2023.01.31
縄文人の意識に迫る~人口増大、どうする縄文人~
縄文時代を調べてみると、代表的な道具である土器や土偶が、中期になるとすごく凝った形になったり、豊かな表現のものが多くなります。また、住居の範囲が大きくなって、その真ん中に祭祀の場といわれるものができたりします。
この道具が派手になったり、祭祀の場ができるのは、縄文人の考えていることをつかむ上で、とっても重要なんじゃないかと思いました。
調べてみると、中期には今よりも温暖化して、人口が増大したようだということがわかりました。でも後期や晩期には人口は減少し、土器や土偶も派手さが失われていきます。縄文人にどんな意識の変化があったのか、調べてみたいと思いました。
そこで、まずは縄文時代に人口が増えたと言われているけど、どうやって数えたんだろう?と思い、計算の仕方を調べてみました!
細かい計算は省略すると、計算式はこういう感じです。これを、ある地域(東北~九州)、時期ごとの遺跡のすべてに適用して割り出しているようです。
竪穴住居跡の数×一住居当たり居住人数
時期は、遺跡の土器や木材に含まれる炭素の同位体を調べると、数十年単位の細かい年代までわかるそうです!(*_*)
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たしかに、これなら見つかっている遺跡の住民の数は大体分かりますが、まだ発見されてない遺跡の人口数はどうするのでしょうか?見つかっていない遺跡もたくさんあるだろうに、全体の人口数をどうやって出したんだろうと思い、更に調べてみました!
調べてみると、小山修三さんという人の論文を見つけました。
遺跡は、全体が発掘されているとは限らないので、
人口増加率、人口移入出率、遺跡が見つかった土地の特性や面積の条件を加味した計算モデルを作って、ある一定のエリアごとに人数を計算
→その後の弥生や奈良時代の人口と整合するような人口規模に調整して割り出しているみたいです。ここはまだよくわからないところがあるので、また調べて発表します♪
そして人口推計の結果はこんな感じになるそうです。
画像はこちらからお借りしました。
けっこう地道な調査と計算をされて人口を推定していることがわかりました!計算式がどれだけ正確な数値を割り出せるかはありますが、一定の方法で割り出すと、少なくとも縄文時代は中期にかけて人口が急増し、その後急減したということがわかります。
じゃあ、人口の増減はなんで起こったのか?
気候の温暖化と寒冷化が関係しているようですが、どうしてそうなるのか?次は、人口増減の原因構造に迫ります♪(^o^)
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posted by oga at : 2023年01月31日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2022.12.12
縄文土器~「縄」はいったい何を表しているのか?
火焔型土器に象徴される「縄文土器」。これら縄文土器の多くに表されている「縄」の文様は、いったい何を表しているのか。さまざまな説がありますが、ここに迫ってみたいと思います。
(大島直行氏『月と蛇と縄文人』を参考にさせていただいております)
画像はhttps://mag.japaaan.com/archives/164704/3からお借りしました。
民俗学者の吉野裕子氏は、神社の注連縄(しめなわ)が蛇の交尾している姿が象徴的に表されているとしています。
私は、これまでの人生で、実際に蛇が交尾している様子を見たことがありません。蛇は、ハブの場合、2匹(または3匹)がしっかりと絡み合って交尾するそうです。絵を見てみると、まさに注連縄とそっくりですね。(下絵は安田喜憲氏より)
吉野氏は、蛇の脱皮や冬眠が「不死」や「再生」を連想させること、さらに男性性器に似た形態に対して、縄文人が「生命の旺盛さ」を感じ取ったのだと考えています。そして、「蛇に対する思いは縄文時代に限ったことではなく、その後も表面から隠されながら命脈を保ちつづけ、地下水のように日本文化の諸相の底を縫って流れ、現代に及んでいる」と指摘しています。
そういえば、あの岡本太郎氏も、「縄文土器にふれて、わたしの血の中に力がふき起るのを覚えた。濶然と新しい伝統への視野がひらけ、我国の土壌の中にも掘り下げるべき文化の層が深みにひそんでいることを知ったのである。民族に対してのみではない。人間性への根源的な感動であり、信頼感であった」と述べています。
ルーマニアに生まれた20世紀最大の宗教学者であるミルチャ・エリアーデ氏も、吉野氏とほぼ同様の見解を持っています。加えて、蛇は女性が身ごもるための水、すなわち精液を「月」から運んでくるのだと考えました。
(「月」に対して縄文人はどのように捉えていたのかについては、とても興味があります。今後も追求していきたいと思っています)
これらのことから、縄文人は「不死」「再生」の象徴である蛇を崇めており、きつく絡み合う蛇の交尾の様子を「縄」で模倣し、土器の表面に「縄文」として表現したものと推測されます。
大島氏は、「縄文土器に長きにわたって『縄文』が描かれ続けたのは、縄文人にとって不死や再生が重要な観念として確立されていたからでしょう。それをシンボライズするものとして選ばれたのが蛇だったのです。そして、縄の撚り(より)によってレトリックされたのです」と結論づけられています。
現代の日本では、「蛇」と聞くと何か「怖いもの」というイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。縄文時代は、産まれて間もなく死んでしまうことも多かった時代。病魔との闘いの中で生命力を求める思いを、現代とは比べようもないぐらい強烈に感じていたのでしょうね。
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posted by kita-kei at : 2022年12月12日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2022.12.06
続縄文時代 フゴッペ洞窟に描かれた壁画の意味
北海道にあるフゴッペ洞窟は昭和25年(1950年)に発見され、
そこには人物や動物、船などを象徴したような原始的な模様が彫り刻まれていました。
これは続縄文時代後半に彫られたと推測されています。
当時壁画はなぜ書かれたのか、そしてこの壁画はなにを意味しているのかを解明していきたいと思います!
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posted by hanada at : 2022年12月06日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2022.11.28
縄文人が捉えていた太陽の規則性と数の概念!?
縄文時代の出土品として、土偶や土器などはよく取り上げられますが、他にも多くの遺跡が残されています。今回は、縄文人が理解していたと言われていている太陽の規則性や数について、調べていこうと思います。
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posted by anase at : 2022年11月28日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2022.11.18
古代日本の東北地方~蝦夷の有力豪族の出自に迫る
前回の「蝦夷(えみし)の歴史を探る」中で「他にも、有力な氏族がいたのではないか」というあたりが次のポイントだと考えていました。そこを切り口に追求してみました。
具体的には、安倍氏です。
>安倍氏は俘囚長(俘囚の中から大和朝廷の権力によって選出された有力者)であったとの説が広く流布している。ウィキペディア
俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、蝦夷征伐などの後、朝廷の支配に属するようになった者であり、説をそのまま受け取れば、蝦夷の中から出てきた有力な氏族です。
安倍氏は平安時代の陸奥国(後の陸中国)の豪族として知られていますが、出自はよくわかっていません。そこを追求してみたいと思います。
安倍貞任(あべのさだとう)
今回も、松本正剛の千夜千冊を参考にさせて頂きました。
北上幻想 いのちの母国をさがす旅
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posted by sawane at : 2022年11月18日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2022.11.18
縄文の埋葬~屈葬の意味とは?埋葬に込められた思いとは?~
縄文時代、亡くなった人を埋めて埋葬する、ということは、どうして行われるようになったのでしょうか?
魂が抜けるということ、仲間が動かなくなるということ、ずっと昔のご先祖様たちは、それらをどう受け入れ、見ていったのでしょう。
今回は、埋葬から、縄文人は自然をどう見ていたのかに迫っていきます!
●基本は『屈葬』。身体を曲げて胎児の姿勢に
縄文は約1万年間続いた時代。後期・弥生時代に入ってくると、全身を伸ばした状態(伸展葬)で埋葬する例も出てきますが、基本は「屈葬」でした。(屈葬の例は世界的にも中々なく、他の国ではアフリカの一部地域ぐらいにしか存在しないようです)
なぜ「屈葬」なのか。
これには「霊が浮遊しないよう動きにくい体制にするため」や、「安楽の姿勢=死後の世界でも安らかに眠れるように」、また「胎児の姿勢=再生の願い」など様々な仮説が立てられています。(ただ、“霊”や“死後の世界”という風に捉えていたかはまだ分からないポイント)
更に、身体を曲げるだけでなく、年代によっても少しずつ埋葬の仕方が変わっていたようです。
●「抱石葬」⇒石を抱かせて屈葬
先史時代の埋葬法の一種。先史時代の墓址(ぼし)から遺骸(いがい)を発掘した際に、その姿勢などから推定される葬法の一つで、座ったり、手足をかがめた遺骸の胸部のあたりに、人頭大ほどの石をあたかも抱かせたかのような状態で見出されるものをいいます。(コトバンクより引用)
●新生児は「土器」に入れて埋葬。「握りこぶし大の石」も入れる例もあり
当時の遺骸を見ると、大人より子どもの骨の方が圧倒的に多く見つかっています。
埋葬位置は住居跡に絡んで検出される場合が多く、主に土器に入れられているのは38週以上の新生児。38週以下の子(胎児)は、土壙などに埋葬されている例が多かったそうです。
また、埋葬時の儀礼であったのか、土器の中に、握りこぶし大の丸い石が1~2個含まれているものも見つけられています。
などなど、様々な特徴があることが見えてきました。
では、なぜ新生児は土器で、胎児は土に埋めるのか?なぜ石を傍に置くのか?
土器・土・石…それぞれに縄文人が見ていたエネルギー⇒込められた願いがあるように見えます。
例えば「抱石葬」。
なぜ石を抱かせるのか。
これは「子宮の中」を忠実に再現しようとしているのではないか、という仮説を立ててみました。石は「胎盤」。穴を掘った土は「子宮内」。また埋葬の際、下に赤い染料を付けるなどは「血」=生命。に見立て、命が宿る子宮を再現したのではないかと思うのです。
そしてそこ(子宮)に身体を「還す」。
現代人は「亡くなる」という事を、「終わり」「人生の終着点」という風に感じる事が多いですよね。
しかし縄文人にとっては、「死(=終わり)」という感覚も無く、生きている状態も死んでいる状態も、大きな流れの中の一つ。(腐った身体は土の栄養となり、植物がのび、動物が食べ…の循環)
縄文人は、自分たちの命や自然は「循環」しているものととらえ、死に際して「再生」を願ったのではないかと思います。
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2022.11.17
【縄文人の世界観】縄文人は世界をどうとらえていたのか?その自然観から迫る!
日本には誇れる文化が多々あります。
その中でも最も古く、すべての根底にあるのが、縄文文化です。
争いごとなく、1万年以上も続きました。
現代、自然に対する捉え方は、西洋と東洋では大きく異なります。東洋、なかでも日本人は、自然を自らと一体のものと捉えて、畏怖の念を抱いて日常の暮らしを営んでいます。その日本人の心の奥にあるものと、縄文人が自然のままに暮らしたその精神性に、通じるものがあります。
原始的だから自然に合わせて暮らしていたわけではありません。栽培や稲作の技術があっても、そこには手を出さなかったのです。縄文以前の始原人類には共通する自然観があります。それをいまに伝える未開部族の人々の言葉には、現代の人類がようやく到達した素粒子の世界やその背後にある宇宙の構造が語られています。科学認識が発達する以前から、感性で世界を解き明かしていたと考えられます。そのような認識をどのように獲得したのか。それがもし特殊能力だとしても、身体に大きな違いがない現代人に到達できないわけはありません。
自然と共生する文明を1万年にわたり築いた縄文人。その精神性に同化することができれば、感性に基づく科学認識とともに、現代において今後1万年にわたり持続可能な新しい暮らしのあり方が見つかるかもしれません。その最も近い位置にいるのが、縄文人の末裔である日本人ではないでしょうか。
日本人が世界に貢献し、人々の暮らしを永続的なものにする。その基盤を発見できれば、日本人が、充足に満ちた(もちろん戦争の無い)社会を先導できるのではないでしょうか。その可能性を切り拓いていくため、まずは縄文人の精神文化に同化すべく、その暮らしの実像にせまっていきます。
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posted by kumana at : 2022年11月17日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2022.11.12
環状列石から見る縄文の墓と祭り
みなさん、こんにちは!
これまで縄文~古墳、続縄文時代(リンク)と追求を深めていきましたがまだ縄文時代で触れていないとある「モノ」があるのです。これもまた縄文時代の墓制を語る上では必要なものです。
今回はそんな“環状列石”についてみなさんと追求していきます!
■環状列石とはなにか?
以下(リンク)より参照
縄文時代後期の前葉と晩期(いまからおそよ3,000~4,000年前)につくられた、石を海や川から運んで来て環状に巡らせた施設のこと。
環(円)の直径は30メートル前後から大きいもので50メートルを超える環状列石も存在し、形状も円形に近いものから隅が丸い方形に近いものがあるなど、遺跡ごとに特徴がある。祭祀や儀礼にかかわるモニュメントであったと考えられ、お墓が環状列石に組み込まれていたり、その周辺にポツン、ポツンとある場合なども多種多様。
数回にわたる調査を経て、石列は25×28メートルほどの円形で、直線状に延びている箇所があることがわかった。中央帯と呼ばれる部分はなく、二重の環でもなかったが、「環状列石の基本的な構造をとるのではないか」と考えられるようになった。その南東側には60ヵ所余りの配石墓があり、環状列石と配石墓の間には、モガリ(遺体の安置)を行なった場所だとか、倉庫といわれている掘立柱建物の跡もあり、秋田や青森の環状列石と比べて貧弱ではあるが、他の遺跡と構造上は同じ形態をとる。縄文時代後期初頭から前葉にかけての遺跡で、環状列石が太平洋側でも見つかったということでも注目を集めている。
■祭祀施設で何を祀っていたのか?
主には生死に関係することだと考えられる。地面に穴が掘られて、そこから人骨が出土すれば、それはお墓であると確実にいえると思いますが、人骨が出土するケースは多くない。ただ、人骨が出土する事例もあるため、祭祀といっても、「葬送に関わることだろう」と思われる。それが大規模だった場合、その場所が集合墓地であり、もしくはいまでいう葬祭センター的な使われ方をしたのではないか、という見方となる。
モガリが何を意味していたかはわからないが、仮に掘立柱建物が一時的な遺体の安置場所であるならば、かなり手厚く、死者を敬う気持ちが多分にあったはず。墓地のそばに掘立柱建物があるということは、家族だけではなくて、その集落に暮らす人々のためでもあったのではないか、とイメージできる。
また(リンク)より
縄文時代の環状列石の中には墓地の不明瞭な例も存在する。とりわけ中部・関東の環状列石には墓地を伴わない例が少なくないことから、大野遺跡の土壙群の中に墓が含まれていた可能性を否定し、さらには大野の環状列石自体を特別視する考えがある。しかし、最近、中期中葉~末葉の環状集落が発掘された神奈川県川尻中村遺跡では、中央広場を中心にピット群、その外周に住居群が分布する明瞭な重環状構造が確認されるとともに、ピット群の内側からは中央広場を囲むように構築された環状列石が発見されている。
構築時期といい、環状集落と一体化した重環状構造といい、大野の「集落内環状列石」との相似性は明白であり、しかも列石の下部や内側からは土壙墓群の分布も確認されている。
では、中期後半には中部山地や関東西部の山寄りの地域に登場する墓地を伴う「集落内環状列石」の分布が、中期末葉以降、中部・関東では不明瞭になり、環状集落の中心域から外れた北東北においてかえってその伝統を受け継いだ「集落外環状列石」の分布がみられるようになるのは何故なのか。
■環状列石の建設と地域共同体
大野遺跡では、環状列石や直線状列石に使用された数百個近い円礫の多くは、径1メートルを超える大形礫を含めて遺跡の四十メートルほど下を流れる伊奈川から運び上げられたと考えられている。
直線的帯状配列の集落構成を特徴とする青森県三内丸山遺跡については、遺跡の広がりや出土遺物の多さなどから1500年にわたって継続した人口500人の「縄文都市」であったという説が「縄文文明」論とあわせて唱えられている。
しかし、当時の自然・経済条件を考慮に入れるならば、三内丸山は最大でも人口100人ほどの、しかも1500年にわたって「断続的に」継続した拠点的集落とみるのが妥当である。一集落への過度の人口集中は、資源の浪費や生活環境の汚染とも相俟って、集落そのものの存続を脅かす要因となるだけでしかない。そのシンボルともいえる高さ20メートルの「高層の神殿」同様、「縄文都市」は荒唐無稽のフィクションに過ぎない。
全体として200人、あるいはそれ以上の人々から構成されていたと考えられる「地域共同体」こそは環状列石の建設や儀礼を支えた主体であると同時に、父系外婚にもとづく通婚関係の基本単位でもある。
■環状列石を舞台にした祭り
ところで、環状列石の形成をめぐって認められた明瞭な結界の形成、区画の特別化についていえば、その主要な目的が住居群と中央広場―中央墓地、日常空間と非日常空間、生者の世界と死者の世界のさらなる截然とした区別にあり、またそのことによる中央広場の儀礼的性格の一層の強化にあった可能性はきわめて強い。
そうであれば、中央広場に墓地をもつ環状集落から「集落内環状列石」、さらには「集落外環状列石」の形成へと至る一連の動きこそは縄文社会をめぐる祖先祭祀の高次化の過程そのものにほかならず、とりわけ後期を中心とする大規模な「集落外環状列石」の形成は、縄文時代における祖先祭祀の一つの完成された姿、祖霊を祀るために歌舞・飲食し、神話・伝承を再現する最高のステージとして位置づけることが可能である。
大野遺跡では環状列石の周囲より縄文時代の醸造具とも太鼓ともいわれる人面装飾付き有孔鍔付土器(図9)や屋外埋設土器など、祭祀性を色濃く漂わせる遺構・遺物が発見されている。
さらに19号住居では岐阜県美濃地方の土器を用いた屋内埋甕(乳幼児甕棺)が検出され、通婚圏を超えた他地域からの女性婚入者―母親の存在をうきぼりにしている。しかし、環状列石を舞台にした祖先祭祀を考える上で特に注目されるのは、環状集落、「集落内環状列石」、「集落外環状列石」の3者に共通して認められる、中央墓地や列石を取り囲むように外縁部に特徴的な分布をみせる掘立柱建物群の存在である。
民俗例によれば、墓地という非日常的な空間にしばしば高倉が群集する背景には、クラが収納された穀霊を祀るための祭場でもあるという伝統的な観念が存在している。
縄文時代でも環状集落中央の広場は重要な祖先祭祀の場であり、葬送の場であったからこそ、その外縁に埋葬儀礼関連施設と並んで祖霊によって守護されるべきクラが建てられ、全体として重要な共同祭儀の場を形づくっていた可能性が強い。
縄文の聖域ともいうべきこうした小宇宙を貫く祖先崇拝にかかわる呪的原理の濃密な流れは、クラに収納された植物質食料などの豊饒の儀礼とも一体となって、かれらの社会の再生と豊饒を希求する祈りへと収斂されていったことであろう。
■環状列石と縄文式階層社会
従来、環状列石内には関連する集団の構成員すべてが平等に埋葬されると考えられてきた。しかし、大野遺跡の「集落内環状列石」を例にとれば、列石内に残された土壙墓の総数は多く見積もっても百基ほどであり、「地域共同体」の一時期の構成員数にも遠く及ばない。後期の大規模な「集落外環状列石」でも事情は同様であり、1集落という枠組を超えた埋葬行為が想定される西田遺跡の環状集落でも、確認された土壙墓だけでは該当する集団の構成員を数世代にわたって収容することは到底困難であることが指摘されている。
環状列石は単なる「集団墓」ではなく、すべての構成員が葬られることのない不平等な墓、階層的な性格を帯びた「特定集団墓」であったとみるのが妥当であり、しかもその萌芽は環状集落の中央墓地の中に見出される。
その産み出し役である「地域共同体」の互酬的な機能を思い起こすならば、こうした環状列石を舞台に執り行われた祭祀・儀礼の数々が個別化を進めつつあった集団構成員の系譜的な結び付きを強め、集落内外を取り巻く様々な矛盾を調整する重要な潤滑剤的役割をはたしたであろうことは想像に難くない。
しかし、すでに明らかなように、この高次化された共同祭祀施設は、祖先崇拝を中心とした集団全体の再生・豊饒を希求する場であると同時に、集団構成員の不平等な葬送の場でもあった。
いうまでもなくそれは矛盾であり、このような複雑かつ錯綜した状況の中にこそ、階層社会の成立に向けて大きく舵を切ったこの時代を象徴する、まさしく記念碑的な存在としての環状列石の本来の性格は刻印されていたということができる。
とりわけ季節を選んで行われる祖先崇拝を中心とした祭祀・儀礼は、かれらの威信を広く誇示する絶好の機会であり、列石の外縁に設けられたクラの収納物に対するかれらの管理・運営権がそうした威信をさらに際立たせ、具体的な力を付与していったことは疑いない。
引用以上
これら2つに共通する点として、環状列石は墓であり、祭場でもあったということ。そしてこれまで歴史の教科書では「倉庫」として書かれていた高倉は配置状況から鑑みてもただの備蓄庫ではなく、穀霊を祀るための祭場であったと考えられること。そこから考えられる墓制は古墳時代へと続く階層性を持った特定集団墓の現れだということである。
posted by yanagi at : 2022年11月12日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2022.11.05
アイヌの伝統民家「チセ」から縄文の住まいを考察する
縄文時代以降も稲作を始めることなく、長く縄文気質が残っていた北海道。
続縄文・擦文・アイヌ文化と脈々と受け継がれ、明治直前まで縄文気質が残る地域もありました。
縄文時代まで遡ると“跡”しか残っていない縄文文化もアイヌ文化を通じて、確からしいものが見えてきそう。
そこで今回はアイヌ文化の家である「チセ」の特徴や作り方を見ていくことで、縄文時代の生活や竪穴式住居のつくりがどうなっていたかのヒントを探ります。
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posted by suga-masa at : 2022年11月05日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2022.10.29
竪穴式住居、高床式住居のルーツをたどる
縄文時代に存在した「竪穴式住居」と「高床式住居」の2つの建築様式について。
これらの建築様式はどこからやってきたのでしょうか。
縄文時代と同時期だと考えられる遺跡、あるいは現在の生活様式からの仮説から
関係性を探ってみました。
■西アジアの竪穴式住居らしきもの
西アジアでは1万2500年前ころから定住をした竪穴住居のようなものが見つかっている。
>生活の基本は旧石器時代以来の採集狩猟だから、そのような人々は定住的採集狩猟民ということになる。かれらの文化をナトゥーフ文化という。家屋は円形の竪穴住居で、石の壁や貯蔵穴をもっていた。遺跡から出土する遺物は、後の新石器時代を彷彿とさせるものが多い。たとえば、穀物収穫用の石鎌や、製粉具である石皿、石鉢、石杵が大量に見つかる。(リンク)<
西北シリアにあるデデリエ洞窟から当時の竪穴住居の構成がうかがえる。
>当時の家の仕組みがわかる稀有な遺跡の一つである。4m×2.5mほどの範囲の地面を深さ70cmほど掘りくぼめ、内側に石灰岩をつみあげてあった。壁の内側には木材が横にはりめぐらされ、床には木材が部屋の中央に向かって放射状に何本か落ちていた。木材でくみ上げた屋根が作られていたのである。(リンク)<
またナトゥーフ文化が栄えた時期は前12700年(14700年前)に温暖期が始まり、急激に気温が上昇したころ、その後のヤンガードリアス期(寒の戻り)には遺跡が減少しているため、遊動民に戻ったともいわれている。
■高床式住居の分布
高床式住居は中国南部、東南アジアなどの熱帯地域や、シベリア、北アメリカ、南アメリカなどにみられる。
亜熱帯地域では床面が地面、水面から離れているため大雨による洪水被害を避け、シベリア地方では、暖房の熱で溶けた床下の永久凍土による建物の傾きを軽減するなどの働きがあるとされている。
東南アジアに着目すると当時約三〇〇の民族名がある中で、民家の共通項のうちで最大のものは高床の居住様式にあると言われている。
ただし民族によって住み方は違う。
>ボントック族は伝統的に地床(土間)居住をおこなう。高床住居の下で日常生活をおくり、けっして高床のうえに住もうとはしないのである。(毎年一回だけ米の収穫後、各家では高床上にしつらえられた炉に火をおこして供犠のためのニワトリを調理する)
ボントック族に接して居住地をもつイフガオ族は本来の高床居住をおこなう民族であり、住居とおなじ構造をした建物に穀倉がある。実際イフガオ族では住居よりも穀倉の方にいっそう重要性があるようだ。(穀倉には穀霊をかたどった木彫がおかれていたり、穀倉は富裕なものだけしか所有していなかったり)
登呂や山木の遺跡から発掘された板校倉式の高倉の建築細部は、精度の高い加工をうけていた。また、銅鐸や土器片にのこされている建築画もほとんどは高倉を描いたものであり、穀倉が技術的な完成度の点でも、また社会的な機能のうえでも、社会集団の中心的な施設であったことがわかる。(リンク)<
北(西アジア)からのルート、南(東南アジア)からのルートと建築様式の伝播は
複数のルートがある中で、集団の生活で定住を始めた竪穴式住居、身分・儀式・保存のための高床式住居と、派生した地域の機能も継承して日本国内に伝搬したかもしれません。
posted by hanada at : 2022年10月29日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList