縄文再考:縄文人のルーツ⑤~原日本人はどこから来た?~ |
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2021年12月31日
【縄文再考】すべては循環している~”死者”は”生者”と、そして集団の中で共に生き続ける~
(石秋田県大湯ストーンサークル館:万座環状列石)
皆さんこんにちは!
前回は縄文早期から出現した集団墓の形態から縄文時代の集団の形態について辿ってきました。
縄文時代は集団墓に限らず多様な埋葬形式や墓の形式が存在しています。
そこで今回は埋葬形式について整理し、その中での共通する死生観の精神性や、集団形成における関係について追求していきたいと思います。
(1) 多様な埋葬形式が生まれた縄文時代、集団形態の変遷を墓からたどる
縄文時代に存在した埋葬形式と集団形態について分類し整理すると以下のようになります。
◆埋葬形式
・単葬…1回で終わらせる
・再葬…いったん埋葬した遺体や遺跡を掘り起こしてまた埋める
・単独葬…一体のみの遺体を埋葬する
・合葬…複数の遺体を同じ墓に埋葬する
・土壙墓…時代を通して一番多いのは地面に遺体を埋めるための穴以外に特別な施設をともなわない
・石組石棺墓…墓坑の壁面を板条や偏平石で囲んだもの
・土単葬単独墓器棺墓…日常容器を転用したものと棺用に特別に作られた土器の2パターン
◆墓様式
今回は上記の表から考察すると大きくは一回の葬儀で一体を埋葬する「単葬単独墓」と複数の遺体を再葬する「再葬合葬墓」の二つが縄文時代の墓の形式として存在しています。
その二つの形式から以下の二つの仮説が考えられます。
①「単葬単独墓」「再葬合葬墓」は共通して生者と死者が近接し密接な関係にあること
②再葬合葬墓(縄文中期以降)は一つの墓に死者を集結させ単一集団を組織集団に統合するために行われていたこと
この二つについて仮説について検証をしていきます!
(2) 「死」とは自然に還って循環し、生者とともに「生」き続ける
上記の表にあるように縄文人にとって死はもっと身近で、集落の中央にある広場にお墓を作ったり、家の中に埋葬したりすることが多くありました。
考古学者の山田康弘氏は縄文時代の生死観について以下のように述べています。
>「現代では、死は自分がこの世からいなくなる”消滅”や”無”のイメージを持つ人が多いですが、縄文人にとって、死は『自然に還ってもう一度生まれる』ための出来事でした」。
この時代の「生」の象徴といえば、生命を生み出す出産に関するものが多く挙げられます。
「土器や土偶がたくさん作られましたが、出産に関するデザインが多いんですね。土偶はおなかや腰のあたりが膨らんだだものがよく見られますが、これは妊婦をかたどったものだといわれています。
また、土器には、赤ちゃんの顔のようなものが装飾されていたり、出産時の光景を表したようなデザインもあります。土器の中に赤ちゃんや、時には成人の遺骨を入れる『土器棺墓(どきかんぼ)』という埋葬方法がありますが、これは、土器を母体に見立て、もう一度生まれ変わることを願ったといわれているんですよ。お墓の副葬品として、遺体と一緒に土偶が埋められていた例もあります」<
(「縄文人の死生観~死は消滅ではありません。自然に還って存在し続けるのです:岡田知子」https://mainichigahakken.net/hobby/article/61.php)
また豊かな自然の循環の中で自然と共に生活していた縄文人。
春夏秋冬の季節の巡りのなかで植物や動物、山や川が再び生き返る様子を見ていた縄文人にとって、人間の死も再生し循環し生き続けるものと捉えていたと考えられます。
(3) 集団の構成員を結束させる役目を担う共同墓地と葬送・葬儀
縄文の前期には環状集落や列状集落が本格的に形成され、環状集落の中央広場や列状集落の一角に土坑墓=共同墓地が営まれるようになったといわれています。
縄文中期に発展した西海渕遺跡西田遺跡(岩手県紫波郡紫波町所在)は、集落の中心に共同墓地を配した環状集落のであり、以下のような特徴があります。
>岩手県西田遺跡集落は墓壙群と掘立柱建物群の同心円状の構成を基本として、内帯(墓壙群)→墓壙群→掘立柱建物群→竪穴住居群・貯蔵穴群の4重の同心円で構成される<
(西海渕遺跡と西田遺跡の墓壙群について: 小 林 圭 一https://www.yamagatamaibun.or.jp/h25/P58-65.pdf)
また、神奈川県川尻中村遺跡でも中央広場を中心にピット群、その外周に住居群が分布する明瞭な重環状構造が確認されるとともに、ピット群の内側からは中央広場を囲むように構築された環状列石が発見されています。
(『縄文時代における墓の変遷と祭り・親族・地域・3』:佐々木藤雄https://www.jomon.or.jp/archives/30.php)
上記のように掘立柱建物群や環状列石の内部にある墓は共同墓地の空間を明確にしています。
前回のブログで縄文人は集団墓が組織の統合軸へ⇒家族単位の集団を超えて共同体としてつがる(【縄文再考】単一集団から組織集団へ、集団間のつながりが持続可能性と多様性の幅の広さを生み出した)と考察しましたが、
村落の構成員が葬送・葬儀を営み、共同墓地を拠点として家族単位を超えた組織集団を結束する公的な場としての役目を担っていたと推測します。
すべては循環し、再生する=生き続ける生死観を、多様な構成員がいる組織集団が共通の儀礼・空間を通して結束することで、縄文中期以降の集落は集団をも継続させ生き続けることを可能にした
のではないでしょうか。
次回も埋葬品や副飾品等から縄文人の社会制度についてもう少し深堀していきます!
投稿者 hanada : 2021年12月31日 TweetList
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コメント
投稿者 トモタカ : 2022年1月5日 21:21
トモタカさんコメントいただきありがとうございます!
以前ブログのmatudaiさんが縄文土器の文様から
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http://web.joumon.jp.net/blog/2021/11/4402.html
基本的に大地・畑の文様が記号のベースとして選択され、大地・畑の記号に対して種子文などの作物が抽象化された記号として表現されている。
縄文人は、表現しようとする対象が原則的に対関係(対構造)で存在するという基本的な考え方を持っており、記号もそれにしたがって基本的に対関係(対構造)で配置される。
対構造の基本的な関係は雌雄という性に関する関係である。
記号単独についてではなく、複合的に配置された記号全体が、陸界や水界などの空間を表現する。
ーーー
ことを挙げていました…“対”や“循環”“環”“円”といったことから生命原理・法則を用いて、自然界を表現していたことなど、ここに縄文文明の世界観が通づることがあるのは間違いなさそうですね。
投稿者 hanada : 2022年1月11日 20:12
縄文文明は無文字文明だったので、彼等の世界観を知ることはとても難しいですが、残されたものから解読するお取り組みは貴重だと思います。
私は彼等の世界観を知る上でヒントになるのは、円形住居と円形集落と環状列石かと思っています。加えて土器に多用される渦巻きやS字文様も解読のヒントになると考えています。なぜ円なのか、なぜ渦巻きなのか、という問題意識です。