| メイン |

2008年09月17日

世界最古の戦争??

こんにちは
みなさんは「戦争っていつからあったんだろう?」なんて考えられたことありませんか?
今日は世界最古と思われる戦争の遺跡についてご紹介します
~引用~
人類最古の戦争、6000年前に=独考古学者がシリアで遺跡発見
(時事通信社 -2007年 01月04日 21:10)
 【ベルリン4日時事】ドイツ考古学者の調査で、これまで確認された中で人類最古となる「戦争」が約6000年前にシリアで行われたことを示すとみられる遺跡が発見された。米シカゴ大学東洋研究所のクレメンス・ライヒェル氏が率いる調査隊が発見したもので、4日付独週刊紙ツァイトが報じた。
 同氏によると、シリア北東部にある対イラク国境地帯の町ハモウカルで、紀元前4000年ごろによく乾燥させた粘土球が大量に見つかったという。同氏は、ウルクとみられる南メソポタミアの都市国家が北部にあるハモウカルを侵攻、粘土球を弾丸のような武器に用いて陥落させたと推測しており、「世界最古の侵略戦争の実例」と指摘している。
~引用終わり~
粘土球が武器? 本当かいな? :x  と思われた方も、面白そうと思われた方も・・・
続きはポチッとしてから
Blog Ranking
にほんブログ村 歴史ブログへ

 にほんブログ村 歴史ブログへ


『ハモウカル』というのがその遺跡の場所のようですが、ウィキペディアの『ハモウカル』の欄にはこんな記載が・・・
~引用開始~
2005年と2006年の発掘調査により、ハモウカルにあった都市は紀元前3500年以降に戦争で破壊されたことが分かり、これは中東の考古学史上、現在のところ最古級の戦争の跡である可能性がある。
発掘とともに、紀元前3500年から紀元前3000年の間に都市が忽然と消えたことが分かり、当初は地震により消失したとも考えられていた。しかし多数の墳墓や住居の跡から、都市が攻城戦により攻め落とされて破壊されたことが判明した。また非常に多くの粘土でできた球が見つかっており、これを弾丸のように放って建物や籠城している軍勢を攻撃したとみられる。
さらに上の層からは、ウルク期後期に遡る食器や壺など土器多数や印章などの遺物が見つかっており、南方から拡大したウルクとの戦争で滅ぼされた可能性もある。

~引用終わり~ウィキペディアより
また『アルタクセルクセスの王宮』というサイトには、こんな記事もありました。
~引用開始~
 「粘土のモロク」(注・モロクは古代西アジアの神の名。ユダヤ教では邪神とされる)
 6000年前に両河地方(注・メソポタミア=現在のイラク)で最初の都市が成立した。新発見は人類の進歩に関する考古学者の想像を変える。ウルリヒ・バーンゼン、トビアス・ヒュルター
 攻撃軍が投石したとき、終わりが来た。数千の硬く乾き締められた粘土塊がハムーカルの守備隊を打ち倒し、その抵抗が弱まったとき、南方から来た攻撃軍は高さ3mの城壁を破って町に侵入した。ハムーカルは炎上した。
 紀元前4000年、人類最初の戦争が起きた。「我々は人類最古の攻撃の痕跡を発見した」とクレメンス・ライヒェルは言う。南メソポタミアの都市国家、おそらくウルクの軍隊が北方に侵攻し、ハムーカルを落としてその周辺地域を征服した。「ここで起きたのは小競り合いなどではない。これは戦場だ」とライヒェルは言う。瓦礫、灰、そして大量の弾丸である。
 シカゴ大学東洋研究所のドイツ人考古学者は2003年から、両河地方の先史時代の古戦場の発掘を指揮している。遺跡の中心にある20mx20mの広さの「B地区」だけで、ライヒェルとその同僚たちは2300もの土の弾丸を発見した。これは先史時代の大砲の弾であり、考古学者は確信する。「これは5500年前の『衝撃と畏怖』だ」(注・このキャッチフレーズは2003年のイラク戦争で使われた)
 これは征服活動があったことの証拠ともなった。残存する武器は、先史時代と歴史時代の間の薄闇の中に謎の山と疑問の材料を与えることになった。イラクとの国境から数キロしか離れていないシリア北東部でのライヒェルの発見は、初期の都市国家同士の抗争の証拠を示すだけではないからだ。この地域での数々の発見は、人類史の決定的瞬間について新たなイメージを与える。文明の興りは、従来考えられてきたのとは違う経緯を辿ったのだ。
(残念ながら中略)
 「南メソポタミアの北方に対する帝国主義戦争」というライヒェルの説は、一部の同業者から有力な反論と共に批判されている。なぜ町を襲ったはずの弾丸が建物の中にもあるのか?彼らは家の中で互いに戦ったとでもいうのか?
 しかし過去数シーズンでライヒェルは自説をより確信するようになった。弾丸の多くは粘土と藁で出来た壁に当たった痕跡がある。また炭化した柱や瓦礫の間には、戦争を生き延びた住民が調理のため火を焚いた痕跡があった。「彼らは動くものは何でも食べただろう」とライヒェルはいう。ハムーカルの近くの遺跡、例えば200km離れたテル・ブラクの発掘でも、戦後の様子が明らかになっている。遺物はまた、ハムーカルは戦争直後にその最盛期を迎えたことを示す。それはウルクの支配下でだった。
 新しい支配者はその痕跡を遺している。より上層でライヒェルは紛れもないウルク様式の土器やウルク式の建築物の痕跡を発見している。ライヒェルにとっては明白だ。南方からの征服者はハムーカルの軍事的支配を引き継いだのみならず、文化的にも征服したのである。それはこんにちまで両河地方で繰り返されてきた紛争の姿である。
(訳出終わり)

~引用終わり~
※ドイツの「ツァイト」の記事を日本語訳してくれているようです
粘土球と思われるものが、壁にあたった痕跡がある点などからも、どうやら侵略的な要素を持った行為であることが伺えます。
また、るいネットにはこんな投稿もありました。
~引用開始~
おそらく6500年前ころ前に南メソポタミアに到着したシュメールは、この地で灌漑農業を行い、その生産力を背景に人口を増やし勢力を蓄えていた。
そこに6000年前ころからものすごい海面上昇が始まり、低地で灌漑農業を行っていたシュメールはこの逆境を乗り越える必要があったはずだ。
次のウルク期の初期に南メソポタミアのウルク、ウルなどで都市国家が成立することを併せて考えると、彼らは南メソポタミアを放棄したわけではない。むしろここを本拠にしてメソポタミア一帯の侵攻・制圧に乗り出したと考えるべきだろう。
掠奪的交易はその過程で物資や拠点の確保のために行われ、メソポタミア制圧後に都市国家の軍事力と組織力を背景に、より広域な交易範囲の拡大(アナトリアからイラン方面まで中東一帯に広がる、ウルク・エクスパンション)が成された。

~引用終わり~
時期的にも6000年前というところで一致しています。
海面の上昇を迎え、略奪に走ったのが後のウルク、ウルの都市国家を作った民族であり、少なくと6000年前には戦争が始まった、という捉え方ができるのではないでしょうか?

投稿者 maru : 2008年09月17日 List  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2008/09/595.html/trackback

コメントしてください

*