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2020年07月16日

空海は縄文である~”無垢の知”でもっていかに生きるべきか

今回は空海の事を書いてみたい。空海は縄文であるとはよく言われるが、その根拠は様々ある。

1番は祖先がエミシ(佐伯)であること。
2番目は自然の摂理に徹底的に同化している事
3番目が宇宙の体系を人体に同一化させた事

 彼が最も為した成果は「無垢の知」を探求した事であり、その精神世界である。
追求こそ原点であるとした空海の教えは現代でこそ逆に生き生きと蘇ってきている。
空海を書かれているブログはたくさんあるが、中でも縄文と空海に焦点を当てた下記の記事を紹介してみたい。
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/s.html

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 一方で空海は縄文ではないとする説もあり、渡来人で建てた天皇を中心とした公家集団に反旗を翻したとして揶揄する記事もあったが、それも含めて縄文ではないかなと思った。空海率いる密教が戦闘集団を作ったわけでもなく、高野山の山に縄文の拠点を立てただけである。

対立ともとれるがむしろ(縄文を)密教として残したのではないかと私には思える。高野山へ入山した後は弘法大使という最高の人格者としてその後800年以上その思想は影響を与えた。名だたる戦国武将が必ず高野山に墓を建てたのは武士が縄文由来であり、その精神世界が高野山にあるからではないだろうか?縄文ブログでは機会を見つけながらこの空海の持つ世界に同化していきたい。

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Ⅵ 空海密教誕生

 さて、縄文一万年の知から始まり、渡来文化によって激変を余儀なくされた日本列島は、渡来民と先住民との融和の課題を孕みながら、その世界観の秩序を模索しつつ、空海という時代の落とし子を生んだ。その空海の父方は佐伯、すなわち、エミシ(縄文の血をひくヒトビト)と関係のある家系であり、母方はその叔父(阿刀大足:あとのおおたり)が天皇の皇子の家庭教師を務める家柄であった。双方の気質の融和のもとに空海は生まれた。
その原質となる知をもって、空海の後の知も生まれることになる。

 若き日の空海が山岳修行によって悟った知、それは縄文一万年の知につながるものだが、その心境を記した空海の詩の一節がある。

 谷川の水一杯で、朝はいのちをつなぎ
山霞を吸い込み、夕には英気を養う。
たれさがったつる草と細長い草の葉で充分
いばらの葉の上に杉の皮を敷いた上がわたくしの寝床。
青空が恵みの天幕となって広がり
水の精が白いとばりをつらねて、自然をやさしくおおう。
野鳥が時おりやって来て、歌をさえずり
山猿は軽やかにはねて、その見事な芸を披露する。
春の花や秋の菊の花がほほえみかけ
明けがたの月や朝の風がわたくしのこころを清々しくする。
自分のからだと言葉と思考のすべての知のはたらきが
清らかな自然の道理と一体となって存在している。
今、一欠けらの香を焚き、立ち昇る煙りを見つめ
真理の言葉を一口唱えると
それだけのことで、わたくしのこころは充たされる。
そこに生きていることの悟りがある。

遍照発揮性霊集「山中に何の楽(たのしみ)か有る」より

  このように若き日の空海は自然と共にあることだけで、生を楽しむことができた。そして、自然の秘める無尽蔵の知を感得していたこれ以上の知はない
その知と同質の知を説いたものが奈良の久米寺で空海が目にした『大日経』であったのだ。 この”無垢の知”でもっていかに生きるべきか、そのことを求めて、八〇四年五月に空海(三十一歳のとき)は満を持して唐の長安へと留学生(るがくしょう:期間二十年)として旅立った。
そこには、青竜寺の恵果(けいか:教理の始祖を龍樹とする密教第七祖。不空金剛*の弟子)が空海の来るのを久しく待っていたし、また、恵果に会うまえには醴泉寺(れいせんじ)のカシュミール出身の般若三蔵(はんにゃさんぞう)や中インド出身の牟尼室利三蔵(むにしりさんぞう)から、直接に梵語を学ぶ機会をもが用意されていた。(すでに『大日経』を久米寺で目にし、その説くところと同質の知を感得していた空海にとって、その感得したことをいかに表現し伝えるかを編みだしていた密教修法を実地に学ぶ目的があったのだ。それにはハードではあるが粛々と異国の密教伝授者の手順にしたがうことのできる語学能力が必要であった。空海は漢語に関しては中国の文化人以上に堪能であったが、その手順と教義をすぐに理解できるには梵語の習得が不可欠であったのだ。なにしろ、インドを本家とする密教の教義には梵語がそのまま多数、含まれていたのである)

  そのような、成るべくして生る、時の幸運とでもいうべきことが重なって、短期間で密教のことごとくを恵果から伝授された(八〇五年)空海はインド伝来の密教第八祖となって、師の遺言(空海に密教を伝授し終えた恵果はその年の十二月十五日世寿六十で入滅された)となった「空海よ、早く郷国に帰って国家をたてまつり、密教を天下に流布し蒼生(そうせい)の福を増せ。しからば四海泰(やす)く、万人楽しまん云々」の約束を果たすべく、留学期間を二年に短縮し、八〇六年十月に帰朝する。

  その後の活躍は史実にある通りである。
空海の知とは、日本列島に住む民族の融和を祈り、安泰を願うものであり、その安泰はすべての生物(空飛ぶ鳥・地を這う虫・水に泳ぐ魚・森に遊ぶ動物)にまで及ぶ広大無辺ものであった。 願いの理念は、八三二年八月二十二日初秋、空海五十九歳のとき、高野の山の自然道場で多くの弟子たちと共に満天の星の下、「世界の包括的なすがた<物質・生命・意識>」(胎蔵)とそのすがたを形成している「物質といのちをうごかしている知の原理」(金剛界)の一対のマンダラを示し、そのすべてのすがたとすがたのもたらす知のはたらきに感謝し、万の灯明と万の美しい花をささげて催された「高野山万燈会」の願文に詳しい。

 それらの世界の本質のなかで、すべてのいのちは親から生を受け継ぎ、住み場所を得、生きとし生けるものの相互扶助のはたらきと、そのはたらきにしたがういのちの知の原理によって生かされている。(そこに、すべてのいのちあるものの生活がある)

 万燈会はその後、千年以上つづけられている。

投稿者 tanog : 2020年07月16日 List  

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