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2009年02月06日

イスラム教は、商人の宗教!①~イスラーム商会として台頭するまで~

こんばんは~
【チーム宗教】踏みとどまって 、イスラム教の誕生の背景をさらに詳しく調べてみました。
1.アラブの商業都市の様子
2.イスラーム商会として台頭
3.さらなる冨の確保のための、略奪行為
4.アラブ世界を統合するための、教え
を全2回でお届けします。
イスラーム(イスラム教の教え)って一企業の規約から出発したんですよ~  😀
なかなか知られていないこと、満載です
では、はじまりはじまり~
おっと、その前に、当時の地理だけは押さえておきましょう
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1.アラブの商業都市の様子
アラブ人 は紀元前1800年頃から、商業活動 を営んでいました。
インド産の象牙像、香料、天然の黄金、インド産宝石、真珠、サンゴ、絹(これらは全て贅沢品 )をローマ人に売り、そしてローマからは穀物 や生活必需品 を輸入していました。
商品運搬用道路の交差点には、バザールと呼ばれる常設市場ができ、そこが都市になりました。メッカはそのひとつ。バザールは各部族の庇護におかれ、大きなバザールは部族連合によって保護されていたそうです。この保護の意味は、盗賊に襲われない宿泊宿を提供することや隊商の護衛など。そのお礼に隊商は隊商宿使用料を払います。また貿易商品には税金もかかっていたそう。
2.イスラーム商会として台頭
預言者マホメットの妻、ハディージャはやり手の商売人でした。ダマスカスとの直接貿易を成功させた才覚のあるマホメットを夫に迎えいれて、夫婦の店イスラーム商会はさらに業績アップ してゆきます。
実はそれまで、イスラム教の神であるアッラーはイスラーム商会の家神に過ぎなかったのです!!
ところがマホメットは、「アッラーのほかに神はない。マホメットは神の預言者である」、「他の神々は容赦なく破壊する」と言い出します。他の神々とはもちろん競争商会の守護神のこと。
当時メッカの商人たちにとって、多くの神々の存在を認めることは、すなわち、市場の多様性、自由な商業活動を意味していました。なので、マホメットの唱える一神教は、結局のところ、イスラーム商会による市場の独占!の宣言に聞こえたのです!!
当然ながらマホメットはメッカの大商人たちの反発を買い、信者を引き連れメディナへと移動します (聖遷と呼ばれています622年)。そしてそのメディナを基点に、外交と戦争を駆使しつつ、わずか10年でアラブの都市や遊牧民を大部分従属させてゆくのです。
一体どのように、アラブを征服してゆくのでしょう?
その様子は、マホメットがメディナを統合し、追い出されたメッカを再び征服する方法から見て取れます。
商人らしく、駆け引き
メディナにはイスラーム商会の最大のライバルのユダヤ人商会がありました。そこで、早速彼らと、アラブ人が東方貿易をユダヤ人は西方貿易を担おうという棲み分け交渉を行います。(これは結局表面的なものに終わったようですが。)
イスラームの規約を利用
毎日5回の祈祷を義務付けることで、集団への所属意識を高める!
ローマ、ペルシャ、キリスト教への対策として、ワイン禁止!を掲げる!
なぜ対策となったか?
①ローマは征服した地域にワイン製造を広め、支配部族をアルコール漬けにする戦略をとっていたそう。それへの牽制
②今ひとつの貿易上のライバル、ペルシャの商人が扱っていた主要貿易品がワイン 。当然敵に塩など送らない
③キリスト教徒は飲酒OK だったので、キリスト教に信者が取りこまれることを防止。
略奪
イスラーム商会はまさに辻強盗集団 でした。
メディナの信者たちは「メッカからシリアへ、そしてシリアからメッカへ向かうきらびやかな隊商が、メディナに銀貨一枚の通行税も払わず、保護を受けたいという謝礼もおいてゆかないことに憤慨し、それこそ辻強盗を働いてでもこうした隊商の態度を改めさせたい」と考えていたのです。そこにマホメットが辻強盗こそ神の御意にかなう行動であると宣言しちゃうのです! (やっぱりこのあたり、キリスト教が表向き平和を唱えるのと、エライ違いです。)
この略奪強盗によって、イスラームはアラブのもっとも重要な南北縦貫道路を制御するようになります。こうして自在に交易路を操れるようになったマホメットは、メッカへの商品流通を絶って、メッカの人々を干上がらせたのちに、イスラーム商会の商品を安くメッカの人民に売ります。当然そこでは、イスラームの信仰に入るというのを条件にします。(なかなかのやり手です
このようなことから、イスラームは宗教であるというよりは、史上最大の巨大コンツェルンの定款であり、経営組織の規約とも言われているのです。
第一弾はここまで 
では、商業活動=略奪行為となったイスラーム商会はどうなってゆくのでしょう?? 知りたいですよね ?②に続きます。

投稿者 mituko : 2009年02月06日 List  

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コメント

初めまして、ブログ村から参りました。
とても興味ある内容だと感じました。
コメントに代えて、勝手乍ら、自分のブログで記事にしました。
申し訳ありませんが、ご確認と、ご了解を頂きたく、宜しくお願い申し上げます。

投稿者 五節句 : 2009年3月31日 14:12

はじめまして。
北朝鮮に前方後円墳や四隅突出墳墓の原型があるという話ですが、だいたいまともな調査もされておらず、半島南部にもないのも不自然です。(半島南部の前方後円墳は倭人の墓)
また北朝鮮側が江上、森、上田というお気に入り学者しか招待してないのも不自然です。
以前、北朝鮮に有るといわれる前方後円墳の写真を見たこと有りますが、2千年前の古墳なのにほとんど風化されておらず不自然でした。
何より日本でも前方後円墳と四隅突出墳墓は最初に造られた地域も時代も異なるのに、北朝鮮では同じ地域でほぼ同じ時代となってるのも不自然です。
結論を言いますが捏造でしょう。

投稿者 おーやん : 2009年4月5日 07:59

 四隅突出型方墳は現在では、四隅突出(型)墳丘墓と呼ばれています。これは島根県安来市の仲仙寺支墳(現;荒島墳墓群に含まれる四隅突出型墳丘墓)が1970年に発見されたときマスメディアが「日本最古の古墳発見!」と喧伝したことで話題になり、考古学・歴史学の学界は出雲で最古の古墳が発見されたというのは困るというので、古墳時代じゃなく弥生時代後期だから古墳といってはおかしい、方墳は古墳の一様式なので墳墓もしくは墳丘墓と呼ぼうということになった。
 山陰・出雲の考古学は戦後このような冷遇を受けてきたが、「天皇の権威を守る」という理由にならない理由によるものだった。しかし、最近、出雲では考古学的な大発見が続き、大和政権を確立した主役だったとの見方が強くなっている。

投稿者 名詩 : 2009年9月5日 13:29

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