| メイン |

2012年05月13日

「次代の可能性をイスラムに学ぶ」1~イスラムの女性は充足しているの?!~ 

シリーズの第一回は、社会の最基底である“性”を見ることで、イスラムの実態に迫ってみたいと思います
ずばり、サブタイトルは、“イスラムの女性って充足してるの?”です :D
イスラムの女性は、その全身を隠す服装などから、厳格な規律に縛られた=抑圧されたかわいそうな女性というレッテルを貼られることが多いように思いますが、果たして本当にそうなのでしょうか?
images.jpg
画像はこちらより
いつも、応援ありがとうございます

 にほんブログ村 歴史ブログへ


1.イスラム教は女性救済だった?!
実はイスラム教の成立過程を見ると、西欧からのこの女性を抑圧しているというレッテルはまったくの誤りであることが分かります。
実はイスラム教が成立する以前のアラブの女性は、集団内で卑下され、自分の意見も持つことを許されず、遺産相続権利もないという状況でした。夫は妻の許可なしに妻の財産を使用する権利があり、また時に女性は売春を強制され、その収入はその女性の後見人が得ていました。結婚に関しても、後見人の一存で女性本人に相談することなく結婚が取り決められ、結納金は後見人が受け取り、女性には反論する権利はありませんでした。
このような後見人の横暴振りや、度重なる戦で夫を無くし寄るすべを失った女性を救済すべく、ムハンマドは複数の妻を娶ることを認める規範を作ったと言われています。また、イスラームは女性が仕事を持つことを女性の権利の一つとしました。実際、女たちから目標とされているムハンマドの妻たちは、自ら商売をしたり、繕い物をしたりして自らの生計を立てるというたくましい生き方をしています。
アラブはムハンマド登場前に母系から父系に転換していますが、その際の極端な父権への傾倒を調整し、規範で再統合して女性を救済したのがイスラム教だったとも言えるかもしれません。
その証拠に、イスラム教には、女性に関する規範が数多くあります。ではその規範の中身を見てみましょう。
2.イスラムの性規範と充足
%EF%BD%BA%EF%BD%B0%EF%BE%97%EF%BE%9D.bmp
女性に関する規範<結婚・離婚>

身内以外の男女の接触を制限するイスラームにおいては未婚男女の自由交際はあり得ない。従って結婚はほとんどの場合が見合いで始まる。
ムスリム男性はユダヤ教徒、あるいはキリスト教徒の妻を娶ることが出来るのに、女性はムスリム男性としか結婚できない。
一夫多妻(4人まで妻を娶ることができる)
イスラームでは、夫が三度「タラーク(離婚だ)」と妻に対して言えば離婚は成立する。
「男は仕事に、女は家庭に」、これがイスラームにおける原則的な男女の役割分担。

以上のような「自由恋愛の禁止」「家父長権の強さ」をもって、西欧諸国(男女平等主義者)はイスラム社会は女性に対して抑圧的であると非難するのですが、「自由であることが充足と結びつかない」ことは、およそ皆さんお分かりかと思います。
さらにイスラムにおける性に対しての意識を見てみましょう。まったく抑圧的ではないことが見えてきます

「性」に肯定的なイスラム教
イスラームには性を否定的に捉える傾向はまったくなく、むしろ、結婚は信仰生活の重要な一部であり、禁欲的独身主義の方がかえって悪とみなされている。この他にも、イスラム教の聖典には、性に関する教えや表現が多数登場し、「性」のとらえ方は極めて肯定的であることが解る。
イスラムの女性に対する認識
男女は人間 としてまったく平等であり、同等の権利をもつ。しかしこれは男女それぞれの特性を 生かした平等と権利であり、なにがなんでも同じに扱うことではない。女性が母として子を産み育てる役割は人類存続のための大前提であり、そこに女性の真の美しさがある。

このようにイスラムにおいて性は肯定視されており、禁欲主義をとるキリスト教とは極めて対比的です。よって、その性充足への追求度はかなり高く、例えば次のようなことまで伝承などには書かれているのです。
390px-Twolovers.jpg
『宮廷の恋人たち』(エスファハーン、イラン、1630年)画像はこちらより

「男が自分の妻に近づくとき、彼は二人の天使に守られ、彼はアッラーのための戦士のようである。彼が妻と関係を持つとき、彼の罪は落ち葉のように落ち、全身清浄をすれば罪は洗い流される。」(ワサーイルッシーアに集められた伝承)。
妻にとって夫の性的欲望を満たすことは重要な義務の一つである。「もしある女が夫との同衾を拒み、夫が一晩怒りを抱いて過ごせば、天使が朝まで彼女をののしる。」(アルブハーリー、ムスリムの伝える伝承)
「男が自分の欲望を満たすために妻を呼んだときには、たとえカマドに火をくべていても彼の元に行かなくてはならない。」(アッティルミズィーの伝える伝承)
夫には妻を喜ばせる義務がある。「あなた方の誰でも、卑しい獣のように妻に飛び掛ってはいけません。まず交わりの前に先駆けを送りなさい。」と預言者は言われ、先駆けとは何のことですか、と尋ねられると、「接吻と優しい言葉です。」と言われた、という伝承がある。
妻の許しなく射精直前に身体を離すことは禁じられるが、これは妻の喜びを奪うことになりうるからと考えられる。
『イスラームと女性』より

さて、このように性への肯定視が強いイスラム教ですが、現代の解放の流れの中ではどのようになっているでしょうか?変わらず規範は活きているでしょうか?
一口にイスラム社会と言っても国家によって信仰度合いに差がありますので、近年市場化が進み、規範がゆるんできていると思われるサウジアラビアと、厳格な規範が今も残っているイランの2国を、取り上げてみたいと思います。
3.現代の状況
サウジアラビア
進む市場化、女性の消費者化
サウジアラビアは石油マネーの流入により、1人当たりGDPは14,353米ドル(2009年)(cf.日本は39,530(米ドル))。今や人口2,700万人を擁し、中東諸国の中では最も富裕層が厚く、購買力が高い国となっている。人口増加率も高く、人口構成の50%が25歳以下で、政府の雇用創出政策(女性の就労を支援)により、近年ますます消費市場としての魅力が増しているそうです。中でも女性は家庭において絶大なる購買決定権を持っているといわれます。
1251438681.jpg画像はこちらより

進むイスラム規範の崩壊

このような市場化により、サウジアラビア社会は現在、今までの習慣やイスラームに反する新しい社会問題に直面しています。特に危険な問題としては、政教分離の波を受け、伝統的な家族制度が崩壊されているということがあります。近年の政府の統計によると、未婚女性の増加と離婚の増加が数字に如実に現われています。結婚適齢期の未婚女性は1/3にまで昇り、離婚は結婚した夫婦の35%に昇っています。(ちなみに日本は約30%だそう。日本よりも大きい数字というのは、かなりの崩壊度です。)
s-wedding25-1.jpg
画像はこちらより

イラン
都市部は市場化
一方、イランの1人当たりGDPは4,863米ドル(2009年)。およそサウジアラビアの1/3。イラン経済が制裁で痛手を受けていることは事実で、イラン通貨は今年その価値を50%失い、物価は高騰している状態。そのあおりは中流階級が受けているようです。
厳しい規範
ホメイニ師のイスラム革命後、女性はヘジャブ(頭髪を覆うベール)の着用を義務つけられるなど、イスラムの教えの厳守が優先されてきています。欧米並みの女性解放を謳った王政がヒジャーブを身につけた女性のデモで予想もしなかったしっぺ返しをくらうなど、国民も教えを忠実に守る傾向が強いようです。大学までは男女別学、バスや電車も男女別。1000人当たりの年間婚姻率は12.2%、離婚率は1.7%、(cf.日本は婚姻率5.5%、離婚率2.2%)イスラム社会でも低い方である。
しかし、近年都市部では規範が緩んできている模様。(離婚をテーマにした映画などが作られています。)
f75377271ed7c09962822ec82127bc0e_C420.jpg
画像はこちらより
4.まとめ
上記の両国の比較から言えることは、(これはイスラム諸国に限りませんが)市場化すればするほど、離婚率は上昇しています。それは規範(男女の性規範や家族制度)の崩壊を意味し、結果、共同体を失い個々人に解体された成員は共認非充足を募らせているとみてよいでしょう。
ですので、冒頭の「イスラム女性は充足してるの?」の問いに対しては、「男女の性や家庭での母親としての役割充足は得ている。ただし近年の市場化(豊かさの実現)に伴い諸々の規範が緩んできており、その充足性も低下しつつある」と答えられると思います
しかしながら、このイスラムの歴史や規範から学ぶこともあるはずです。
それは、私たち現代人は得てして「規範」と言われれば「規制されるもの」というマイナス印象を持ちがちですが、この記事でも見てきた伝承のように、その本質は「より充足するには○○した方がいいね」というものです。規範が厳しいから不幸なのではなく、規範があるからこそ充足できるのです。
最後に日本人でムスリマの女性の実感を紹介します。

性行為は生殖のためだけでなく、夫婦の間で楽しむべきものとしてアッラーから与えられているのである。私はこうしたイスラームの性愛観を知って、小説、雑誌、テレビなど巷に氾濫する性のイメージに対して覚えていた嫌悪感を一掃することができた。それまでは性を心のどこかで不浄視していたように思う。切り捨てることのできない人間の動物的側面として疎ましい気持ちがあったように思う。また、性行為に男と女の力関係を見るようなやり切れなさも感じていた。現在、それは一点の曇りもない清らかな性のイメージに取って代わった。『イスラームと女性』より

投稿者 mituko : 2012年05月13日 List  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2012/05/1395.html/trackback

コメント

初めまして、日ユ同祖論の本でアマゾンでベストセラーになっている真説ニッポン伝説と日本人と言う本を読んだのですが1度読まれてみるのはいかがでしょうか?
聖徳太子について目からウロコの事実が書かれていて興味深かったですよ。
著者は藤本 玄と言う人です。

投稿者 佐藤真貴子 : 2013年2月28日 21:54

コメントありがとうございます。
一度読んでみようと思います。
もう少し読みどころを紹介いただくと嬉しいのですが・・・。

投稿者 tano : 2013年3月1日 22:59

くどいけど、古代史を語るには 石渡信一郎からです。

投稿者 むらかみからむ : 2013年3月2日 01:31

【古代史は石渡信一郎から始まる】
と信じています。ぜひ 以下の文 感想聞かせてください。。
『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*
失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 
書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。
では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 ①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ②貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。
石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。 
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。
その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。
しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。
なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。
結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。
では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。
石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。
古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)   
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃
で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。
古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】
大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部(伽耶)を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。
しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。
隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。
まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。
石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書紀です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。
石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書紀編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。
見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。
私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』
で、聖徳太子と蘇我馬子と用明大王 そして アメノタリシホコは
すべて たった一人の人物です。その人を分けて書いているのです。
とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。

投稿者 むらかみからむ : 2013年3月2日 01:35

むらかみからむさま本文より長いコメントありがとうございます。
勉強になる事がたくさんありますね。
中でも
音韻変換の部分はなるほどという感じです。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日(カスガ)
など面白いですね。近畿地方に特に韓にちなんだ地名があるようです。
その他以下の部分も当ブログの考えと同じです。
>書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
むらかみさんの考えでよいので、なぜ太古から統治していた事にしたかったのか教えていただきたいと思います。
次は1スクロールで読めるよう、よろしくお願いします。

投稿者 tano : 2013年3月7日 19:35

>石渡論
日本全土を韓半島起源としたいような説ですね。
音韻変換は正直、素人目に見てもかなり無理が多いような。
縄文人一万年の生と祈りを無視してはすべての考察は無意味でしょう。
どちらにせよ、一個人の説に依存しすぎ、自身の思考や理性を他者に丸投げにしてしまうのはいかがなものかと思います。

投稿者 ふう : 2013年3月14日 12:46

ふうさんへ
寄稿ありがとうございます。
>縄文人一万年の生と祈りを無視してはすべての考察は無意味でしょう。
賛同、なるほどです。
縄文時代とは日本の歴史を考える上で決して無視して展開してはならない時間です。まさにこのブログの主旨にも合致しており意を得たりです。
>どちらにせよ、一個人の説に依存しすぎ、自身の思考や理性を他者に丸投げにしてしまうのはいかがなものかと思います。
端的に指摘しており、丸投げというのは確かにです。
説を成すのなら自らの頭を駆使して、それに必要な史実を学び、それらを立体的に組み合わせ、そこから生み出すものです。××が言っている、○○が唱えているでは根拠にならないのです。

投稿者 tano : 2013年3月14日 21:35

日本列島は大陸で負けた民族の避難場所なのでしょうか。日本には避難してくる人達を受け入れる大きな器があると思っています。日本列島は人種の吹き溜まりとも言いますが突如として現れた漢字は神に伺いをする道具として日本から中国に持って行ったものだと考えます。甲骨文字も日本ではカタカムナ文字が絶対的に優越しており確執があって地元では認められなかった勢力が儀式をセットに殷に持って行ったのではないかと考えています。カタカムナ文字で繁栄した文明を持って尊敬されていたアシア人の考えは日本人の性質そのものです。これに気がつかないのは日本人自身です。日本には数万年という優れた日本語という言葉があります。英語が公用語にな理想になったのは日本の敗戦の時です。文字は今も使っているカタカナです。

投稿者 フルヤマ : 2013年3月19日 18:54

和を以って尊しとすべしは聖徳太子の言葉と言われていますが聖徳太子は実在しなかったのではないかといわれています。蘇我氏宗家を滅亡させたためにその実績を架空の人物聖徳太子の功績として遺したものだという説が主流になってきているようです。天地天皇よりも天武天皇のほうがレベルの高い人物であったことがわかるようになってきました。最もレベルの高い人物は蘇我入鹿のライバルと強く意識していた藤原氏祖中臣鎌足。当事の文部大臣太安万侶の古事記の序文は後世に書き加えられたものであるという説が唱えられましたが数日前に書かれたもののように思われるくらい新鮮な文章なのでむしろ名文でしょう。江戸時代の本居宣長の超人的な古事記の解説注釈によってそれまでは意味不明であった古事記の内容が注目され日本書紀とともに国学の研究のもととなりました。形骸化した神道ではミチを唱えるから言挙げせずといいますがミチの元は何かを語ることはなく古事記の中に出てくる八百万の神の説明に終始します。これではミチの説明にはなりません。もっと根源の説明が必要です。

投稿者 フルヤマ : 2013年3月20日 18:33

根源の説明とはどこにあるのか。古事記を世界最高の学術書と述べられた楢崎皐月先生の80首のカタカムナのウタヒにあります。物質がどのように出来るのか生命がどのように発生し活動するのかを示すカミと交信したとしか思えないウタヒです。相似象会誌9号に出されている先生自らが筆写した右回りの渦巻状に記載されたウタヒです。弟子の宇野多美恵先生は世に知らせるのは尚早といわれながらも72首までの解読・解説を行い出版し74首までの原稿をパソコンに残しながら89歳で不慮の死・放火によって会誌が中断し絶筆しております。故人の著作権を引き継がれたアキナオト氏はこれ以上の展開を進めることを拒絶しておりす。80首のウタヒがすべて解説されると身の危険を感じておられるようです。私は時代の要求があれば世に知らしめるべきだと思っております。しかしハードルは高いとアキナオト氏とは別の視点から感じております。残り8首の解読と宇野先生の相似象会誌16巻を参照しながら私なりの解説を全首に試みました。数名の方には自筆原稿はお渡ししておりますがまだ時期尚早ではないかと自分自身も感じております。日本語は世界最高の言語なのではないかと考えておられる方にはお伝えしたいと思っております。

投稿者 フルヤマ : 2013年3月20日 19:24

フルヤマさん3つもコメントありがとうございます。
>日本には避難してくる人達を受け入れる大きな器があると思っています。日本列島は人種の吹き溜まりとも言いますが突如として現れた漢字は神に伺いをする道具として日本から中国に持って行ったものだと考えます。
⇒フムフム 面白い説ですね。何か詳しい話がどこかのサイトで見られるのならご紹介下さい。そうすると漢字文化は日本発と言う事になるのでしょうか?

投稿者 tano : 2013年3月23日 19:52

>形骸化した神道ではミチを唱えるから言挙げせずといいますがミチの元は何かを語ることはなく古事記の中に出てくる八百万の神の説明に終始します。これではミチの説明にはなりません。もっと根源の説明が必要です。
なるほど。それでは根源の説明とは・・・
次のコメントにありますが、ちょっとよくわからなかったです。ウタヒとは何か?誰でもわかるように少し解説をお願いします。

投稿者 tano : 2013年3月23日 20:00

楢崎皐月先生は弟子の宇野多美恵先生文責による相似象会誌を出される前に「習志野の道」という会誌を出されカミツ文字・表象文字の解説をされております。約50年前の小冊子はガリ版刷りのもので説明会を催され参加者はなるほどと驚嘆されるばかりでそれ以上の進展はありませんでした。(「日本の上古代文化」「静電三法」復刻版はシーエムシーから出版されている。)第5,6首ヒフミヨイマワリテメクルムナヤコトアウノスベシレカタチサキソラニモロケセユヱヌオヲハエツイネホン48表象文字でつくられ、五七調のウタになっており私たちの世界はどのように成り立っていて変遷し続けているのかが示されております。第13首は神代の時代のご先祖が原子をどう見ていたのかを示しております。今の量子論のレベルをはるかに超えていることがわかったときには発する言葉がありませんでした。納得されるまでには紆余曲折があるかと思いますが日本語は自然発生的に出来たものではないことはご納得いただけるかと思います。伝承が続けられたがウタがご神体となって形骸化されたために記された文字の意味がわからなくなりこれに対抗するように現れた勢力は占いによって神を造り出し神との交信の手段として象形文字を作り出したと考えております。たとえ形骸化されても生き続けて使われている日本語を凌駕することは出来ず中国に新天地を求めたと考えております。今から3500年位前のことと想像しております。

投稿者 フルヤマ : 2013年3月25日 18:40

古事記の中に登場する人物?に八十神の記述があり大国主命を死に陥れようとした兄神達を加勢したとある。八十神を崇拝する集団が国を統一しようとした人物と敵対して戦ったととるのが素直だと思う。古事記は誤った旧辞を廃し正しい歴史を編纂したとあるから太安万侶の人柄から彼は研究する学者であって官吏であって権力に媚を売る人物ではなかったと思っている。よく日本書紀は権力者の都合で書かれたものだと論じる人がいるが現代の私たちから見るとどちらも古い書物に片付けられてしまうが古事記の神代記は言い伝えられた事柄をわからなくても出来るだけそのまま伝えようとするもので日本書紀は当時の当世の解釈で記述されたものと考える。例としてあげれば五穀の起源は後代になって表題をつけたものだと考えるが記紀に記された内容は異なり書記には牛馬が登場している。楢崎先生は古事記は世界最高の学術書と述べておられるから稲葉の白兎は水和性の結晶反応を説明するものと考えたりスサノウが鏑矢を放つ意味と火を放たれた時にネズミがオオクニヌシノミコトに穴の中に避難するように教えたりするときの呪文など想像すると面白くなりますが私たちの科学とは異なった科学があったことがわかります。日本人の思惟方法にはシャーマニズムが根付いていることを唱えておられたのは中村元先生です。インドの原始仏教とは全く変貌していることを述べておられます。

投稿者 フルヤマ : 2013年3月27日 20:00

水戸光圀は日本人・倭人は司馬遷の史記に書かれた春秋戦国時代の呉の太伯の子孫であるとする大陸の説に林羅山などの儒学者達が支持していたことを嘆き国史編纂をすることを志したことから水戸学が始まる。明の遺臣、朱舜水を招聘したのもこの説を否定してもらうためだったのではないか。また光圀の好奇心による行動力はたくましく快風丸を建造し蝦夷地に三度も渡っている。日本人の祖先は今は蝦夷地にいるのではないかと考えていたのではないか。文化人類学者とも考えられる。水戸学では上古代には道教などなかったとされるが使われる言葉のなかから日本古来の道が窺えると唱えている。人間が社会生活を営む時に生活の道があったというのだから日本でも道によって秩序が保たれていたのは間違いの無いことである。日本には教えられた道がないから何もないということの方がおかしい。これは日本語を話す日本人が日本語を話すことを否定することに等しい。水戸学は薩摩や長州藩の藩校でとりあげられたとされる。儒学者林羅山の現実主義・合理主義は現在でも違和感を感じさせないが光圀が嘆いたことのほうが伝えられる人物像より優れていたと考える。儒教や仏教は人の道を説くものだが日本古来の人の道があり何ら矛盾するものではなく仏教や儒教があるのなら日本古来の道があるという考えがあり日本古来から道を伝えてきた天祖を持つ天皇を敬いなさいという論になる。私が幼い頃日本には文字が無く2000年前まで特別な文明が無く狩猟採取で生活してきたが大陸から稲作が伝えられて食料を安定的に確保できることによって国の制度が整えられてきたと習った。今の常識とは大きな隔たりがある。水戸学が伝える古道とは何かをははっきり示さず神が伝える天地自然の道で止まっている。古墳の発掘調査まで学術的に行っている人物のあくなき探究心は敬服するが後を引き継ぐ者達に義公の器を仰ぐだけで終わっていたのでは残念だ。カタカムナの80首のウタは天地自然の道はこうなっていると示しておりそれは昭和に発見した楢崎先生が述べられた哲科学書であった。上古代人の頭脳が最高レベルのときに著した哲科学でありこれを解読することを当時の学者に要求することは酷なことであったか。人間世界に限らずすべての社会現象や宇宙や見えない世界にも通じているこの考え方こそ日本人であることの根源ではないか。なかなかこれを理解することは日本人自身にとって困難なことなのである。

投稿者 フルヤマ : 2013年4月1日 17:48

神代文字と称される文字はカミツ文字以外にもいくつかある。カミツ文字と外の文字の違いは表音文字であることは共通しているが同時に象を描いているのはカミツ文字のみである。象のことをカタという。象形文字は表象するものをカタチに限定したものなので漢字は表音文字としての機能は低いが何が描かれているか発音が違っていても意味がわかるという優れた特性がある。このことによって言葉の発音が違う民族が意思疎通が出来るということになったので大陸の多民族がまとまる事が出来た。今でこそカタカナに変化したカミツ文字は表音文字の機能しか示されていない。「abさんご」のようなロボット工学に非常に参考になる実験小説が出来たけれどもカタカナが使われていないことがカタカナのアンチテーゼとなっている。象を表すということは形に限定はされていないということです。見えないものや人間の意識もあらわせるということなのです。ヨソヤコトホグシウタと示しているので挟む余地が無いのです。人間が認識できる出来ないことすべてをほぐして言葉にしてウタにしましたと示しているのです。象形文字と表象文字の違いはここにあります。日本語を使うようになると民族の共通意識が強くなりますが象形文字を使う中国の多民族国家は共通の意思疎通は出来るが意識を共有するまでにはいたらないということです。日本人を単一民族と片付けてしまうのは表面的なことで共通の潜在意識に働きかける作用が強いのは日本語なので日本語の本質を捉えてしまうとその反動はとても大きいことが懸念されます。でもカタカナを消すことは日本民族が消滅するということだと考えています。

投稿者 フルヤマ : 2013年4月3日 20:48

日本とイギリスの合同研究グループが1万4千年前の縄文土器に魚を煮炊きしていた形跡があったことが分析結果によって判明したという。最古のものだそうだ。ドングリをすりつぶして煮ていたということは聞いたことがある。魚を煮た時に穀類も入っていたのか調査すればわかると思う。5300年前のアイスマンの胃袋から採り出された固形物にも獣の肉と焼いたパンとハーブが分析されたという。私たちの習ったメソポタミアやインダス文明とは何だったのだろうか。文字が発見されたか否かで判別するのは基準が間違っているのではないでしょうか。中国には石器時代が無い理由として中国の学者達は竹が使われていたので必要が無かったのだという。現在でも竹のナイフで調理をす部族があるそうだ。そばを石臼で挽くと香ばしくなり粒子が均一にならず甘みさえ感じられることから現在も使われている。古代と現代を分けるのは時間経過に過ぎないのではないかと考えている。

投稿者 フルヤマ : 2013年4月13日 19:27

最近、コンピュータとプロ騎士の将棋の対決が行われている。何万手という情報をコンピュータに覚えさせ、最善の手を見つけて打つそうだが、これを古代史に応用できるような気がする。
古事記、万葉集などはその時の権力者によって歪曲されているし、容姿、DNA等から考えても日本人は間違いなく混血である。しかし、大陸の権力争いから海を隔てている日本は、安全地帯であったことは人間の頭でも理解できる。
しかし、日本では権力者によって消された歴史も、世界の歴史から見れば、人の移動、権力の交代などを正確にデータとして入力すれば、そう外れてはいない歴史が描けるような気がする。
誰かできる人はいないでしょうか。

投稿者 山崎 登 : 2013年4月27日 23:51

山崎さん
>日本では権力者によって消された歴史も、世界の歴史から見れば、人の移動、権力の交代などを正確にデータとして入力すれば、そう外れてはいない歴史が描けるような気がする。
面白い視点ですね。
確かにそんな方法もありそうです。
日本の歴史書ではなく確実なデーターを元に歴史を再現するということですね。今、当ブログでやろうとしているのもその作業です。大量のデーターを元に分析とはいきませんが、逆の方法で、たった一つでもよいので不整合のある事実をとりだし、なぜなのかを仮説を立ててみる。
それが書紀にかかれない伽耶の記事の話なんです。
大和朝廷は伽耶人が作ったのはほぼ確定的なのにその事がほとんど書かれない。これは絶対に何かある。そういう発想で事実をあぶりだしていきたい。。。と考えています。
何人もの仲間と議論してあぶりだしているので、多少なりとも精度はあがっていると思いますが。
また、皆さんの意見も参考にしたいと思いますので、よろしくお願いします。

投稿者 tano : 2013年5月4日 00:59

【渡航至難の対馬海峡】
推進力の弱い古代船では、最短距離である対馬海峡を
渡航するには、とても至難である。
朝鮮半島南沿岸から出航すると、対馬暖流に流され
隠岐国・出雲国地方、時には能登半島あたりに漂着する。
従って、帯方郡・楽浪郡から倭国への遣使は朝鮮半島東沿岸の
“迎日湾“辺りから、南下する寒流のリマン海流と北上する
対馬海流そして季節風に乗って隠岐国を経由のうえ
東出雲・邪馬台国に到達する。
この古代からの“出雲航路”が最も安全かつ自然であり
難破遭難の少ない“視達距離航法”であった。
後世(大業四年・西暦608年)の『隋書』倭国伝に登場する
煬帝の答礼使裴世清と小野妹子たち一行も倭国と隋国都・大興城
への往復は“出雲航路”を渡海したと言える。
また、天智7年(西暦668年)以降も日本からの遣唐使
(留学生・僧)は“出雲航路”にて新羅国(朝鮮半島東沿岸)
経由のうえ長安(現・陝西省西安市)へ渡っている。
何故なら朝鮮半島の黄海側の中西海岸以南と南海岸は
きわめて複雑な海岸線。数千の島が点在の多島海であり、
西海岸の潮差が大きく中部の京畿湾(潮差8~10m)
南の群山(潮差6m)の航行は至難であろう。
対馬海峡は比較的距離のある海峡で海流も強く素人が船を作り
渡ろうとしても、山陰沿岸に漂流され難破遭難の可能性があり
現代人が挑んでも同じ結果になると言える。
邪馬台国論争で対馬海流は常に東北に流れていることを
前提に論ずる方がいるが、多分それは潮流ではなく
海流のことを言っている。
潮流と海流の区別もつかず邪馬台国論争を語れば、
もう対馬海峡を渡る最初の“要”で間違っているのだから、
せめて対馬海流とリマン海流のことは調べておく方が良いと思う。
2013年7月31日 小林 須佐男

投稿者 小林 須佐男 : 2013年7月31日 22:13

帝紀・旧辞
帝紀・旧辞は6世紀の継体天皇・欽明天皇の時に作成されこれを元に古事記や日本書紀が編纂されたとされるから古事記や日本書紀が過去の史実を始めて纏めたものではありません。史記編纂するときは以前に異本が蔓延っていたでしょうから権威や権限が移動した場合これを国内外に知らしめる必要があってのことだったはずです。継体天皇の時には筑紫君磐井の乱と任那日本府の存続が危ぶまれる状態でした。これを治めて権威権限が移動したことで史実を改めて編纂することになったのではないでしょうか。九州王朝が近畿地方に出先機関を設けたのが大和朝廷になり中間点には出雲王朝もあったと考えます。もとは九州王朝から始まり中国から近畿に蝦夷を征定する前線基地をのばしていく過程で京都朝廷と江戸幕府の関係と同じような仕組みが築かれたと考えます。江戸時代はどちらに実権があったかは明らかだろう。皇族の宮様が将軍家に輿入れすることがあったし実権だけでなく天皇を挿げ替えることも可能だったのだから筑紫朝廷を征定し大和朝廷が出来たことはあり得ることだ。江戸時代にもこの考え方もつ国学者がいたそうだ。
 紀元前660年
紀元前660年神武天皇が即位した年から860年の間14代仲哀天皇に至るまで平均在位が61年もあり出来るだけ皇紀を伸ばして権威付けしようとしたのではないかと中学生の時の担任の先生が言っておられました。酒井田柿右衛門を何代も名乗っているので神武天皇や仲哀天皇をそれぞれ何代も引き継いで名乗ってもおかしくないと思ったものです。神武天皇の代が終わり次の綏靖天皇の代になるのは一個人ではなく小国家の連合国から幹事国の持ち回り体制になっていたのではないでしょうか。(まぼろしの邪馬台国:宮崎康平著から連想されます。)魏志倭人伝によると古代の倭国での身分は大人・下戸・生口しかなかったようですから。たとえ規模が違ったとしてもニューヨークにある国連ビルが九州王朝の皇居にあたるのではないでしょうか。神武天皇を名乗れる氏姓が次の氏姓国に禅譲していたのではないかと考えると仲哀天皇から70年間天皇在位の空白が続き即位した応神天皇が一代限りとなったのはそれまで朝鮮半島と近畿地方どちらにも軍事侵攻したことへの反動が起きたことが考えられます。その反動によってそれまで北九州で水稲栽培法を広めることで食糧増産を上げることで支持されていた連合国間の禅譲体制が保てなくなったのではないでしょうか。これは倭の五王が朝貢を続けて爵位をもらっていた東晋から禅譲され建国した宋が59年後に斉に禅譲したことと共通していたのではないかと考えます。神武氏姓が2673年前に筑紫で即位宣言したことがあったと考えたい。

投稿者 フルヤマ : 2013年10月22日 18:04

【褓負商】とは
各地の市場を行き来する行商人で、日本の香具師に似た組織を持っていた。
その起源は、古く遠い三国時代から始まったといい、
規律や禮儀、相互扶助の精神が強かった。

壬辰乱中でも幸州山城の戦いには、褓負商が武器、食料を運んで功をたて、
丙子胡乱のときは軍資金や義勇軍を出して愛国心を発揮した。

朝鮮朝末には、彼らは政治的に多く利用された。品物を持って全国をくまなく行商する彼らは、民心の動向を探るのにあつらえ向きであった。

それ故に彼らは、しばしば大院君による天主教迫害や東学軍の状況偵察に利用された。

高宗35年(1898年)には親日集団皇国協会として組織され、李承晩、除載弼らの所属する独立協会・弾壓に利用されたこともあった。

文: 木丁・金龍煥より引用

投稿者 小林須佐男 : 2015年3月14日 18:43

コメントしてください

*