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2009年02月21日

マリタ遺跡~極寒のシベリアで暮らすモンゴロイドの暮らしとは

寒冷地適応した北方モンゴロイドの暮らしぶりはどのようなものだったのでしょうか?
今日はその暮らしぶりについて、もう少し詳しく見てみたいと思います。
まずは当時のシベリアの状況のおさらいをしておきましょう。
>コケを食みながらトナカイが移動する荒涼とした極北のツンドラ地帯、ダフリアカラマツの森林が打ち重なるように続く東・中部シベリアのタイガ地帯、みずみずしい草原が盆地から山の頂にまで延々と展開する南部シベリアのステップ地帯、大小無数の沼沢が広がる西シベリア地帯、モンスーンの影響を受ける極東の針広混交林地帯など、およそ北緯50~75度、東経60~170度に広がるシベリアは、様々な顔を見せている。<(「マリタ遺跡からのメッセージ」より)
特に注目すべきは南部シベリアのステップ地帯。
今とは違って広大な草原地帯だったようです。
このようなシベリアを舞台に、どのような暮らしを展開していたのか見て行くことにします。
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シベリアにおける先史モンゴロイドを語る遺跡として有名なものに、「マリタ遺跡」があります。
■マリタ遺跡とは
マリタとは、シベリアの古都イルクーツクからシベリア鉄道でモスクワに向かって約1時間半のところにある、小さな農村の名前である。
最初に1928年に農民が川岸近くの地中から大量の骨を発見し、以来人類学者ゲラシモフによる調査が開始され、その後1958年までの間組織的な調査が進められてきた。
ここからは人骨のみならず、遺品や当時の生活の痕跡が詳細に保存されていた為、マリタ人の暮らしをかなり具体的に復元できる。
■住居

「調査区は大きく東と西に分けられるが、仮に東をA地区、西をB地区と呼ぶ。
AB両地区で住居址」と「ゴミ捨て場」とが計20ヶ所発掘され、出土状況の分析から「住居址」は少なくともA・B両地区でそれぞれ7軒を数えることができる。大きな板石や動物の牙・角・骨が集積して発見される。
(中略)
住居址は一般的には、深さ50~70㎝に床面を掘り込まれた竪穴式・半地下式の構造を示す。
(中略)
大量の板石やトナカイの角を住居の屋根材、恐らくはマンモスの毛皮製のテントを押さえるための重石として役割を果たしたと考える。ちなみに、短軸に沿う長さ1.5~2mのマンモスの牙は、構造物全体を補強するためのものと見られている。床面には、三個の炉跡が確認されている。シベリアの厳しい寒さを配慮した防寒用の構造になっていることがよく理解できよう。

「マリタ遺跡からのメッセージ」より)
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住居は住居跡とごみ集積場に分けられ、住居自体はマンモスなどの動物の骨などを利用して壁の補強に使ったり、屋根の重しに利用したりしています。
驚くべきはこの時すでに『暖炉』の跡が発見されているということですね。
すでに住居にあっても極寒の地で対応できる防寒対策が施されていたということです。
■衣服は着ていたのだろうか
これはマリタの近くのブレチ遺跡から発見されたマンモス牙製の女性像から想像が出来る。この女性像によると、すでに衣服の着用があったようだ。
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■道具はどのようなものを使っていたのか。
マリタ遺跡の住居跡から発見されたものには以下の様な物があります。

重要な遺物の殆どが、壁付近で発見され、しかも炉の左右でその構成が異なるという。右側には石刃、チョッパー、ヒスイ片、骨製の短剣、未完成の尖頭器(鑓先につける石器など)、薄いマンモスの牙の破片、マンモス牙製の鳥像(アピ科の鳥やハクチョウ)が、左側には、マンモス牙製のピーズ、方解石製のペンダント、二本のジグザグ模様のあるマンモス牙製のボタン、骨針、石錘、掻器、ナイフ、そしてマンモス牙製の女性小像があり、男女の領域が区別されていたと考えている。

これらの小物、装飾品を作る技術はどのようにして出来たのか。それは道具としての石器の発達に直結しています。シベリアにおける旧石器時代の内、マリタ遺跡は第6期以降に当たる。

極北に人類が達するのは、次の第七期、石刃技法の小型化という流れの中で成立した「細石刃石器群」(文化)の段階である。即ち、長さ3~5㎝、幅1㎝程のカミソリの刃のような細石刃を、骨や角でできた植刃器の溝に埋め込み、鋭い槍(尖頭器)やナイフとする「組み合わせ道具」が登場した画期的な段階であり、人類が、シベリアを「征服」した記念すべき段階である。

本格的な住居や毛皮製の防寒衣は、極地に向かう人類が酷寒シベリアに生活するための必需品であり、もっとも重要な装備の一つであったことは間違いない。炉付き寒帯適応住居の出現、そして衣服を作るための掻器や縫製用の骨針、そして留め金具(石製のボタンなど)の確かな登場は、いずれも第六期のマリタ文化の段階である。しかしそれもこれも、豊かな動物資源があってのことで、生活資源の大量捕獲は、道具素材の軽量・小型化と尖頭器(鑓先)の普及、即ち石器の効率的生産と狩猟用具の改良・発展に導かれたものである。とりわけ「植刃尖頭器」の考案は、技術改良の究極にある。小さなパーツ(細石刃)から大きな道具を作るという画期的な発想が結実し、またたくまに普及したことが、極地への進出に大きく貢献したことは疑いない。別の視点から見ると、後期旧石器時代になって続く石器の小型化が、石材の入手・運搬を容易ならしめ、極地への拡散を加速させる役割を果たしたことは大いに推測できる。

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石器の発達(=小型化、いろいろな用途への分化)によって、寒さをしのぐ『住居』『暖炉』『衣服』と、その装備の材料及び食糧となる獲物をとる戦闘力を確保していた北方モンゴロイドの様子がよく分かりますね。
最後にもう一つ、シベリアを征服したモンゴロイド(マリタ人)たちの生活を復元した記述を紹介して終わりにしたいと思います。

マリタ遺跡での生活は、四季を通して復元することができます。春~秋における住居づくり、狩り、山菜取り、オーカー(鉱物性の赤色顔料)の入手、死者の埋葬、そして冬季における毛皮用の北極ギツネの捕獲、炉のある住居内での石器作りなどです。分析の結果、北極ギツネ50体の他に、マンモス16体、ケサイ25体、ウマ2体、トナカイ589体、野牛5体、洞穴ライオン1体、クズリ4体などが数えられています。仮にすべてが食用に供されたとしたら、肉の量は92トンを越えます。北方原住民の平均的食肉消費量は1日600~700グラムといわれ、ムラの推定人口48~60人の7年分に相当します。実際の捕獲数は、その10倍以上と推定されています。

「日本人はるかな旅展:”マリタ村の生活カレンダー”」より)

投稿者 saah : 2009年02月21日 List  

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コメント

マリタ遺跡が2万3千年まえと言うのは怪しい事が判ってきました。
http://itannokodaisi.shisyou.com/img034_2.gif
によれば縄文人より分岐が遅い。
南米先住民と同じ時期に同じ場所に住んでいた可能性も高い。
2万3千年前と言えば氷河時代でも特に寒い時期に近い。
現代でさえ高度な文化を持たなければ生きていけない場所で人口を増やすことが出来たのか?
マンモスの牙で作られた像は実写的で古風ではない。
欧州で見つかった一万年前の女神像に似ている。
だから2万3千年ではなく1万3千年前と言うのが妥当ではないか?
なんて愚考します。

投稿者 missinglink : 2020年7月9日 09:10

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