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2022年06月10日

弥生時代~銅鐸の謎~共同体社会の中で権力者が出現する時代

弥生時代の大きな追求課題 何故人類は、国家制度に従うようになったのか

http://web.joumon.jp.net/blog/2022/06/5159.html

弥生時代もまた各諸説,仮設があり、まだまだ未解明な部分が多い時代です。

今日は弥生時代に現れた「銅鐸」から、仮説をたててみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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参考にさせていただいたサイトは以下。

銅鐸の謎を探る

https://www.city.yasu.lg.jp/kosodate/bunka/bunka/1454413359758.html

1.銅鐸とは

銅鐸とは、弥生時代に青銅製の鋳物でつくられた、つり手=鈕(ちゅう)と振り子=舌(ぜつ)をそなえ、紋様を有するベルです。
(中略)
銅鐸が謎とされているのは、銅鐸が一般に当時(弥生時代)のムラや墓から出土することが極めて稀で、多くが小高い丘陵の斜面に、銅鐸だけで埋められているからです。

3.銅鐸の分類

(中略)外縁付鈕式の銅鐸流水紋(りゅうすいもん)が弥生時代中期初頭の土器流水紋を写し取ったもので、外縁付鈕式が弥生時代中期初頭にあたることを指摘しました。また銅鐸紋様はすべて弥生土器に共通する紋様であり、銅鐸が共同社会の祭器として用いられたと考えました。

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稲作が始まり、集団規模も大きくなり、共同体社会も祭祀で統合する時代になったと考えられます。銅鐸は概ね弥生中期(紀元前200年)から弥生後期(紀元後200年)の間で製作されたとされており、大陸の青銅技術が伝来したものです。よって、弥生初頭から中期までに大陸から渡来人がやってきた。一方、元いた縄文人の共同性から、しばらくは共同体社会が持続したのではないかと考えられます。
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5.銅鐸の絵

絵は、初期の銅鐸から認められますが、銅鐸全体からすると3割程に過ぎません。また、外縁付鈕式までの銅鐸に多く、扁平鈕式以降の大形銅鐸は絵が少なくて、画題も鳥とシカに限られています。絵として描かれる画題には、シカ、鳥、人物、スッポン、トンボ、カエル、イノシシ、トカゲ、魚、カマキリ、高床建物などがあり、稀にサル、舟、僻邪などがあります。作者が自由に描いたとすれば、様々な絵があって良いのですが、画題は限られシカと鳥が数多く描かれています。

(中略)

このことから銅鐸の絵には弱肉強食や農耕賛歌といった一連の物語がうたわれているとする解釈が有力です。人物は、弓矢をもつ狩人のほかに、盾と戈をもつ武人、脱穀(だっこく)をする人、ケンカの仲裁をする人、イチ字型工具をもつ人(魚とり)などがいます。先の一連の銅鐸では女性を三角頭、男性を丸頭で表現しています。鳥は祖先の霊(祖霊)や穀物の霊(穀霊)を招く神聖な動物だったと考えられます。
弥生時代のムラからは鳥形の木製品が出土することがあり、朝鮮半島では村の出入口にソッテという鳥竿(ちょうかん=鳥形木製品を取り付けた竿)を立て、祖霊を祀っています。シカは単独で描くほか、列で描かれるもの、背中に矢を負ったシカや大きな角をもつシカと狩人が一対で表現されたものなどがあります。鹿は最も利用価値のある狩の対象物として、また弥生人にとって豊穣を表す象徴だと考えられていたのかもしれません。

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銅鐸には、自然の様々な恵みや建物,人が描かれている。祖霊信仰のような信仰が芽生えていたということは、その後の氏族集団に繋がる集団が弥生時代に形成されていたと考えてよいでしょう。
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10.銅鐸祭祀の終焉

扁平鈕式までの銅鐸は主に畿内で製作され、近畿以西の地域に広がりましたが、弥生時代後期になると大和や摂津のほか、近江、尾張などの拠点集落からも土の鋳型が出土していることから、より広い範囲で銅鐸や青銅器生産が行われるようになります。銅鐸を鋳造する技術は、銅鐸にとどまらず剣や戈、鏃など幅広い武器や装飾品をつくることも可能です。このように畿内が管理掌握していた鋳造技術と製作技術者を周辺地域に放出した背景には、周辺地域との連合を早急に築かなければならない社会状況にあったこと、更に畿内が原料を掌握していたことなどが考えられます。また、近畿式銅鐸に限って破片で見つかるものがあります。また、野洲市大岩山1962年4号鐸は故意に双頭渦紋が裁断されています。
近畿式銅鐸の終焉には、故意に壊されて破棄されたものや、飾耳を裁断して銅鐸を否定するような行為が行われています。銅鐸が前世の共同体を象徴する祭器であり、新たに台頭した権力者にとっては、邪魔な異物となったのです。

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銅鐸が破壊されたということは、先に渡来した渡来人とは別の権力者が現れたと考えてよいと思います。概ね、弥生時代後期には、そのような集団間の緊張圧力が高まり、祖霊信仰から氏族を祖霊とする氏族集団が現れて争いが始まったと考えられます。

 

投稿者 sawane : 2022年06月10日 List  

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