中国、母系→父系制への転換期③:強大な母系集団“三苗古国”vs父系集団“竜山文化”のせめぎあい |
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2008年06月10日
最古の戦争跡地!ガウラ遺跡
こんばんは~
最近の若者は、「戦争はダメ !」で思考停止
するのではなく、「戦争はやめることができると思う」、だから、「どうして戦争が始まったのか?そこが知りたい
」 そうストレートに発信してくれます。
いったいいつから、略奪闘争が始まったのでしょうか?
それは、どのようなきっかけからなんでしょうか?
どの民族(?)からなんでしょうか?
以前、hiroshiさんが、メソポタミアでの戦争の起源について書かれた記事がありましたね 😉
この、テル・ガウラ遺跡について今日は紹介します。応援お願いします
ありがとうございます
メソポタミアでは、平和的と言われているウバイド期が終わると、北部メソポタミアでガウラ期が、南部メソポタミアでウルク期が成立します。しかし北部のガウラ期は紀元前3500年ころ終わり、南北ともにウルク期になります。
ちょうどその転換期紀元前3500年に位置する遺跡が、このテル・ガウラ遺跡なんです。
場所は、この地図をご覧ください
ちなみに、今はこんな感じだそう。
現在のイラン領チグリス河上流にあった「テベ・ガウラ」が最初の戦争跡地であろうと見られている。
テベ・ガウラ遺跡として発掘されたのだが、三つの神殿がポリスの中心にあり周囲を家々が囲み統一された街が形成されている。この遺跡を調査するに従って、人骨や家屋の破壊のされ方が異常であることが次々に明らかとなった。猛火で焼け落ち、明らかに頭骨が石か棍棒で叩きつぶされた形跡が残っている。>監視塔もあり、昼間なら平坦な地形からして敵がかなり遠くても発見可能だったと思えるからだ。残された武器から判断すると先端に石を結びつけた石斧か棍棒であったと見られる。
この頃の戦争の目的は略奪と奴隷であり、不必要な相手は一人残さず殺し、集落は徹底的に破壊しつくしたものとみえる。
これが戦争なのか、単なる盗賊の仕業なのか判断が難しいが、考古学的に実証可能な戦闘跡地として世界最古であることには変わらない。
戦争史としての一ページは、この遺跡と考えるのが無理がない。ちなみにメソポタミア文化の初期ウバイド文化も、このテベ・ガウラで姿を消してしまったそうだ。
こちらから引用させていただきました。
このテベ・ガウラで闘ったのは、誰なんだろう?
ウバイド人の都市をシュメール人が襲ったのだろうか?
そもそもシュメール人ってどんな人?
戦争の起源を示す遺跡なのに、あんまり知られていないようなのです 。
検証できたらと思います
投稿者 mituko : 2008年06月10日
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コメント
投稿者 みつこ : 2008年7月14日 11:00
みつこさんコメントありがとうございます。
口上で、部族の歴史や歌などを伝える場合は、先代に何回も同じことを繰り返し教えられて、それを後世に伝えるというパターンだと思います。それに対して、交易活動の場合の口上は、毎回変わる内容(数や品物)を、その都度正確に覚える必要があったため、文字の出現につながっていったのだと思います。
投稿者 カッピカピ : 2008年7月15日 23:34
交易の記録の必要性から文字が生まれたとは、ちょっとびっくりでした。
文字を使うことで、取引の齟齬でいざこざが起きないようにだとか、どの時期にどれくらい取引すれば儲かるだろうとかを考えていたのでしょうか?そうすると、文字の使用って、結構、私権的な匂いがしてきますね~。
次回以降の、エントリーに期待してます!!
投稿者 しりたがりせいじん : 2008年7月16日 22:27
しりたがりせいじんさん、コメントありがとうございます。
>文字の使用って、結構、私権的な匂いがしてきますね~。
そうなんですよね。僕も、そこが一番の気付きでした。
次回以降の、エントリーを期待していてくださいね。
投稿者 カッピカピ : 2008年7月22日 19:19
こんにちは。
口上を覚え切れなったと書かれてあるというのは、面白いですね。
ただ、無文字社会では、それこそ部族の歴史を何時間?もかけて口承(歌もかな)するので、覚え切れなかったからってこともないような。。。
そういうところからも、交易説が有力なのでしょうね。