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2010年10月11日
シリーズ「日本人の起源」(4) 縄文人はどのように形成されていったのか
縄文人はどのように形成されていったのでしょうか。
前回は、日本列島に新人が辿り着いたのは4万年前ごろで、スンダランド海洋航海民が黒潮に乗って島々を渡りながら、日本列島までやって来ていた、という記事をお届けしました。
今回は、南方から辿り着いたスンダランド発の南方モンゴロイドだけではなく、スンダランドから2.5万年前ごろ北上した後、2万年前ごろに南下してきた北方モンゴロイドが日本列島に辿り着き、1.2万年前ごろまでに縄文人が形成されていった、という内容をお届けしたいと思います。
先ずは応援をお願いします。
るいネットの記事、「縄文時代以前から複数のルートで移住してきた?」からの引用です。
永田さん「単位集団ごとの渡来説」賛同いただきありがとうございます。
さて議論が少し遡りますが、縄文人の出自について結論が出ていなかったようなので、北方適応との関係だけは押さえておきたいと思います。
5万年前スンダランドで独自の進化を遂げていた人類は、北や南へ拡散していきます。オーストラリア原住民の祖先は、4万年前にはスンダランドから海を渡っていました。スンダランドから北上した人類が東アジアに達するのは2.5万年くらい前とされています(ここまでは北方適応していない)。さらにシベリアに達し北方適応するのは2~1万年前です。
“縄文人”とは以上のうちの「どこかからこの頃に」海を渡って本土にやってきた部族の総称と言えるでしょう。ここでは上記の北上過程を当時の地形図に重ねてみて、海流や対岸の距離などから、日本本土への渡来ルートとして有力と考えられる案を、時系列に整理してみます。
■1.【4万年前以降】スンダランド付近(東南アジア)から黒潮に乗って海を北上し、台湾や南西諸島を経由して九州や四国、本州南岸に辿り着く。
■2.【3.5万年前】海沿いに北上する途中(江南地方あたり)から黒潮に乗って北上し、台湾や南西諸島を経由して九州や四国、本州南岸に辿り着く。
■3.【3万年前】海沿いに北上する途中、中国東岸から東シナ海を渡り九州西岸に辿り着く。(このルートからは朝鮮半島南部にも辿り着くはず)
■4.【2.5万年前】朝鮮半島の付け根を横切って北上し、半島東岸部から親潮に乗って本州、北陸地方沿岸部へ辿り着く。
■5.【2.5万年前】朝鮮半島を一旦南下し、半島南岸部から対馬を経由して本州、山陰地方沿岸部へ辿り着く。(後の弥生人の大量渡来と同じルート?)
■6.【2~1万年前】シベリヤから、樺太~北海道を地続きに南下し津軽海峡を渡って青森に辿り着く。≪ここが北方適応か否かのポイント≫
■7.3500年前以降;寒冷化に伴い北東アジアから南下する過程で、5・6と同じルートで本土へ辿り着く。(中国や東南アジアにも北方適応部族が増える)
以上、縄文時代以前から日本本土にいた人々は、概ね同根の南方部族であり、6以降、縄文時代に入ってからは、北方適応部族の渡来もあったと考えられます。(しかし5以前のルートからの渡来も途絶えたわけではない)
こうして日本本土内で“様々な出自の部族”が、地域によって一定の傾向を示しつつ同時期に共存していたのが、縄文期本土の部族分布状況なのでしょう。
しかし、大陸内においても北方適応以前と後では、明らかに異民族・異人種であり、交り合うのは、その「必要」が生じた以降のことだと思います。
日本人は縄文人と弥生人が交じり合って形成されましたが、縄文人=南方モンゴロイドと弥生人=北方モンゴロイドの融合という図式ではないようです。
スンダランド発の南方モンゴロイドが4万年前ごろから様々なルートで日本列島に住み初め、同じくスンダランド発ですが北方適応してバイカル湖あたりから南下して日本列島に辿り着いた北方モンゴロイドが、2万年前ごろ(弥生人が入る遥か以前)から広がっていったようです。
■『推理で解く 「日本の歴史」』の記事「日本人のルーツ」より引用
縄文以前の土着民と、南から渡ってきた縄文人は同じ民族であったと思われます。
彼らは東南アジア系民族で、アイヌ民族の祖先ではないかと考えます。
一方、シベリアから渡ってきた民族は、中国大陸を縦断する過程で、現在の大和民族に近い姿になっていたと思われます。
ここに、アイヌ系縄文人とシベリア系縄文人のふたつの縄文人が誕生します。
縄文人は流入した人々の数も少なく、日本全国には広がりませんでした。
アイヌ系縄文人は九州を拠点に広がり、シベリア系縄文人は北海道から、気温の低下と共に徐々に南下していきます。
縄文人の遺跡では青森にある、巨木建造文化の三内丸山遺跡が有名ですが、ヒスイ、コハク、黒曜石などの出土品が北海道から中部地方、関東地方に広がっています。
本州の中北部に広がるこれらの遺跡や出土品は、シベリア系縄文人のものだと思われます。
ふたつの縄文人としたのは、現在のアイヌ民族が巨木建造文化や方墳、円墳といった埋葬文化を継承している形跡がないからです。
恐らく、それらの文化を持った縄文人はシベリア系で大和民族に近く、後の弥生人と融合しやすかったと思われます。
ブリヤード人村入歓迎の儀式:こちらからお借りしました
■縄文人とブリヤード人 DNAが一致より引用
DDBJとよばれている「日本DNAデータバンク」。これは世界中で行われている遺伝子研究の成果を、人類の財産として共有する目的で作られたインターネット上のホームページで、国立遺伝学研究所が管理運営している。
このデーターバンクには世界各国の130あまりの民族のDNAデータが500万件(2001年6月現在)も納められている。
世界各地の民族と縄文人のDNA配列を比較することで、どの地域に住んでいる人々と一番近縁関係が強いか、つまりアフリカ発のどのルートに日本人は一番なじみが深いかを探れる。
驚いたことに、縄文人二十九体中実に十七体がシベリア平原に暮らすブリヤード人と一致したのである。
(中略)
私たちは日本でDNAの検索をした際、一つの重要な情報を手に入れていた。
縄文人のDNAと完全に一致するブリヤード人の住む村を特定することが出来たのである。
村の名はマクソホン。
(中略)
ところがここマクソホン村は、目の前を通り過ぎる村人の顔はまさしく日本人そのもの。
何故この村の人たちはここまで日本人によく似ているのか。
日本人にそっくりなシベリアの先住民族は、ブリヤードだけではない。シベリア取材の先々で、日本人のよく似た人々に出会った。
シベリアを代表する先住民族ヤクート人、北緯70度のツンドラでトナカイを追うドルガン人、極東の大河アムール川で魚を捕って暮らすウリチ人。
広大なシベリア全土に、日本人によく似た人々が散らばっている。
シベリアの人々と日本人がどこかでつながっていると考えるのはごく自然なことではないか。
そのことを補強するように、最新の遺伝子研究も、日本人の祖先と北方諸民族との強い近縁関係を示唆している。
弥生人との融合以前に、縄文人そのものが一つの民族ではなく、様々な時代ごとに日本列島に辿り着いた様々な民族の総称であり、その中でも多数だったのは北方から辿り着いた北方モンゴロイド民俗だったようです。
彼らは直ぐに交じり合ったのではなく、棲み分けしていたのではないかと思われます。だからこそ、黒曜石等の贈与の発展があったのではと感じます。
投稿者 sinkawa : 2010年10月11日 TweetList
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コメント
投稿者 匿名 : 2011年3月19日 19:19
遊牧民は動物:羊や山羊を騙して飼うということで、自然をある意味克服利用して生きていくということでもありました。
しかしアラブではカナートという自然に頼るものがまだあったがために、略奪オンリーの世界ではなく、遊牧民でも集団性が残存したのかもしれませんね。
投稿者 norio : 2011年3月19日 19:37
匿名希望さん、norioさんコメントありがとうございます。
カナートを焦点にしてイラクを見ていったのですが、カナートの維持管理、それによって生きていく集落、これらすべて集団単位であり、運命共同体としての強い絆を形成していったのだと思います。遊牧にせよ、農耕にせよやはり生きていくには集団が必要であり、そこでの強い共認や深い知恵が必要です。
norioさんのコメントにあるように自然との関係が集団性を残していく基盤にあるのは確かでしょう。
この間の震災で日本人だけでなく世界が震撼したのはこの自然に対する畏れとそれを失ってしまっている現代人の意識の異常さです。原子力というほとんど理解できない物をコントロールできると思ってしまったのはこの自然への畏れをどこかで失ってしまった私達の最大の過ちだと思います。
この震災を機に、日本人の意識に大きな変化が始まります。
それは新しく始まるのではなく、いままで何万年もかけて人類が作り上げてきた叡智に学ぶ姿勢を作り出すことになると思います。
投稿者 tano : 2011年3月19日 20:55
Y染色体ハプログループでは下記の系統が知られています。
C1a1(M8),C2b(F1076),D1a2a(M55),O1a(M119),N(M231)の5系統は縄文人。
C2a1a2(M48),Q1a1a1(M120)の2系統はオホーツク文化人。
O1b1a1a(M95),O1b2a1a1(CTS713),O1b2a1a2a(L682),O2b(F742)4系統は弥生人。
O2a2b(P164)は古墳人。
O2a(M324)グループは大陸系帰化人。
非常に多数系統が混血して現日本人が形成されたと思われます。
投稿者 ツヨシ : 2021年12月22日 14:50
>遊牧民は非常に厳しい自然圧力が在り、闘争性を重視する男中心の社会になる事は必然構造にある。しかし同時に闘争に参加できない女性は、遊牧ゆえにより一層性を磨き、集団の存続の為にその力を役立てようとしたのはこれまた必然構造であったのだろう。
なるほど、遊牧の世界でも集団の存続第一の共通認識はあったのですね。遊牧という生産様式に転じるとその圧力構造や集団の統率などの様態も変化してゆくように思いましたが、アラブ世界では、その集団性を維持しつつも、交易圧力や他集団との小競り合いなどで変質してゆくことはあってももともと、集団性の維持を本質的にはもっていたということは納得しました。
はやり人間集団。共認を命綱として生きてきたのはどこの人々も変わらないということなのでしょうね。