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2010年11月10日

日本人の起源を探る7-渡来人の出自

前回のシリーズ6では、縄文~弥生時代の渡来人の出自が南方か北方かを言葉から考察してみました。
引き続きシリーズ7では弥生時代に大量渡来したと思われる渡来人の出自について考えて見ます
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弥生時代の始まりについてはこれまでBC500年ごろというのが定説でしたが、「近年の放射性炭素年代測定により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前10世紀まで遡る可能性が出てきている。」リンク
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縄文時代約1万年に較べれば、弥生時代約1300年は比較的短い期間ともいえますが、現代から考えれば奈良時代まで遡るわけですから、かなり長い期間ともいえます。
この弥生時代に日本に本格的な稲作技術と私権序列社会を持ち込んだと言われる、大陸からの渡来人とは一体どこから来たのかについて考えて見ます。「るいネット」の記事「渡来人の出自2」から引用します。
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弥生時代に関係する中国大陸の民族移動の様子について、安田喜憲著「龍の文明・太陽の文明」の中に以下のような記述があります。
>四千年前頃、長江文明が気候の乾燥化と北方の畑作・牧畜民の侵略によって衰退すると、北方の龍族が大きな力を持って南下し、ついに長江流域に生活していた苗(ミャオ)族など、三苗(さんびょう)とよばれる太陽族・鳥族・蛇族を駆逐しはじめた。とりわけ三千年前以降の気候の寒冷化は龍族の南下に拍車をかけた。

%E9%BE%8D%E6%97%8F%E3%80%80%E6%8C%BF%E7%B5%B5.jpg龍族
☆安田氏によれば、とりわけ3千年前は、著しい気候の寒冷・乾燥期であった。
この約3000年前の気候変動が、漢族の南への侵攻⇒長江文明人の南下⇒日本、台湾、東南アジアへ四散、という南アジア民族の玉突き移動の主要因と考えると、弥生時代が約3000年前に始まったいう最新の説ときっちり符合しますね。

かくして、太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、稲作と太陽信仰、鳥信仰をもたらしたのである。
安田氏は北方の畑作・牧畜民によって南方へ追いやられた稲作・漁労民が東シナ海に逃れ、対馬暖流を北上して九州南部(隼人)へ、さらに九州北部を経由し出雲へ、最後は富山の越の国へ至る「南方渡来説」の立場のようです。

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苗(ミャオ)族
前出の年表に拠ればBC千年ごろというと中国では商(殷)の時代です。
この商と苗族との関係は不明ですが、このころから既に中国大陸のあちこちで、西方、北方からの侵略と略奪の玉突きにより次から次ぎへとめまぐるしく支配者が入れ替わるまさに戦国時代を迎えつつあり、そこから押し出された難民が海を越えて日本にたどり着いたことは容易に想像できます。

そして、朝鮮半島から北方の畑作・牧畜民が日本列島に渡来するのは弥生時代後期から邪馬台国の時代と区分されています。渡来人の第一波は南方からであり、弥生時代の基礎を創った。その後、第二派が弥生時代の後半に北方より押し寄せ古墳時代の基礎を創ったと考えると弥生時代が判りやすくなるのではないでしょうか。つまり、縄文を最基底にした三層構造の塗り重ね度合いが地域差として現れているのではないでしょうか。

%E4%B8%89%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3.jpg出典
弥生の後期(AD3世紀)は中国では後漢が滅んで三国時代。魏、呉、蜀の三国に分裂。魏に代わるのが晋。この時代もめまぐるしいほどに地方部族同士の侵略の時代です。それが朝鮮半島を圧迫しその一派が玉突き的に日本へ流れ着いたことも容易に推測できます

いずれにしても、渡来人は中国大陸から玉突き的に押し出され逃れてきた民であり、何よりも北方部族との闘いを経験していることは見逃せません。縄文人と共通する森の文化を持っていたとしても略奪闘争の経験は弥生時代にも色濃く反映されていると思います。そして、後からやってくる渡来人ほど略奪性に感化されていると考えられます。

☆弥生の始まり(縄文の終わり)の時期の渡来人と推測される苗族の一派は、まだ侵略の経験が浅くある種「負け組」というべきですが、弥生の後期の渡来人は同じ負け組でも1000年に渡った侵略と略奪の経験を経た人種と考えられる。
それだけ私権意識も、攻撃性も強かったと想像できますし当然婚姻制度も父系性であったと考えられます。
しかしそれでも、受け入れた側の縄文人の気質がそれから2000年を経た現在でも薄くなったとはいえ、日本人の中に残っているというのは大いなる驚きです。

投稿者 ryujin : 2010年11月10日 List  

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コメント

非常に読み応えのある記事でした。
海流の図は迫力ですね。
それにしても海洋民の特徴は海流に逆行して航海する、その理由は何かあった時に故郷に戻れるからというのはなるほどです。
しかし、その意味で日本にたどりついた民は海流に沿っていますよね。それはやはり航海ではなく漂着民と見るべきなのでしょうか。

投稿者 tano : 2011年3月27日 22:41

おひさしぶりです。
唐突ながらjomon10さんのこの記事にリンクを貼り、一部引用させていただきます。かわかつ

投稿者 Kawakatu : 2011年3月29日 14:04

当時のポリネシア人の思いが伝わってくるかのような、とてもリアリティを感じる記事で、気付き満載でした。
ありがとうございます!
移動の第一波で5000年前に台湾から出た人たちが、なぜ中国大陸の方へ向かわずに、南東の島々へ移動したのかがちょっと気になりました。(もしかしたら、中国大陸へ移動した人もいたのかもしれませんが・・)

投稿者 ごんた : 2011年3月29日 21:51

ポリネシアの人達は海流に逆らって、他の島に移動していたのですね。たまたま流れついたと思っていました。意思があったのですね。
木の実が流されてきた方向に島がある。なるほど!
彼らの生活の映像が飛び込んでくる、リアリティのある記事、ありがとうございました。

投稿者 no-sin : 2011年3月30日 11:27

>tanoさん
海洋民の性質から考えると、日本へたどり着くとしたら、やはり漂着しかないと思います。そうなると、大量に人がやってきたのではなく、ごく少数の人がやってきたのではないでしょうか?
逆に、九州から沖縄そして台湾へ渡った可能性もあると思います。そして、戻ってきた人たちが、南洋の文化を携えて来たのかもしれませんね。

投稿者 jomon10 : 2011年3月30日 13:59

>かわかつさん
ありがとうございます。
どんどん使ってください!
HPも見させていただきました。
たくさん引用してくださり、ありがとうございます!!
引き続き、お互い追求して行きましょう!

投稿者 jomon10 : 2011年3月30日 14:02

>ごんたさん
そうですね。
もしかしたら、火山の噴火等から逃げる際、台湾の北に住んでいた人たちは中国や沖縄に逃げ、南に住んでいた人たちが、南洋へ逃げたのかもしれませんね。

投稿者 jomon10 : 2011年3月30日 14:05

>no-sinさん
ありがとうございます。
なんで?なんで?と追って行くと、次第に自分が南の島にいるような感覚になり、自分だったらどうするだろう?って思って、自分の知っている知識と照らしていったら、記事のような仮説にたどり着きました。
やっぱり、「なんで思考」大切ですね!

投稿者 jomon10 : 2011年3月30日 14:16

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