2021年12月22日
2021年12月22日
【縄文再考】渡来人と縄文人の相互依存による進化
みなさん、こんにちわ!
先日は、「縄文土器総論」として、縄文土器から見る縄文人の精神性・技術力をまとめました。
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命を喰らう器「縄文土器」だからこそ、生命への感謝と再生への祈りを込めた縄文人。
ありのままの自然界を土器の限られた面に落とし込むために、自然・人の注視から見出した生命原理「対構造」による記号を用いて陸界・水界を表現していた。
空間を記号化して、2次元的に再構成し、それを3次元の土器に再統合しなおすという非常に高度な空間把握技術。これも、自然への感謝、そして注視(一体化)があったからこそ身に付いたものなのかもしれません。
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今回からは新シリーズ!縄文人の精神性が弥生時代以降どのように変化していったのか、弥生人と縄文人の違い・関係性とはなにかを追求することで、縄文を再考していきたいと思います!
■支配されたのではなく、渡来人を受け入れた縄文人
弥生時代の最も大きな変化は、朝鮮半島をはじめとした大陸から、渡来人(弥生人)が渡ってきたということ。
多くの説が流れるなかで、まず見極めなくてはならないのは、この渡来人によって、縄文人は駆逐・支配されたわけではないということ(昔はこうした推論が支持されていた)。
・そもそも朝鮮半島で土地を得られなかった(生きていけなかった)者が渡来しており、好戦的でもないし、支配しにきたわけではない
・渡来人は稲作に適した平野部の湿地帯を求めており、縄文人の暮らす狩猟採集に恵まれた山間部とは自然と住み分かれ、争う理由がない
・弥生時代から100年間は弥生人による環濠集落(軍事施設)跡がみられない、縄文人と弥生人の大規模な戦争の痕跡はない
・血液型Gm遺伝子の分布からも、現代の日本人の体の中には、縄文遺伝子が残っている(東アジアと外見は似ていても、DNAは大きな差がある)
こうした事実を並べてみると、縄文人と弥生人は共存していたと考える方が、自然ではないか。むしろ、人口爆発のなかで、集団が大きくなり、農地が広がっていくと、土地を巡る争いが生じるのは弥生人の間である可能性が高い(弥生人の争いの中で巻き込まれた縄文人はいただろう)。
そのなかで、特筆すべきは、環濠集落は関東以北ではほとんど見られないにも関わらず、水田は広がっているということ。(参考:「弥生社会における環濠集落の成立と展開(藤原哲)」等)
これは、縄文人主導の水田が広がっていることを意味する。渡来人とは争わず、稲作技術を取り入れ、寒冷期・寒冷地においても安定した食料確保を実現していったと考えられる。支配されて稲作文化へと移行したわけではなく、弥生人の文化を積極的に取り入れるなかで、弥生人と一体化(弥生化)していったということ。(技術力は発展しつつも、否応もなく自然環境によって人口・栄養状況が左右されていた縄文時代から大きく進化を遂げたといえる)
■弥生時代にのこる、縄文の力
弥生時代は、渡来人による技術に照準が当たりがちだが、弥生早期の外来系の土器は、一部の遺跡を除いて、ほとんどの地域でみつかっていない。
また、青谷上寺地遺跡の学芸員は、土器をはじめ、縄文人の抜歯の風習の残存などを例に「弥生時代は渡来人が作り上げたと言うが、それは違う。発掘を長いことやっていると、縄文の力をひしひしと感じる」という。
※採集生活から農耕へと生産様式が移行するなかで、高品質の土器を大量生産する(独自・独創性ではなく)ように土器様式が移ってはいる
縄文人は、渡りきた者たちを受け入れ、共存し、対象から学ぶ。自集団の精神性・技術力を塗り重ねることで、文化・技術を発展させてきた。
何が答えかわからない昨今注目される、様々な対象から学び、様々な集団との共創のなかで、開かれた追求を進めることで答えを出すというのは、まさに縄文人こそ力を発揮できる生き方なのかもしれません。
投稿者 sibata-h : 2021年12月22日 Tweet