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2010年01月02日

日本人の可能性 ~市場社会が終焉しようとしている今、求められる日本人の共同性~

あけまして、おめでとうございます。
😀 くまなです。本年もよろしくお願いいたします。
本年は、日本人の可能性からはじめます。
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日本の文化がいま、海外からも見直されています。
いまだからこそ求められている、その可能性、特質とはなにか?
ますます混迷を深めていきそうな社会状況の中、年始にあたって考えてみました。
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8) 市場社会の終焉
貧困が消滅して40年、国の借金頼みの市場拡大にも限界が見え始めています。昨今は、市場が実体経済を混乱させ、大衆は市場の拡大が害悪=混乱の元凶であると捉えるところまで達しています。
市場の拡大は、自由で物的に豊かな社会を導いてきました。その原動力はお金や身分の確保を目的とする自我・私権拡大の可能性でした。しかし、それらはすでに輝きを失っています。そのことが市場社会を終焉に導く原動力となっています。
🙁 見つからない新たな統合軸
現在、市場社会の終焉の局面は、単に市場社会が終わるというだけではありません。曲がりなりにも社会を統合してきた原動力が衰弱しているにもかかわらず、新たな統合軸は見えてこない、という状況です。
これまで、市場社会は自我・私権の拡大を肯定し、これを正当化する個人主義に導かれてきました。それがいま限界→終焉を迎えようとしています。理解不能な事件や自殺者の増加がそれを物語っています。もはや個人主義に根ざした思想・文化が社会を救うことはないでしょう。
可能性=充足の基盤はどこにあるのか?
自我・私権社会は人類史500万年のうちのせいぜい1万年しかありません。それ以前に、500万年に亘る共認充足の社会がありました。その原動力は「集団性=共同性に基づく充足」です。

この日々生きる事さえ絶望的な状況の中で得られる共認充足は、人類にとっての唯一の生きる希望であり、唯一最大のエネルギー源でもあった(つまり生きる目的そのものであった)。

  人類の本性は共同性にある①

この様な状況下では自分勝手な振る舞いや仲間を否定する行為(自己中=自我)は、人類の命綱ともいえる共認充足を妨げ、集団の結束を破壊し、集団の存続を危うくする(ひいては個体の生存も危うくする)ため、徹底的に抑制・封印されてきた。つまり人類の本性は共認充足を中核とする共同性にあるともいえる。
そのように自我(や私権)を全面封鎖した共同体の中で500万年に亙ってこの人類の本性は形成されてきたのだ。

  人類の本性は共同性にある②
ただし、単純に昔に戻るということではありません。かつての集団性の背後には飢えの圧力が存在し、紐帯としての集団課題となっていました。それはすでにありません。そのような「課題」という意味では、新たな充足社会をつくっていくことが目下の課題です。それは決して容易ではありません。自我・私権を絶対視し、市場社会を信奉する人々の認識をひとつひとつ塗り替えていかなくてはなりません。その過程こそが、共認原理に基づく充足社会を実現していくことにほかなりません。
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😛 日本人の可能性
日本人の可能性は、人類の本源性である「共同性」をいまだ色濃く残しているところにあります。海外から注目されているのも、この時代状況に、潜在思念がその充足可能性を感じ取っているからでしょう。
日本はユーラシア大陸の東端という僻地にあって集団を根こそぎ解体するような侵略を受けていません。その結果、本源集団が温存され、本源性=共同性に根ざした文化が現在まで継承されてきました。

本源集団を破壊した私権文明が滅亡の危機を迎えた今日、東洋人の心の底に残る本源集団性・本源共認性は、人類再生の基盤を成すものとして極めて重要になる。中でも、島国ゆえに一七〇〇年前まで掠奪闘争に巻き込まれることなく原始文明を発展させてきた日本人の心の底に残る本源的な共認体質は、極めて貴重である。もし、人類に絶滅を免れ得る資質が残されているとしたら、それは東洋人、とりわけ日本人の心の底に残された、類い稀なる縄文人的精神基盤なのではないだろうか。

  私権文明を問い直す(東洋と西洋) 
😮 共同性を残す日本の文化
それを表しているのが以下の投稿に見られる日本人及び日本文化の特性です。
相手発の充足規範に貫かれた精神文化
「和」の精神(2)~自然と同化する~
日本の作法ってすごい! ~充足規範に貫かれている。
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近代市場以前に実現した充足都市・江戸
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市場主義の行き詰まりに日本人は江戸を想う
日本人は具体的な収束先を探索し始めた
江戸時代インデックス~江戸時代の人々の収束軸とは何か?~
これまで失ってきた充足の全てがあるムラという社会
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1■歴史観:日本の歴史は、稲作をめぐる関係の総体だ
2■日本のムラ(機能的村落共同体)のすごさ
3■家族・共同体とは、生産も消費も性も養育も担う安心・充足機能実現態。だから、潜在的な「帰農」を促す?!

外国人から見るとスゴイ日本人
幸福なる共同体を創る知恵(1)
幸福なる共同体を創る知恵(2)
幸福なる共同体を創る知恵(4)
イスラムは日本に彼らの理想を見る
偉人たちの日本に対する諫言
日本人特有の感性をはぐくむ日本語
自然音を左脳で聞く日本語の凄さ
共同性の差による日本と西洋の認識機能の違い
世界一の同化力と勤勉さが培った技術力
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「日本人はこんなに素晴らしかった」より~ゴローニンの見た日本人~
日本の技術を支える縄文精神
日本の技術力に驚く西洋人(1)
日本の技術力に驚く西洋人(2)
貧困が消滅し、市場社会が終焉しようとしている今だからこそ分かる日本人・日本文化の良さがあります。環境共生や健康に関する科学が進歩しつつ、その限界が見え始めたからこそ見える優れた文化があります。

私権原理にかわる、もう一つの原理=共認原理に基づいた社会を、私達の祖先は既に築き、成功体験を重ねてきた。この事実が何よりも、私達日本人の強み=実現基盤になる。

  共認原理に立てる、日本人の強さ
いま必要なのは、かつて日本人が守ってきた充足の基盤を現代に新たな形で蘇らせることでしょう。そのためには祖先たちの潜在思念に同化し、明確に言葉化することであり、科学的に明らかにしていくことです。そして、新しい充足社会の実現に向け、共認の輪を広げていくことです。それが市場社会の終焉という時代を生きる日本人の使命です。

投稿者 kumana : 2010年01月02日 List  

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コメント

今回もなるほど、と感じた部分を示します。
>特筆すべきは、比較的資料が充実している推古以後、特に皇太子制度が確立するまでの持統に至るまでの各大王、王位継承権保持者達は、よく仕事をしていたということです。
>更に最後に勝ち残った者ですら、即位に関しては各豪族間の同意を必用としたようです。最初から大王の地位を保証されていた人物など存在しなかった、というのがこの時点での王族の実態でした。この状態は、初代皇太子の文武まで続くことになります。
>権力基盤と体制の強化…そこに国を治める者の意識が集中していました。『治天下大王』の資質とは、そのような種類のものだったと見ることができます。ただ、これもまた私利私欲とは無関係に大切な観念でしょう。
>民衆には、当然『あきらめ』や『不満』はあったでしょう。やはりここは縄文から脈々と受け継がれていたパーソナリティーや、前回示した『場』の概念、自然(原始)信仰等が絡み合い、闘争への道を回避してきたようにわたしには思えてなりません。日々の暮らしが成り立てば、『ありがたい』と考えたのかも知れません。
一言で言えば、この時代の為政者も民衆も(現代と比べて)はるかに優れているいうことでしょうか?
これが正解という答えに行き着くまでの試行錯誤や調整や対話の類をかなりの頻度で重ねていたように思います。そしてそれらはひたすらmilkteaさんが仰る内部分裂にいたる肉弾戦を回避する為の試行錯誤だったように思います。
悪く言えば裏工作や根回しかもしれませんが、物事を万事とりまとめ進めるためには必要な作業の一つだったのでしょう。
また裏工作や根回しが決していやらしくないのは、その目的が私利私欲や己の為という部分に基づいていないというところにあったのだと思います。
Milkteaさんの言わんとしている事が数回を読み進める中で少しずつわかってきたように思います。次回も楽しみにしています。

投稿者 tano : 2010年3月22日 13:01

tanoさん
コメントありがとうございます。
例えば100人というのは、100の個性ということですよね。だから、いろいろな立場や考え方があり、この時代も我欲は当然あったでしょう。ただ、頭を使って考えて、優先順位を決めていると思います。
 >一言で言えば、この時代の為政者も民衆も(現代と比べて)はるかに優れているいうことでしょうか?
 そこは正直わかりません。情報に左右されるのが人なので、取得した、あるいは取得できる情報量に差がありすぎて…
 ただ何かと比較しなくても、優れていた、あるいはうまくやっていたとは、いえるかもしれませんね。バランスもとれていたと感じます。
 わたしのテーマは「天皇の存在意義」ですので、国家成立時期は丹念に見ていく必用があると思います。

投稿者 milktea : 2010年3月23日 10:47

milktea さん
>豪族層にしてみれば、「自分達は臣下に下ったのだから、きちんと仕事をしてもらわないと困る」
このあたりは、下からの圧力による国家運営の健全性を感じます。序列的な上位者からのアタマごなしの押し付け、押さえ込みではなく、本当にみんなに認められた人物が大王として君臨し、差配する姿を見て、集団をより団結し強力になったのではないか、と思います。
次回も、楽しみにしています。

投稿者 うらら : 2010年3月26日 09:29

うららさん
コメントありがとうございます
おっしゃるように、下からの圧力は健全な形で作用していたとわたしも思います。そして民衆もりこうだった…
奴隷身分もありました。ただ、西洋でイメージするようなものとは違って、生産者として配属されるカテゴリーが、豪族の直轄(家人のイメージ)だったということです。(発生当初はもっとひさんなものだったかと思いますが、国家成立にあわせて変化していたようです)
それぞれの立場、それぞれが取得可能な情報、思考の成熟度、それを考えると、受け入れてしまった私権文化をうまく調整したと思っています。
縄文のパーソナリティーは偉大だ~(´∀`★)+.゜

投稿者 milktea : 2010年3月26日 20:53

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

投稿者 履歴書の郵送 : 2012年6月8日 11:15

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