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2011年09月04日

縄文晩期はどのような時代か?(まとめ)

「縄文晩期とはどのような時代か」シリーズ
~はじめに~
1.寒冷化の危機が渡来文化への融和を促進
2.渡来民との融和的な共存がその後の舶来信仰、平和的外交の基礎に
3.縄文晩期は祭祀に彩られた、祭祀に可能性を求めた苦悩の時代
4.弥生への転換は戦争をともなったのか?~
第1回~第4回までこのテーマを追求してきましたが、いよいよまとめに入りたいと思います。縄文晩期とはどのような時代か?
この問題意識は縄文を学びながら私自身もずっと抱えていた疑問ではありました。歴史とはその前後の時代で必ず因果関係があります。後世の人が時代という区分を作っただけで、大きくは前の時代の文化や慣習が後の時代に色濃く残り、また新たな要素によってその先端部分が塗り替えられているのが歴史という流れを見ていく上で重要な視点だと思っています。
その上で縄文時代と弥生時代は教科書的にはこの境で大きく日本が生まれ変わり、縄文時代の歴史はともすれば文明以前の未開部族の歴史と理解されている向きもありました。今回のシリーズはそこに風穴を開ける試みとして縄文晩期を解明しようとしてきました。
今回このテーマを追求する中でいくつかの発見がありました。 😀
まずはそれを紹介しながら最後に縄文晩期を当ブログとして定義してみたいと思います。
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縄文時代に豊かさとは温暖帯落葉樹林が広がることで生まれた。
これまで縄文時代の樹林帯を照葉樹林、落葉樹林という大きな2区分で考えていましたが、落葉樹林帯は冷温帯落葉樹林と温暖帯落葉樹林に分かれ、その中でもクリやコナラといった栄養価が高く木の実が大きい樹林は温暖帯落葉樹に限定され、縄文時代はこの温暖帯落葉樹林がサケ漁獲が有る東日本全域に拡がる中で形成されてきたことがわかりました。
それは縄文時代中期にこの地域(東北、関東、中部)に人口の95%が居住していたという極端な数字の要因として頷ける部分でもあります。(但し、縄文時代の人口分布は実際にはここまで極端ではなく、照葉樹林帯にもその植帯に適応する部族が一定程度居住していた事が最近言われてきています。縄文時代人口統計に新説現る!~結果詳報
気づきとしてはこの温暖帯落葉樹林で覆われた国は世界でもそう多くなく、温度、降雨、河川などの環境が揃った日本列島特有の状況であった事が推察されます。また、縄文晩期の寒冷化によってこの温暖帯落葉樹林で覆われた地域がほぼ消滅した事は当時の縄文人の外圧の厳しさを示しておりまさに死活問題であった事が伺えます。
~詳しくは1.寒冷化の危機が渡来文化への融和を促進
■縄文晩期はかなり人が移動した
縄文晩期はこれまで人口減少にのみ注目してきましたが、細かく見ていくと東で(1/3から1/10と)減少しており、西で倍から13倍(四国)に増えている事がわかりました。(但し人口の設定は小山氏の遺跡を元にした人口設定)
この事は明らかに東から西へ人が移動している事を示しており、またこの移動がいかに難しいかについて以下のように言及しています。
東の縄文人は温暖帯落葉樹に生活する純粋な採取漁労民でしたが、西に移動する事で、採取漁労に加え栽培技術を獲得していく事が不可欠でした。照葉樹林帯は採取で得られる木の実の量が少なく、芋や雑穀といった栽培が縄文中期から既に定着していたのです。
移動した東の縄文人はそれらを西で既に定住していた集落に近づき学び、獲得していったものと思われます。この移動してその地に馴染み、融合するというスタイルは東の縄文人の移動によって形成されていきましたが、食料を変化させ、生活を変える事は現代人が考えるほど容易なものではなかったはずで、適応できたのはわずか少数で多くは適応できず、あるいは移動せずその地で集団の死を向かえたのだと思われます。
~詳しくは1.寒冷化の危機が渡来文化への融和を促進
■縄文晩期の渡来民は中国江南地方発であった。
これは縄文晩期に限らず、縄文時代通史としても言えます。「南から見た縄文」7~江南地方に縄文の源流を探る
縄文時代中期からポツポツと渡来していたのも江南地方からであり、古くは長江文明を追われたミャオ族が渡来、晩期にはほぼ弥生時代に入っていますが、中国の戦乱で押し出された呉越の難民が倭人として九州、出雲を玄関口として列島に流入しました。朝鮮半島を経由してこの時期に来たものもいますがこれも同じ倭人であり、出自は呉越である為、同じ文化、種族だったと見て取れます。
~詳しくは2.渡来民との融和的な共存がその後の舶来信仰、平和的外交の基礎に
■縄文晩期の渡来民とはなぜ融合したのか?
一番の理由は江南地方という中国の中でも最も辺境にあり戦乱の歴史が浅いという出自の問題もありますが、融合できたのは、彼らが支配層ではなく農民であり、船の移動故に少数で移動してきた事によります。また最も大きな理由としては縄文晩期の厳しい食糧事情ゆえ、縄文人自身も栽培へ可能性を見出し始めており、水田稲作の技術を携えた彼らを歓待する形で迎え入れたという部分が大きいでしょう。一方の渡来側の意識を考えても少数で命からがらという状況ゆえに、まずはあたらな地に馴染み、その地の文化を吸収していくという形をとらざるを得なかったと思われます。従って渡来民側と縄文人双方の課題が合致し、平和的な融合を遂げたものと思われるのです。
~詳しくは2.渡来民との融和的な共存がその後の舶来信仰、平和的外交の基礎に
■中国渡来民は朝鮮系渡来民より700年前に定着して日本人化している
日本は渡来民が作った文化であるとよく言われますが、それだけでは大雑把です。
縄文晩期の江南系渡来民と縄文人が弥生人の基層であり、古墳時代の朝鮮半島からの大量渡来はそれとは全く別物であるという認識が必要だと思います。江南人は朝鮮半島から来る700年前(約2800年前)から徐々に日本人と融和しており、土着民として最初に日本人化した民と言えます。反して朝鮮半島からの渡来民は積極的に日本人と融和したわけではなく、支配者として大衆とは別の層を形成したものと推察します。その結果が大和朝廷であり、奈良以降続く天皇制であるわけです。
~詳しくは2.渡来民との融和的な共存がその後の舶来信仰、平和的外交の基礎に
■銅鐸、銅剣文化が歴史の本流から消されたのは江南渡来民の作った歴史の抹殺である。
紀元前5世紀から既に青銅器文化が日本に渡来していますが、その起源は朝鮮半島ではなく、江南地方であることが判りました。これはシリーズの中で銅の分析結果を紹介して明らかになっています。江南人は銅剣、銅鐸を伝えますが、それが日本に入ることで武具から祭祀具に変わって行ったことも、面白い発見です。渡来民が決して縄文人を一方的に支配していなかった事を伺わせる事例だと思います。
また、銅剣が先に日本に漂着した呉の難民であり九州に拡大、銅鐸は約100年後に来た為、既に形成されていた呉の集落を避け出雲・畿内に定着しました。ここでも渡来民同志争う事なく住み分けていた事が判ります。
~詳しくは2.渡来民との融和的な共存がその後の舶来信仰、平和的外交の基礎に
■弥生時代の戦争は誰が行なったのか?
弥生時代の戦争は渡来民同志で行なっていた事が戦争を示す人骨などで明らかになっています。槍や矛が突き刺さったほとんどの人骨は弥生時代のものですが、その数は見つかっているものでは150体で、そのほとんどが北九州、出雲であり決して多くはありません。
おそらくは先住の江南人―縄文人の集落と後の朝鮮半島から来た後発隊との戦乱であったと思われます。
~詳しくは4.弥生への転換は戦争をともなったのか?~

以上縄文晩期を追求する中で見つけた気づきですが、最後にこのシリーズの答えである縄文晩期とはどのような時代だったのかについて言及しておきたいと思います。
(それを明らかにする上でこれらの気づきが役に立ちました。)
★★縄文晩期とは・・・

①世界的な寒冷化によって日本列島でも大きな気候外圧に見舞われた時代である。
ただ、ほとんどの地域が戦乱にあけくれたこの時代であっても、縄文人は食料を巡る争いをしておらず、生産スタイルをそれまでの採取漁労から栽培採取に変えることで西日本の照葉樹林帯で適応していった。従って縄文晩期とは稲作前夜の栽培文化の時代である。
②渡来民と縄文人の融合が行なわれた時代である。渡来民は主に呉越の難民であり、少数で農民が中心になって渡来し、稲作、青銅文化を伝え縄文人と共存した。渡来民と縄文人の混血は700年の間に進み、縄文的文化要素を組み込んだ日本型農耕文化の基礎が出来上がる。
③縄文晩期の青銅器文化の歴史はその後の支配者である朝鮮系によって消されているのではないか。銅鐸、銅剣文化が突如消えた3世紀までが縄文晩期の影響する時代であった。

縄文晩期の時代区分を上記から設定するとすれば寒冷化が始まった4000年前から朝鮮系渡来民が支配者として定住し始める1700年前までに拡大し、弥生時代はその中に組み込まれます。(歴史書では晩期は3200年前から2300年前と一般に言われている)
従って、縄文晩期を縄文時代と以降の私権時代の緩衝期、変動期として位置づけておきたいと思います。

投稿者 tano : 2011年09月04日 List  

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