2021年11月25日

2021年11月25日

縄文時代再考:縄文に稲作が無いのは、政治、徴税が無い=国家が無いから!

皆さん、こんにちは。

今回は、縄文時代の暮らしに迫る「稲作問題」

縄文時代に稲作が殆どないことは既に知られたことですが、ではなぜ縄文人は稲作をしなかったのでしょう?

今回その謎に迫ります。

稲作は国家により行われる

日本の徴税は、弥生時代に始まると言います。えつき(労役、兵役、絹、綿など)、税(たちから:穀物による物納)、調(みつぎ:穀物以外の物税)、役(えだち:労役)などと呼ばれました。つまり、穀物栽培は、施政者への納税として行われていた可能性が高いのです。

古代日本の稲作に関し、プラント・オパール(植物細胞に充填する非結晶含水珪酸体)やもみ殻などが遺物として発掘され、縄文時代に稲作があったかなかったか、などが盛んに研究されています。が、稲(米)を創る必然は、食用に限りません。年貢米と言われる通り、米は税として統治者へ納められました。

弥生時代に始まる闘い

弥生時代に入ると、人類同士の闘いが起こります。武力衝突から領民を守る代わりに、税を納めさせる。その税が米や労役であれば、弥生時代にあって縄文時代に無いのも理解できます。

そもそも、日本に稲の祖先型野生種が存在した痕跡は殆どありません。それが突然弥生時代に稲作が始まるのは、移住者によって伝搬したと考えるのが、自然です。弥生時代に渡来した人々。彼らが元居た大陸では、既に国家が成立しています。国家を作る目的は、人間同士の縄張り争いに対抗するため。政治や軍事を専業にする代わり食料を貢がせる。その経験の有る人たちが渡来して、日本の弥生時代は始まりました。反対に、縄文時代は同類同士の衝突がない。このことは人骨の外傷の無さで明らかです。

近年、縄文時代前期の遺跡から複数のイネ科植物の遺骸であるプラント・オパールが出土しています。鹿児島県で12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出され、稲作起源地の中国長江流域よりも古いと話題になりました。しかし、僅かに出土した遺骸から、即座に稲作があったとするのは困難です。プラントオパールはあまりに小さく、地層内や土中への混入も風雨で可能でしょうし、他所から持ち込む人も少数なら居たかも知れません。

縄文人は自然サイクルで暮らす

前回ご紹介したように、縄文人は、洞窟から抜け出し平地に竪穴式住居を建て次第に定住化します。食料は、自然のサイクルに支えられ豊かで人口も増え始めます。集団で生きることは、何かと心強く、女性を中心に定住化。集団内の役割も次第に高度化してリーダーも置くようになったでしょう。しかし、自発的に集団化した人々は、税ではなく共に狩猟や採集、一部栽培などを行ったと容易に想像できます。

縄文時代の社会には、や国家が無い。日本史でも王、神などは割と古く登場します。天照大神、女王卑弥呼、漢委奴国王など。しかし、こうした王や神は、本当に日本人が自発的に創ったものなのでしょうか。よく言われる八百万の神。万物に神が宿るー。人の形をした王や神は、「万物」というのとは異なります。例えば天皇は、人でありながら元を質せば神であり、その血統を繋ぐことが今でも重要視されています。同じ人間であって違うはずはない、と、頭ではわかっていても、何やら畏れ多いとして特別視してしまうのは、日本人であれば普通に感じること。

しかし、人類史では、王や神は、古代人の創造であって自然に登場するものではありません。王のそばには神官が居て、この王は神の化身などと箔付けをして人々に認めさせます。敬うべき存在が自ら田植えなどするはずもなく、神への貢ぎ物として進んで農作業を行うよう諭されます。

一方縄文時代は、自発的な社会です。精霊信仰は万物にそれを認め、同じ人間に上下関係があるなど思いもしません。贈り物は有っても貢物や税は無い。同類同士の争いも無く、従って国家もない。それが縄文時代。なので、稲作が行われることは無かったと言えるでしょう。

投稿者 sai-yu : 2021年11月25日  



 
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