| メイン |

2010年01月11日

素人の創造シリーズ6~現実を対象化する=思考する

%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E4%BA%BA.jpg%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E3%82%B5%E3%83%AB.jpg
現代を生きている私たちの多くは、私権時代に生まれ育ち、現実捨象の倒錯観念と自己正当化の欺瞞観念を当たり前のこととして教えられ身につけてしまっています。
その為、「思考する」「追及する」「創造する」という中身を取り違えて理解している場合が多いのではないかと、最近感じました。
改めて「思考する」とはどういうことなのか、るいネットからの紹介です。
いつものように応援お願いします。
Blog Ranking
にほんブログ村 歴史ブログへ

 にほんブログ村 歴史ブログへ


以下、るいネットより紹介です。
*********************************

【現実を対象化する=思考する】
○現実を対象化する=思考する=追求する(探索し、可能性収束=統合する)
☆近代風に、創造する、追求する、主張するという在り様そのものが、おかしいのでは?それ自体が近代パラダイムでは?
大切なのは、現実を対象化すること。それが、思考する(=探索し、可能性収束して統合する)ことの全てである。
%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BC%9A%E8%AD%B0.jpg
●サル・人類は、内在思念(本能・共認回路)で現実を対象化し、直ちに可能性収束=統合して、行動した。新たな状況や対象に対しても、誰かが行動し(先駆者)、それが有益なら周りが評価共認して皆にその行動が広まり、それに伴って規範が少しずつ塗り替えられていった。つまり、共認はあるが観念はなく、全てが行動の共認である。
●人類が観念機能を獲得して以降は、危機etc外界情報や行動の指示や評価etcに言葉が使われる様になるが、それら全ての行動は共認(役割規範etc)に基づいており、提案はあっても主張のし合い(=議論)など無い。
つまり、あくまでも行動(その為の思考=思念や提起)の共認であって、行動する前に思考内容を主張し合う事など殆どない。
●採取時代、同類闘争の緊張圧力が高まると、相手が何者か(敵か否か)の情報収集やその共認が重要になり、又、首長の判断に対して別の判断も(準首長クラスから)出る様になる。しかし、それらは全て実践判断を巡る議論である。
☆だが、その様な生き生きした実践思考に導かれてきた本源集団をことごとく解体し尽くした私権時代になると、共認の在り様が一変する。

【私権時代のゆがんだ思考(主張・説得・議論)】
●まず、対象化すべき=追求すべき現実世界は、私権(闘争と身分)社会であり、私権の追求が現実の唯一の追求課題となる。
●他方で、失われた本源充足を頭の中だけで取り戻し代償充足を得る為に、頭の中の本源価値を対象化した倒錯観念が作られ、人々は倒錯観念に強く収束すると共に、その倒錯観念がどんどん精練され、観念回路を覆い尽くしてゆく。
●私権追求に収束した現実の存在と、頭の中の倒錯観念に収束した非現実の意識とは、完全に分裂し断絶している。にも拘らず、倒錯観念で覆い尽くされた意識は、自分は(観念信仰の下に)統合されていると言い張る。しかし、しょせん倒錯観念は、失われた本源価値の代償充足でしかなく、その虚しさは消し様もないし、その現実との断絶は隠し様もない。
●ところが、この倒錯観念が人々を強く収束させた支配観念となった以上、現実の私権闘争や身分確保の為には、この倒錯観念を巧みに操って己の私益を正当化した方が有利である(私権時代初期の神権政治が、既にそれを象徴している)。かくして、主張や説得や議論が(統合階級を中心に)不可欠になる。
●つまり、私権闘争と倒錯観念が、現実や行動を捨象した観念思考を生み、更に主張や説得や議論を作り出したのである。
●近代が、私権闘争をより自由に解放した時代であり、従ってますます観念思考や自己主張や議論をはびこらせていった時代であったことは、云うまでもない。(但し、本源価値に立脚していた倒錯観念は、自我・性闘争に立脚した欺瞞観念に換骨奪胎されて終う。)
∴私権時代(特に近代)の主張や議論とは、欺瞞共認を形成する(事によって私権闘争で優位に立つ)為の様式にすぎない!
%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AB%E5%BC%B7%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%82%8B%E6%9C%AC.jpg%E8%AA%AC%E5%BE%97%E3%81%99%E3%82%8B%E6%8A%80%E8%A1%93.jpg
%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E5%A4%A7%E4%BC%9A.jpg
●そして’70年、貧困が消滅して私権が衰弱し始めるや否や、欺瞞観念(恋愛、自由、個人、民主)は一気に輝きを失い、私権の衰弱が誰の目にも明らかになった’90年以降、もはや「一流」作家の言葉さえ、虚しいだけである。ましてや、会議室での素人の(観念思考の産物たる)言葉など、見向きもされないのは当然である。
注:自我闘争で優位に立つ為⇒欺瞞共認を形成する為の自由な議論の象徴(行き着いた必然)が、2ちゃんねるである。

************************************
現実を捨象することではなく、現実を対象化することこそが、「思考」「追及」することなのですね。

投稿者 saah : 2010年01月11日 List  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2010/01/994.html/trackback

コメント

たしかに縄文人の気質や意識も自分の色眼鏡で見ていて、なんとなく捉えている感じがしました。
>「他力からいただいたものが仕事をしてくださる。それから見たら自分の見る世界など、たしかに小さなものだと思いました」
周りにどんどん同化していくと、最後はこんな境地に至るのだろう。僕も縄文人になったつもりで記事を待っています!?

投稿者 Hiroshi : 2010年3月28日 02:49

こんにちは
わたしも自分のシリーズで「縄文体質」を意識しながら、私権文化の導入の際にも生かされている、そんな視点を含んで「王権の生産」を投稿しています。
一万年かけて構築されたものが、2000年くらいで根こそぎ無くなる、それはむしろ不可能なことだと感じています。
頑張ってください。

投稿者 milktea : 2010年3月28日 06:53

hiroshiさんコメントありがとうございます。
一番いいところをPICKUPしていただき、さすがですね。
>>「他力からいただいたものが仕事をしてくださる。それから見たら自分の見る世界など、たしかに小さなものだと思いました」
本当にこの境地で仕事をできている時が一番すばらしい状態です。大きな周りの力が自分を突き動かし、その勢いで大きな仕事ができる。まさに生かされているとはこういう事で、仏教が日本に導入されて登場した他力という力の本質です。
棟方氏は青森県出身の彫刻家です。まさに縄文人の末裔です。私は今、非常にこの方に注目していて先日は本まで購入しました。
まだ読み進めているのですがこの棟方氏を作ったのはこの時代の空気と強くて優しい母親の存在だったようです。
そのうちるいネットやこのブログでもUPしていきます。
このシリーズと併せてご期待ください。

投稿者 tano : 2010年3月28日 11:59

milkteaさん
いつもコメントありがとうございます。
>一万年かけて構築されたものが、2000年くらいで根こそぎ無くなる、それはむしろ不可能なことだと感じています。
これ大事な視点です。
さらに言えば縄文時代の自然体系をベースにした各種認識体系の構築とは1万年のもっともっと前、人類500万年の歴史から脈々と受け継がれてきた人類の認識手法を最大限進めてきたものだと思っています。だから縄文を解明することが、日本人だけでなく人類の根本意識を解明する事に繋がると考えています。

投稿者 tano : 2010年3月28日 12:05

>いきなりですが、縄文体質って何だと思いますか?
没個性。
国母選手を見ての日本人の大半は、国家の恥、腹を斬れ、
彼に関係するすべての人間も恥とするような雰囲気が
ありました。
全体の一部に過ぎない個が際立つを極端に嫌う
体質は、縄文から受け継いだのでしょうか?
だからあれだけの長期間、ひとつの時代が
継続したとしか思えません。

投稿者 スバール : 2010年3月29日 23:07

没個性!
ある意味当たっていますね。
むしろ個性という概念すらなかったのが縄文人の感覚ではないでしょうか?個性的とか個性豊かなどと評価されだしたのはほんのこの100年くらいですから。
そう言えば養老先生が仰っていました。現代の様々な問題は個人主義ー個性教育が誤りだった事に起因する。人は生まれたときはそもそも個別性があり、後からいかに後天的に回りに合わせていくかという個性を消していく方向に能力を伸ばす。
だから人間が集団動物として生きていくのは後天的な能力であり、個性が少ないというのは裏返せばより集団として生きている証ではないかとも思うのです。
全体の一部に過ぎない個が際立つを極端に嫌う
体質は、縄文から受け継いだのでしょうか?
⇒たぶんそうだと思います。極端に嫌うというより全体の一部になる事になんら抵抗がなかったという辺りだと思います。

投稿者 tano : 2010年3月30日 02:16

tanoさん
>むしろ個性という概念すらなかったのが縄文人の感覚ではないでしょうか?
縄文時には、個性を、色を出そうとする個に対し、集団リンチや一族郎党虐殺があったんだろと考えます。
掟に(全体の和)に縛られながらの表面的に穏やかな
時代=縄文だと認識しています。
そしてその感性は、今の日本に確実に受け継がれてますね。
いじめがなくならいのは、日本人は集団リンチを好む
民族性があるからだと考えます。
僕はこうかんがえます。アジア各国が、鬼畜日本と
揶揄するもの正解。戦時、集団で虐殺したのは
事実でしょうから。縄文感性ともいえます。
逆に、世界で一番おだやかで感性に満ちた民族とも
いわれるのも、縄文感性といえると考えます。
日本=極端=美しい感性に、凶暴な毒あり。
世界からみて、日本は不可思議に映ることでしょう。

投稿者 スバール : 2010年3月31日 23:11

スバールさんありがとうございます。
>日本=極端=美しい感性に、凶暴な毒あり。
確かにこの部分は説得力がありますね。
つまり集団性や共認力だけでは正しい方向に向かっているかどうかはわからないという事です。
むしろ誤った共認に向かった時のマイナスは計り知れない。
マスコミにいとも簡単におどらされ誤った情報を妄信している現代の日本人はその事例のひとつかもしれません。
これからの日本人である私たちはこの負の部分も心してのぞまなければいけないと思います。

投稿者 tano : 2010年4月1日 00:26

tanoさん
>これからの日本人である私たちはこの負の部分も心してのぞまなければいけないと思います。
以前、日本人は闘えるのか?とゆう議題でも
書きこんだ記憶がありますが、伝統・風習・仲間意識に
囚われた、自立できない日本に未来はないと考えます。
村社会構造の幼稚な日本人は、洗練された戦闘他民族に
手も足もでない時代となると考えます。
渡来人が縄文を破壊し、欧米が潰滅してきた日本、
これはもう、天の恩寵、日本の自立のチャンスと
捉えていますが、未だにおこちゃま体質(集団で傷のなめ合い根性)が抜けません。
残念ながら、日本人がチベット人状態となるのは
時間の問題だと考えます。

投稿者 スバール : 2010年4月6日 22:08

スバールさんコメントありがとうございます。
今回のスバールさんのコメントには返信が難しいのですが、プラス側のコメントではない事はわかります。かといって批判でもない。どちらかというと自分は別の位置にいて外から眺めているという感じでしょうか?悲しいかな自虐的という感じです。
>伝統・風習・仲間意識に囚われた、自立できない日本に未来はないと考えます。村社会構造の幼稚な日本人は、洗練された戦闘他民族に手も足もでない時代となると考えます。
>残念ながら、日本人がチベット人状態となるのは
時間の問題だと考えます。
だからどうするか?という事が問われています。
そして変化の芽は本当にないのかという検証が求められています。
その前に、スバールさんが言う時間の問題というのはどのような事実根拠からなのでしょうか?アメリカにいいようにやられてきた戦後の数十年がそれを物語っているのでしょうが、今のままではダメで、何とか変化をしていこうという機運は始まっていると思います。民主党はかんばしくありませんが、自民党を見限った日本民族はそれを求めました。
後は人にまかせるのか、自分達で作り出していくのか、批判だけでは一歩も前に進まない事だけはこの十数年間のマスコミの姿勢を見ても明らかだと思います。
スバールさんが批判する側から何かを作り出していく側に回っていただける事を期待しています。
批判でないように書いたつもりですが気に障ったらごめんなさい。

投稿者 tano : 2010年4月7日 21:15

tanoさん
ご迷惑おかけしたようで、失礼しました。
当ブログの趣旨に適っていないようですから、
もう書きこむことはないですが、色んな
考えに触れ勉強になりました。
ありがとうございました。
返事は結構です。(_ _)

投稿者 スバール : 2010年4月15日 23:07

コメントしてください

*