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2012年05月05日

「次代の可能性をイスラムに学ぶ」~プロローグ

こんばんは。暫く間が空きましたが、新シリーズの紹介です。
今回はイスラムを扱いたいと思います。まず、なぜイスラムを扱うか、そこの問題意識についてこのプロローグで考えてみたいと思います。
リーマンショック以降、アメリカ中心の金融経済が迷走し、昨年からはヨーロッパ経済がガタガタになりはじめました。これら西側諸国の自由主義経済、強いてはそれを支えてきたキリスト教経済圏が破綻し始めている事を示しています。さらに歴史的には武力、経済力などいわゆる力の原理で社会秩序や国家統合を図ってきたのがこれまでの世界の制覇国の原理でした。多分にもれず、遅れてきた東側社会である日本や中国、東南アジアもその仲間入りをして追随していきました。
当然バブル崩壊や世界経済の混迷、破綻に巻き込まれ、私権社会西側も東側の国々も今後混迷を深めていきます。しかし、ここに来て、それらの経済圏や価値観と全く異なる地域、国家群が世界の中にそれも相当の数存在する事が注目されています。
それがイスラム圏です。
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イスラム教は20世紀以降においても、着実に信仰人口を増大させています。なぜ、イスラムが現在元気がよいのか?同時期に発掘された石油という魔法の資源がその吸引力となった事と時を一致させますが、一方でイスラム教が貧困層に慕われ、規範や規律が明確な生活や集団維持の為の宗教であるという事も無関係ではないでしょう。21世紀に人類が迎えるであろう私権社会の終焉と次の共認社会の始まり。この20世紀後半に伸びてきたイスラムにはきっと次代に繋がる何かがあるのではないだろうか?それがこのシリーズを立ち上げた最初の問題意識です。
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まず最初に明らかにしたいのが、世界で20%を占めるイスラムという共認域です。どんな共認域で彼らがまとまっているのか?集約すればコーランがその中心であると言えますが、どのように誕生し拡大してきたのか?私権社会が閉塞しその終焉を迎えようとしている現在も尚、その人口、地域は拡大を続けています。―イスラム教はなぜ誕生したのか、そしてその教え人々に何をもたらしてきたのか?現在でも人々を巻き込んでいるこの宗教の本質とは何か?そこに迫っていきたいと思います。
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こちらよりお借りしました。
また、イスラム金融システムでも紹介されているようにイスラム圏ではお金がお金を生む金融という市場を禁じています。この事がもっともイスラムを象徴していると思うのですが、イスラムはつまりキリスト教文化圏の反対側の世界としてその登場から発展まで継続しているのです。後の投稿で紹介していきますが、イスラム教はキリスト教と同一の神、ヤハウェを信仰しています。しかし、神の意思の解釈が異なると言う事でその後のキリスト教と大きな差異が生じていきます。この差異が禁欲であり、規範であり、集団性なわけです。
当ブログのメンバーでイスラムとキリスト教を分けた最大のポイントは何か?を議論したのですが、それはどちらも同じ共認不全(人と人とが信頼できない状態)からスタートしています。しかし、キリスト教は個人を対象化、イスラム教は集団を対象化しています。
イスラム教が集団規範に載っており、個人の自我を戒める事に徹底しているのはその違いによると思われます。なぜこのような違いが発生したのか?これは宗教誕生の頃のこの地域の気候、そこに残っていた集団の有り様などから探っていく事になります。つまり、非常に厳しい乾燥化と当時イスラム圏で起こった戦争という外圧に対して集団化することで対応した最初の集団がイスラムの原点になっているのではないでしょうか。
このように誕生したイスラムですが、その後しばらくは中東世界で広がり、やがてインドを皮切りに世界宗教へ拡大していきます。イスラムの変遷と言われている部分ですが、イスラム成立時から徐々に変化していったイスラム圏の拡大の原動力を見ていく事が次のテーマです。キリスト教のように布教活動をそれほど明確にはしていません。彼らの拡大の真の目的とは何か?この時代の拡大に近代のイスラム社会の拡大に繋がるヒントが隠されています。
そして近代のイスラムです。冒頭で書いたように金貸し勢力が入り込まなかったイスラムというのは非常に興味が膨らみます。なぜ金貸しが手を出せなかったのか?どのような攻防があったのか、これは現在の金貸し支配に対抗する一つの可能性として扱っていきます。また、注目すべきはイスラム社会は民主主義を明確に否定していると言う事です。先の中国でも扱いましたが、民主主義を取らない勢力は世界で半数以上存在します。
アメリカが民主化路線で正当化しイスラムを攻撃しますが、イスラムの社会には自由競争、民主主義の嘘、違和感を既に見抜いており、独自の価値観で社会を構成しています。リビアのカダフィに代表される、民族全体の存続を考えた統治主義というべき本質的な社会統合を目指しています。~参考「カダフィ政権崩壊後、リビアで二度と見られなくなる16項目の善政
最後にイスラムと日本の摺りあわせを行ないますこれほど集団性を兼ね備えたイスラムですが、日本との接点は意外と歴史的に多くありません。そして私たちが彼らをイメージする際にあまりに情報が少なすぎ、肯定的に理解するのに乏しい状況です。西側世界の価値観で歪められ、イスラム=辺境、悪、異端として刷り込まれてきた私たちの史観を一旦疑う必要があります。
だから、イスラムを知りたい!
私たちがイスラムに学ぼうとした起点も実はここにあります。
歴史的には同じように共同体を維持してきたイスラムと日本、何が違い、何が同じなのか?また、イスラムに私たち日本人は何を学ぶべきか?イスラムを通じ、次代の社会に必要な答えが導き出せればと期待しています。
このシリーズの記事を最初に設定しておきます。
※追求途上でタイトルが変更する事はご容赦下さい。
1.現代のイスラム社会の構造~イスラム女性は充足しているか?
2.現在のイスラム社会の構造~経済と政治はどうなっている?
3.イスラム世界の源流とは~イスラム教前夜の状況
4.イスラム教の本質って何?
5.イスラムにとって武力とは何か?
6.市場拡大とイスラム圏の拡大を重ねてみる
7.オスマン帝国の拡大、統治は何だったのか
8.時代を経ても変わらないイスラム思想
9.イスラムに見る反西洋、反民主主義
10.拡大するイスラムの限界とは
11.イスラムと日本の関係史
12.イスラムに学ぶ~日本と何が違い何が同じか

当ブログでは過去投稿に同様のイスラム追求シリーズがあります。
今回の記事と併せて探求の資料とさせていただきますので掲載しておきます。
シリーズ:『イスラムを探る』 第11回 イスラムの可能性は?

投稿者 tano : 2012年05月05日 List  

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コメント

グレイト!かなりスッキリ。古墳による連合国家形成がのちの中央集権の基盤となった、という見方は正しいと思う。しかしその後、中央集権国家としてうまくいったかといえば、そこは疑問ですよね。そこから大和朝廷の暴走/統合の緩みがはじまり、武士の台頭を招いたということですかね。いずれにせよ日本ならではの外圧に対応する共認統合モデルとして古墳を再評価するという視点はマヤ文明の再評価同様、非常に可能性を感じました。

投稿者 yama3nande : 2013年2月7日 11:14

>中央集権国家としてうまくいったかといえば、そこは疑問ですよね。
白村江での負け方がそれを象徴していて、情報力を含めて外に対しては甘くなっていたと思います。そして難波に出たかと思ったら、すぐに奈良に引っ込み、防人という強制労働を強いるなど、その不甲斐なさが露呈しています。
内実は「中央集権」と呼べるものかは怪しく、そうであるがゆえに日本で永く続いたのだと思います。

投稿者 くまな : 2013年2月8日 00:48

非常に興味深く読ませて頂きました。
ふと思ったのですが、この説では神武東征あたりの記述を無視することにはならないでしょうか?

投稿者 匿名 : 2013年2月9日 01:21

以前に、古墳は、稲作の為の農地整備に関連した公共事業だとの説を唱えていた学者がいましたが、これだけの土木工事の労働者をどのように集めたのかが疑問ですね。強制では国は持ちませんから。
ピラミッドも公共事業だとかという説もありますように、多民族の集合体である当時の日本において、特に外圧の影響の薄い近畿以西においては、原住民である縄文系が単純に従ったとは思いませんね。どうでしょうか?

投稿者 fuji : 2013年2月9日 17:55

>この説では神武東征あたりの記述を無視することにはならないでしょうか
後世の創作である神話の記述に縛られないほうがいいと思います。

投稿者 くまな : 2013年2月12日 22:05

>特に外圧の影響の薄い近畿以西においては、原住民である縄文系が単純に従ったとは思いませんね。どうでしょうか?
近畿以西は、日本列島の中でも特に外圧が高かったと思います。また、縄文人は古墳時代が始まる500年前には弥生人と融合しつつ稲作を始め、300年前には青銅器による祭祀により広域的に統合されます。
古墳は、そのような集団性を前提として造営されたものと考えています。

投稿者 くまな : 2013年2月12日 22:25

四隅突出古墳が高句麗なら、なぜ東日本のでもそうしなかったのか疑問となります。近畿の前方後円をまねたという説は説得力がありませんが。

投稿者 駿河国住人 : 2013年3月1日 23:50

くどいけど
箸墓は4世紀後半です。
で、
そこに寝ているのは
伽耶からきて
七支刀に名を刻んだ倭王『旨』
すなわち 日本書紀の中では
ミマキイリイコイニエ(崇神大王)
のですよね。
箸墓は3世紀のお墓では絶対にありません。
(by 石渡信一郎)

投稿者 むらかみからむ : 2013年3月2日 01:49

標高180mの小高い山の尾根上に、南西方向を向いて横たわる一丁ぐろ古墳群の1号墳。
全長76mの『前方後方墳』が今、注目を浴びています。
前方後方墳は吉備国の南部では少数派ですが、県北の勝央町の植月寺山古墳(85m)に次いで県内第2の規模。
昨年末に発見され、ほどなく総社市の史跡に指定されました。
4世紀前半(あるいは初頭とも)の築造と推定されていますから、古墳時代前期の総社平野に君臨した、古墳時代最初の王の墓であるかもしれません。なお「一丁ぐろ」の「ぐろ」は漢字なら「土へんに丸」なのですが、活字がないので平仮名にしました。
「ものがこんもり盛り上がった状態」を意味する言葉です。
総社市街の西、高梁川を渡った丘上の「サントピア岡山総社」、その駐車場から北へ山道を登れば15分ほどで到着します。
東の眼下に総社の市街地、その上方の彼方には岡山市街地も。
南に目を転じれば四国の山並み、手前に内海も垣間見えます。
素晴らしい眺望に、しばらく時間のたつのを忘れました。
盛り上がった墳丘は、前方後方の墳形がはっきり観察でき、前方部先端が「三味線のバチ形」に広がっている、前期古墳の特徴も見て取れます。調査中の葺石や埴輪欠片も見えました。
この1号墳のすぐ北東そばに2~4号墳が連続していますが、
どれも小型の方墳です。少し離れた南東の尾根にある5基、東尾根の3基の円墳とあわせて「一丁ぐろ古墳群」を形成。
調査を進めながら、将来的にはこの山上を古墳公園として
整備する予定だそうです。楽しみに待つことにしましょう
http://www.okayama-kanko.jp/modules/kankouinfo/pub_blog_detail.php?sel_id=1328&sel_data_kbn=0
この古墳、正木山(総社市秦)の中腹にあります。
正木山は 頂上に「秦氏」崇敬の「正木神社」があります。古代秦氏の「牙城」にある「前方後方墳」。
現在発掘が進められているようですが、大きな期待があります。何がでるでしょうか?

投稿者 ken : 2013年3月3日 15:17

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