新説「日本史」第4回~葛城・高句麗時代(大古墳時代とは何か) |
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2016年07月28日
新説「日本史」第5回~蘇我時代
6世紀半~7世紀半にかけて大和朝廷は最もその勢力を拡大するが、その中心に蘇我氏が君臨していた。
大和朝廷は高句麗渡来への危機感から徐福の末裔である葛城氏が3世紀に全国より徐福系豪族を集結させて巻向(現在の桜井市)に造り、その後伽耶から渡来した物部氏、秦氏を取り込み、西日本を中心に巨大古墳を作り拡大してきた。
遠く離れた大和とはいえ、3世紀以降は常に朝鮮半島の戦乱の外圧を受けながら変動していく。古代日本の力学は朝鮮半島の戦乱とパラレルにあった。
朝鮮半島には超巨大な高句麗と弱小国百済、新羅の3国がせめぎあっていたが、6世紀に入り首都漢城を陥落されると、真先に百済が危なくなる。百済から王族が日本に拠点を求めて渡来してくる。後の藤原氏に繋がる流れである。
半島の情勢を察知していた葛城は落ち目の物部を切り捨て蘇我氏に乗り換える。蘇我氏の出自は未だ歴史書では明らかになっていないがおそらく高句麗出自。であるとすると、半島の高句麗勢力の拡大、日本侵略を恐れ、また百済支配を阻止すべく当時最も有能であった高句麗出自で既に倭人化していた蘇我氏を大和に呼び寄せたのではないかと思われる。物部同様に既に葛城氏も力を失っており、蘇我氏と組んで制度を国内に広げたのは当時最大勢力をもっていた秦氏の可能性が高い。
蘇我―秦氏が組んだ大和朝廷(飛鳥王朝)が継続すればその後の日本の歴史は大きく変わったに違いない。しかし、既に百済敗色が濃厚で大量の百済人の受け皿を狙った藤原勢力が蘇我から権力も大和朝廷が作った日本の歴史も丸ごと奪い取っていった。
蘇我氏が暗殺された645年の大化の改新(一巳の変)は百済支配の始まりであり、日本にとっては狂った歴史の始まりだった。
■呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
■徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
■葛城・物部時代(200年~450年)250年間
■葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
■蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間
高句麗由来の蘇我氏が仏教と政治手法で台頭する。587年に神道の物部を排除し、実権を取ると蘇我氏の時代が始まる。その政治手法の能力の高さは聖徳太子として書記で書かれるが、太子は実在せず実際には蘇我馬子がその後の奈良時代に繋がる律令の基礎を作った。
蘇我氏が突然登場し、その手腕をふるった事に違和感が出るが、背後で秦氏が支援していたと見ると整合する。
朝鮮半島ではこの頃、百済が攻め込まれ600年代に入ると百済王族が友好の印として王子を日本に送り込む。百済王子豊章がその後の中臣鎌足の名前を得る。
■藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間
■武士時代(900年~1860年) 960年間
■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間
飛鳥王朝と葛城、物部、蘇我氏が建てた連合政権だった。
>飛鳥王朝までは縄文―弥生の土着人との融合集団が支え共存した勢力とみる事ができる。一方、同じ飛鳥時代でも藤原王朝以降は、国を失った百済の渡来人集団が土着勢力を支配し乗り込んだ略奪集団であった。
この藤原一派が担ぎ上げたのが天皇家であり、自らは政治という実権を握りながら、既存集団を天皇家として奉りあげた。
飛鳥王朝の前後で変わった日本の歴史(1)
飛鳥王朝の前後で変わった日本の歴史(2)
蘇我氏は高句麗出自の根拠とは
>蘇我稲目の父親の名前が高麗(こま)ということが分かっています。高麗とは「日本書記」ではまさに高句麗を意味する言葉なのです。
蘇我満智や蘇我韓子などの名が「日本書紀」に出てきますが、彼らが蘇我稲目の先祖でないとしても、全く関係がなかったともいえないでしょう。満智(まち)とは、百済人によく見られる名前です。韓子は原日本人と韓人の混血のことを指して言う場合が多いようです。蘇我氏は、渡来系の集団のリーダーとして力を持ってきたということを思えば、当然、蘇我満智や蘇我韓子といわれた人たちとも、無関係であるはずがありません。蘇我氏の一員である聖徳太子の17条憲法を思い出してください。第一条は和の精神です。この和の精神に因って、出自の異なる渡来人をまとめて、力をつけてきたのが蘇我氏です。
以上は、名前を理由に高句麗から来たという説です。
蘇我氏の出自
蘇我氏が日本の国体を作った
>恵慈の来日後、蘇我・推古天皇のブレインとして恵慈による日本の国体形成作業が始まる。当時、国体を整えるということは中国から国土と王の身分が保証されることであった。したがって中国への使節と中国からの派遣使の受け入れなどが重要なテーマとなった。
また、独立国として重要な制度が官僚機構(冠位十二階)であり、王の家系であり国史であった。このため、恵慈と馬子は十七条の憲法を中国の梁にならってつくり、国王の家系として「帝記」をつくり、国史として「国記」をつくった。
それまでは「倭国」と称されていたが、新しい国の名前として以前大和地方の部族が使用していた「ひのもと」の呼び名をとり「日本(にほん)」と称するようになった。これにより倭国でもなく、ヤマト国でもなく、まったく新しい「日本」という国の誕生になった
蘇我氏による国体形成
突如やってきた百済人
>7世紀以来、千数百年にわたって日本の最高の名門貴族の座を手にした藤原氏とは何者なのだろう。藤原氏最大の謎は、日本で最も高貴な一族でありながら、未だにその出自がはっきりしていない、ということである。
疑問点として3点が挙がるという。
第一に、中臣(藤原)鎌足の登場(645年頃)まで、中臣氏の活躍がほとんど見られないこと。
第二に、その中臣(藤原)鎌足も、何の前触れも無く、唐突に歴史に登場する。しかも、正史・『記紀』にさえ、その父母の記載が確認できない。
第三に、中臣(藤原)鎌足の末裔・藤原氏はどういう理由か、常陸国(茨城県)の鹿嶋からやってきたと捉えていたと推定できる。正史・『日本書紀』の中で証明された正当性を、自ら疑ってかっかたのかが、証明できないという。
>百済王子・豊璋(ホウショウ)という人物が突如、日本古代史に登場する。
『日本書紀』によると、舒明3年(631年)3月、百済の義慈王の子・豊璋(ホウショウ)は人質として来日したのだという。大化の改新・蘇我入鹿暗殺の14年前のことである。
百済王族、藤原氏1 ~藤原氏とは何者か?~
百済の歴史(天皇家は百済の王族そのものでは?)
これほどの実力者、蘇我氏の歴史はなぜ消されたか?
>蘇我一族は実力に秀でており功績も偉大であった。天皇制維持すら危機的な状況であった事に、藤原不比等の政権維持と、一族継続の為に血縁関係にあった天皇家との関係は絶対的。その為に、蘇我一族の過去の功績を天皇家の功績に転換する事が狙いで『日本書紀』が編集された。その功績を虚構の聖徳太子と推古天皇に移す事が目的で歴史の改ざんが行われた。
藤原不比等は天皇との血縁関係で藤原家の権力継続の為に、「日本書紀」で天皇と聖徳太子の功績を捏造する
投稿者 tanog : 2016年07月28日 TweetList
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コメント
投稿者 根保孝栄・石塚邦男 : 2016年8月2日 13:13
日本列島の歴史は、大陸の興亡と密接に関係していた。
大陸で一国が亡びると、多くの難民が日本列島に逃げ込んできた。
そして、そこに新しい秩序が生まれた。
投稿者 根保孝栄・石塚邦男 : 2016年8月6日 08:40
鎌足は百済の亡命貴族?
歴史上に忽然と現れた怪人物である。
投稿者 根保孝栄・石塚邦男 : 2016年8月6日 12:30
高句麗系の蘇我氏、百済系の中臣の鎌足・・・鎌足の出自は不明。突如として現れたということは・・・