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2007年08月26日

東インド会社:インドや中国という古代的国家を収奪・解体した怪物会社

やや近代に深入りしていきます。インドや中国という古代文明的な国家が、欧米の商人勢力に安々と侵食され、植民地化されていった事実を探ってみたいと思います。
大英帝国の基礎を築いた海賊の続きです。
大英帝国は、イギリス女王お墨付きの海賊が、スペインの無敵艦隊などを追い払い、世界の海の制海権を握っていきます。
その後インドやアジア方面で、実際に交易を行っていったのは東インド会社などの商業会社でした。その今で言えば商社が、アジア方面の植民地化の端緒を開いていきます。
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まず東インド会社の目的としくみについて

1600年頃、世界で初めての株式会社が設立されました。それが『東インド会社』です。16世紀中頃のヨーロッパでは、アジアとの航海貿易がさかんに行われていました。しかし、大きな船や船員を用意するのに、たくさんのお金が必要でした。船が出港したあとも、悪天候により船が沈没することもありますし、海賊に襲われる場合もあります。そうした万が一の事態が起きた場合、大きな損害が出てしまうので、とても商人ひとりでは責任を負いきれません。そこで株式という仕組みが生まれたのです。
出資者たちからお金を集めて貿易を行い、儲けが出たら、資本を残して利益だけを出資者(=株主)たちに分配します。残った資本は次の貿易の費用に使われます。少しずつ資本の額を増やして、貿易の回数や量を増やし、事業をどんどん大きくしていきました。事業が大きくなれば、株主に分配できる利益もどんどん増えていきます。
株主は、出資額に応じて利益の分配(=配当)を受けることができます。また、万が一の場合の損害は、出資額の範囲内におさめることができます。こうして始まった株式会社のしくみは、現在の株式会社の仕組みと同じです。
ただし、政府から貿易上の独占権をもらい、対象地域での行政権や徴税権、それに軍事権まで持っていたので現在の「会社」という言葉から連想されるイメージとはかなり異なっているものだといえます。東インド会社は植民地支配の先鋒となり、途上国を次々と支配していくことになります。

世界初の株式会社「東インド会社」より)
当時まずオランダが先行して、オランダ東インド会社を設立。次いでイギリス、フランスが設立していった。同じような会社は、東インド会社だけではなく、南海会社、東方(オリエント)会社、などが各国で設立されていった。
この中で隆盛を極め競いあったのが、オランダ東インド会社とイギリス東インド会社です。中でもイギリス東インド会社がインド、中国へ浸透し、植民地支配の先鋒役となります。なので主にイギリス東インド会社について調べていきます。
>1599年一群のロンドン商人が結束して、資本金わずかに68万ポンドをもって、東インド会社を組織。エリザベス女王から「喜望峰よりマゼラン海峡に至る島々と、向こう15年間自由にかつ独占的に通商貿易を営むことを得る。」という特許状をあたえられ、翌1600年から直ちに活動を開始した。
>この小さい会社が、後にイギリスのために「王冠に輝く燦たる至宝」と讃えられるインドを征服し去ろうとは、当時何人も考ええなかったことであります。
  大川周明 「米英東亜侵略史」
1760年ころから、イギリスでは産業革命が始まり、工業化の時代を迎えますが、それに先立つ約100年間は、海外との貿易が急速に拡大して行った時代で、「商業革命」の時代とよばれたらしいです。

・東インド会社の輸入品は、香料・胡椒やキャラコ・絹といったものの他、コーヒーや茶等々と多様化していった。
・イギリスからの輸出の方は、毛織物、銅、明礬(みょうばん)等々があったが、ヨーロッパの品物はアジアでは売れず、この期間を通じて圧倒的に銀地金の持ち出しが中心であった。
・新大陸アメリカから流入した銀をアジアに持ち込んで、キャラコなどアジア商品を買い入れるというパターンが、17、18世紀のインド貿易の特徴であったといえる。

(参照:東インド会社 浅田實)
要するに当時ヨーロッパの製品はアジアの人々にとっては、魅力が薄く、輸出入でいえば、圧倒的にアジア側の輸出超過だったわけですね。しかしイギリスには新大陸アメリカから分捕ってきた銀があった。これを決済に使ったわけです。
しかしこれでは東インド会社はそこそこ儲かっても、イギリスは銀がでていくばかりで、これでは儲からない。ではどうしたのでしょうか?
 ・・・次回へつづく・・・・
(by Hiroshi 🙄 )

投稿者 ihiro : 2007年08月26日 List  

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コメント

>大型動物はオスの成獣が多く、メスや幼獣が見つかるケースは少ない。
これは縄文人自らが子孫繁栄を最大課題であった為、動物と自らを同一視していたのだと思います。
>自然≒動物は、彼らにとっては自分達が生かされている対象世界そのものであり、感謝の対象であった。この意識が根底にあるからこそ、種の保存を常に意識して狩猟に赴いたのだと思います
まったく同感です。

投稿者 m : 2007年9月15日 23:33

mさん
>動物と自らを同一視していたのだと思います。
なるほど。そこまで自然信仰が高かったんですよね。
この辺の意識は、現代人も学ぶべきところですね!^^

投稿者 さーね : 2007年9月16日 00:21

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