとめ上げたのはやはりお釈迦様の凄いところで、・・・現実に立脚しない観念群に支えられた思想基盤の脆さは
と書かれていますが、これは明らかに間違えです。
まず、観念体系をまとめ上げたのは、結集をした後の弟子たちです。
釈迦は、出会う一人一人の「苦」に同化し、その「原因」を見抜き、適切に助言をして歩いただけです。それが、彼の全てです。
とことんまで、一人一人の現実に目を向けて、その解決に全力を注ぎました。決して「悟り」や「解脱」を目指していたわけではないのです。
インド中を歩いたからこそ、彼の助言が膨大な数になり、弟子がそれをまとめた結果、様々な経典が出来上がってしまったのでしょう。
弟子に対するある助言の中では、観念の世界に入り込むことを、意味のないものとして、明確に戒めています。
故に、釈迦存命中は、仏教の観念論なるものは一切ありません。
そのことは、引用の中でも書かれている『律蔵』や『経蔵』を読めば、明確に書いてあります。
おそらく、後の弟子たちが観念に埋没してしまった背景としては、釈迦の言葉があまりにも多岐に渡り、中には180度違う意味の言葉もあることから、それを何とかまとめようとしたために、色々と理由付け(正当化)をし始めてしまったのでしょう。
180度違うのは当たり前で、状況が正反対の人に対する助言なのですから。それを、同じ人間に当てはめてしまったことが失敗だったのだと思います。
180度違う助言があるという点を見ても、釈迦がいかに柔軟であったかがわかると思います。
つまり、釈迦が何をしたかったのか?が弟子には分かっていなかったということが、仏教が観念論に陥ってしまった原因だと思います。
原始仏典を紐解くならば、いかに釈迦が現実主義者であったかが、よくわかると思います。彼は今ある現実を、より良い方向へ向けるにはどうしたら良いか?人としてどう生きるか?を助言して歩いただけなのです。
コメント、長々とすみませんm(_ _)m

投稿者 仏典を読んだ者 : 2013年1月28日 03:10

仏典を読んだ者 さん。コメント有難うございます。
ご指摘の点は、私も不勉強でした。
>(釈迦は)とことんまで、一人一人の現実に目を向けて、その解決に全力を注ぎました。決して「悟り」や「解脱」を目指していたわけではないのです。
>つまり、釈迦が何をしたかったのか?が弟子には分かっていなかったということが、仏教が観念論に陥ってしまった原因だと思います。
なるほど!と思いました。
確かに釈迦とその弟子を十把一絡げで捉えるのは浅薄かも知れません。より深く掘り進めれば、ご指摘のような様々な視点が浮かび上がるように思います。
今回シリーズは「インド」にその焦点を当てましたが、こうした、古代宗教の観念形態成立の真実の追求も、機会があれば扱ってみたいと感じます。
当ブログは仏教を扱った記事も多いので、また是非、コメントをお願いします!

投稿者 yama33 : 2013年1月28日 12:17

是非中村元先生の著作(『原始仏教』など多数)をお読みになることをお勧めします。仏教の真髄は釈迦~龍樹にあると思います。仏教は論理学や哲学の範疇にまで入り込みながらギリギリのところですべてを翻し野へ向かわせる他の宗教にない思想的凄み、深みがあります。そして釈迦は悩まぬものには悟りは必要ない(違約)とまで言っています…

投稿者 原始仏教ファン : 2013年2月5日 05:49

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