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2021年11月26日

【縄文再考】大陸と縄文~縄文前期から列島と大陸は関わり合い、日本海を囲む文化圏があった

みなさんこんにちは!

今日は大陸と縄文について。

これまで縄文時代は列島内での交流はあるものの、ほとんどの期間は鎖国のような状態として分析されてきました。

大陸からの文化の流入が本格化したのは縄文晩期(約3000年前)といわれ、寒冷化により北方漢民族が長江に移動。玉突き的に長江江南人が日本にやってきて、稲作を伝播したと考えられています。

 

しかし、様々な装飾品や土器・道具などを観察すると、大陸と列島の交流はもっと古く、少なくとも縄文前期の約6000年前から始まっていると思われます。縄文文化は列島単独で成立していたのではなく、大陸文化との相互作用があったのです。

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約6000年前に、中国の耳飾りが列島で拡散

例えば、約7000年前の中国東北部の耳飾りが、約6,000年前に日本列島に拡散している。

Cの形をしたケツ状耳飾は、7000年前に中国東北部の興隆窪(こうりゅうわ)文化と呼ばれる遺跡のうちの一つ、査海遺跡の墓地から見つかっている。そして、同じような耳飾りが、約6,000年前に福井県金津町の桑野遺跡で出土している。さらに、桑野遺跡だけでなく、類似したケツ状耳飾は、福井県鳥浜貝塚をはじめ、新潟県清水上遺跡、京都府浦入遺跡など日本海側の遺跡を中心に、日本全国に分布している。

つまり、中国東北部→日本列島という文化の流れが、縄文前期にあったのです(さらに、中国東北部→長江流域という文化の流れもありました)。

 

刻文がついた孔のある石斧

・山形県羽黒町中川代遺跡から、縄文中期の土器と共に磨製石斧が出土している。これが大陸から渡来した玉鉞(えつ)の一種なのかどうか、未だ結論は出ていない。

文字は甲骨文ではないが、鉞形は王の意味で、上の孔は白、つまり記号も皇を表わしていて、腰に用したもの。孔の開け方は中国風に両面から開けている」とのこと、と浅川利一は記述している。これは中国の支配階級が日本に逃れてきたのだろう。

左:山形県羽黒町中川代遺跡から、発見された縄文中期の磨製石斧

 

■三つの足がある「鬲(れき)」のような土器

・縄文文化の宝庫・青森県の今津遺跡、虚空蔵(こくうぞう)遺跡では、中国古代の 「鬲(れき)」に似た三足土器が出土している。

これらはいずれも、列島で作製された物で、いわゆる「亀ヶ岡文化」に拠るものです。

つまり、中国から直接もたらされた遺物ではなく、例えば左の写真のような原型が 渡来し、その形を模倣して作られたものと考えられます。

 

列島→朝鮮半島に伝わった隆起線文土器

大陸から列島だけでなく、列島から大陸へと文化が移動したケースもあります。日本列島の最初の土器が隆起線文土器であったのと同様、5,000年以上の年代格差があるにもかかわらず、朝鮮半島の新石器時代も、下写真のように同じく隆起線文土器で始まります。

国境のない時代とはいえ、7,000年前、朝鮮半島に現れた新石器文化の土器が、直ちに海峡を越えて対馬(上の写真の右)に渡っていたということは、列島と半島の交流がいかに深かったかということを示唆します。

 

いかがでしょうか?

まだまだ紹介し切れないものも多数あるのですが、日本人の源流である縄文人は、実は行動的で、新しい文化にも寛容的で、美に対する意識も高かった。

そして何よりも、縄文時代から、大陸と列島は文化的な相互作用があり、航路技術も一定程度発達していたのでしょう。

国境のない時代、閉じた縄文文化ではなく、日本海を囲む横断的な文化圏があったのです。

 

参考・引用:日本人の源流を探して

縄文人の ファッションを彩ったケツ状耳飾

大陸との交流の痕跡の数々

投稿者 ando-tai : 2021年11月26日 List  

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