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2017年12月31日

大和朝廷に先駆けて、一大国家を気づき挙げた古代出雲国

みなさんこんにちわ。

今年ももう終わろうとしています。去年は伊勢神宮と出雲大社の遷宮の年でにぎわいましたが、私も出雲地方の出身でして、来年も出雲大社を参拝しようとたくらんでいるところです。

そこで、今年の最後の記事として出雲についてふれてみようと思います。

 

出雲最大の謎は、オオクニヌシの天下統一までのプロセスについて、『古事記』では詳述されているのに、ヤマト公認の歴史書である『日本書紀』は一切触れられていないことです。

 ヤマト王権の支配の正統性を主張することが『日本書紀』の目的だったから、ヤマトよりも先に日本を統一した英雄が地方にいたことを、公式の歴史として盛り込みたくなかったためと考えられています。

『日本書紀』が必死に隠蔽工作を行った一方で、記紀以上に地元の「言い分」が盛り込まれている歴史書も残っています。  712年にできた『古事記』から約20年後の733年に完成した『出雲国風土記』です。この中でオオクニヌシは「天(あめ)の下つくりましし大神オホナモチ」と、天下統一をした神との称号を与えられています。

考古学的には、3~4世紀のヤマト王権よりも前に列島を統一した勢力があった証拠はありません。弥生時代の各地の有力な勢力はせいぜい今の県か市レベルの支配域しかもっていませんでした。

しかし出雲だけは例外で、ヤマトよりもはるかに早い1~2世紀頃、富山県を東端とする日本海沿岸のかなり広範囲に、ヒトデのような形をした「四隅突出型墳丘墓という出雲文化を広げていたことが考古学からわかっています。

実際、オオクニヌシが結婚した女性の出身地を見ると、西は玄界灘の孤島・沖ノ島の宗像大社沖津宮(おきつみや)にまつられるタギツ姫(福岡県)、東は新潟県のヌナカワ姫までと、考古学上で確認される出雲の勢力圏とかなり重なっています。

ヤマト王権は、前方後円墳という共通の形をした墓を広めることで全国支配を行ったことから「前方後円墳国家」と呼ぶ研究者もいるくらいです。  その先駆者である出雲、つまりオオクニヌシが『古事記』で「はじめて国を作った神」と紹介されたのは、こうした偉業があったからといえます。

オオクニヌシはまさしく日本初の「天下人」なのでした

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【なぜ出雲大社はあれほど大きいのか?】

旧暦10月、日本全国の神様たちはみんな「出雲」に集まると云われています。いわゆる、国々から神々がいなくなる「神無月(かんなづき)」です。

海蛇に導かれた日本中の八百万の神々は、旧暦10月10日、出雲(現・島根県)の国の「稲佐の浜」へとやって来ます。

日本中の神様がみんな集まって何を話し合うのかといえば、それは「縁結び」です。神々は人の名前が書かれた札を互いに見せ合い、その「縁」を結んでいきます。

文字通り、札と札とのヒモを結んでいく神々。結ぶのは男女の縁ばかりではなく、仕事の縁、農作物と天候の縁…と、一週間がかりの大仕事などもあります。

この時期、出雲の人々も神々には気を遣います。「お忌みさん」といって、この一週間ばかりは「静けさ」を保つことを心掛けるのだといいます。

たとえば、騒音を出す掃除機を使うのを控えたり、テレビの電源を抜いておいたり…。それもこれも、大事な神様がたの話し合いの邪魔にならぬようにとの気遣いです。

出雲大社が造営されたとされたのは、今から1,300年以上も昔の話です。現在のものは江戸時代(1744)に建てられたものす。

その本殿の高さは24m(8丈)という破格の大きさで、日本で「大社」の名を持つ神社は出雲大社のみということですが、その本殿は日本一の大きさであり、まさに大社であります。

言い伝えによれば、昔はもっと巨大だったらしいです。中古には48m(16丈)、上古には96m(32丈)もあったと云われています(ちなみに、大阪の通天閣は高さ100m)。

そのあまりの大きさはにわかには信じ難いですが、出雲大社の宮司の家に伝わる「金輪造営図」という大社の設計図には、そう書かれてあり、その信憑性はしばらく疑われていました。「そんな大昔に、そんな技術があるわけがない」と。

ところが平成12年、本殿前を工事していた際に思わぬものが出土しました。それは「金輪造営図」に記された通りの、直径1mの丸太を3本束ねて巨大な一本の柱としたものでした。次々と見つかる巨大な柱。その配置はまさに設計絵図そのままでした

9本の巨大な柱が支える高さ48m(16丈)の本殿(現在の倍)、そこに昇るための100mを超える階段。それほど巨大な社が古代出雲にはあったというのを考古学が証明したことになります。

【なぜ、出雲大社はそれほど巨大であったのか?】

それは、その祭神である「大国主神(おおくにぬし)」がそう望んだからである、と古事記は記しています。「わが住処を、太く深い柱で、千木(屋根の装飾)が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう(古事記)」 なぜ、大国主神は隠れていなくてはならないのか?

それは、大国主神が出雲の国を、アマテラスに譲ったからです。

アマテラスというのは言わば「天上の神」である。それに対して、大国主神は「土地の神」。出雲の豊かさに魅了されたアマテラスは、出雲の地を自分の子孫(天孫)に継がせたいと考え、出雲の主であった大国主神に国を譲らせたのです。

当然、出雲を守り続けていた大国主神の心中は穏やかならぬものもあったのでしょう。現に、大国主神の息子の一人は「国譲り」に猛反発して、アマテラスの使者と力比べをしたと神話は語っています。

アマテラスの使者・タケミカツチの神と力比べをした、大国主神の息子・建御名方神ですが、結局、大国主神の息子が敗れ、息子は遠く諏訪(長野県)まで落ち延びることとなります(これが諏訪神社の由来であり、出雲のほかに旧暦10月を「神在月」と称するのは、この諏訪地方のみです)。

神話の世界というのは寓話のようなものです。「国譲り」という平和な響きの裏には、明らかな対立の構図がありました。国譲りを迫った使者と、大国主神の息子の力比べが相撲という平和的なものであったかどうか…。出雲大社近くの遺跡からは358本もの銅剣も出土しています。

天上の神アマテラスは、現在の天皇家につながる大和朝廷です。一方の大国主神は有力な地方豪族。しかも、出雲の地には「たたら製鉄」がり、鉄よりも強い「鋼(はがね)」を造る高い技術を擁していたのです。

【八岐の大蛇とスサノオ】

出雲の地には現在、スサノオを祀る「須佐神社」というものもあります。スサノオというのは天上の神アマテラスの弟です。しかし、そのあまりの乱暴ぶりから天上界の問題児とされた神です。

その須佐神社には不思議なものが現代にまで大切に伝わっています。それは「八岐の大蛇(やまたのおろち)の骨」で、輪切りにされた背骨のようなその骨は、バスケットボールほどの直径があります。

高天原から追い出されたスサノオは、ふらふらと出雲の地を歩いていました。すると、斐伊川のほとりで涙にくれる老夫婦と出会います。その涙のわけを聞けば、八岐の大蛇という怪物が娘の「稲田姫」を食おうとしているというのです。その老夫婦には8人の娘がいたというのですが、毎年毎年、娘たちを一人ずつ食べてしまったといいます。そして、今年は稲田姫の番だというのです。

「稲田姫」の美しさに心を奪われたスサノオは、彼女との結婚を条件に八岐の大蛇退治を引き受けました。一計を案じたスサノオは、濃い酒を用意して大蛇を待ちます。そこに現れた大蛇、まんまと酒に酔って正体不明となりました。そこをすかさずスサノオは斬りつけました。

スサノオの剣は、大蛇の尻尾を切った時、その刃が欠けました。あとで不思議に思ってその尾を裂いてみると、尾の中からは立派な大刀が現れます。これが「天叢雲(あめのむらくも)の剣」。天皇家の三種の神器の一つとなるものでありました。

※天叢雲の剣は、姉のアマテラスへと献上され、のちに東征した大和武尊の窮地を救う「草薙(くさなぎ)の剣」となります。そして、源平合戦の最終戦・壇ノ浦で海中に没したとも云われています。

【大蛇という比喩】

さて、このスサノオによるヤマタノオロチ退治伝説には、さまざまな歴史が隠されています。

まず、スサノオの歩いていた斐伊川というのは、出雲のたたら製鉄を支えた「良質の砂鉄」を産した川です。スサノオの剣が欠けたというのは、出雲の剣がスサノオのそれよりも硬かったからなのかもしれません。

日本刀の原料ともなった出雲の玉鋼(たまはがね)は、砂鉄10トンからわずか1トンしか取れないという貴重なものであり、古代出雲で造られていた玉鋼ほどに純度を高めるのは、現在の技術をもってしても困難だと言われています。

古代出雲には、そうした高い技術をもつ集団がいたと考えられ、それが八岐の大蛇に重ねられていると考える人もいます。大蛇の腹が赤くただれていて、その血によって斐伊川が真っ赤に染まっていたというのは、鉄分を含んだ赤い水が斐伊川に流れていたからなのかもしれません。

また、大蛇は「洪水の化身」とも考えられ、毎年娘をさらうというのは毎年の氾濫を意味し、稲田姫というのは稲作の田んぼの象徴だとも言われています。たたら製鉄には「大量の木炭」を必要とするため、周辺の山々の木々が伐採され、その結果、洪水が起きやすくなっていたとも考えられています。

【他の神社と異なる本殿の向き】

出雲国造家とも言われる「千家(せんげ)家」が、その子孫であり代々出雲大社の宮司です。この家系は天皇家に次ぐ長い歴史を誇っており、現当主は千家尊祐(たかまさ)氏、天穂日命から数えて84代目です。

じつは出雲大社の本殿は普通の神社と御神座の位置が異なります。本殿に入った正面が壁で遮られているため、その壁の左側から回り込まないと、御神座にはたどり着けません。

そして、御神座の「向き」も普通の神社とは異なります。普通は南側を向いているものですが、出雲大社の御神座ばかりは「西側」を向いています。出雲大社の西は海。その向こうは神々が住むという常世の国。そこは国譲りの際に約束した、大国主神が取り仕切る世界なのです。

出雲の大国主神は一度、天上界の申し出(国譲り)をキッパリ断っています。そこで出されてきた条件が、巨大な出雲大社の造営であり、大国主神の冥界支配であったのです。

 【地方に残る歴史書・出雲国風土記】

ある一説 古代出雲が大和朝廷に従うようになった歴史には、どんなドラマがあったのでしょうか? 今に伝わる断片的な歴史や風習に、そのドラマは見え隠れしています。

出雲国風土記の大国主神は、こう言っています。「私が支配していた国は、天神の子たちに譲ろう。しかし八雲たつ出雲の国だけは、垣根のように青い山で取り囲み、自分が鎮座する」と。

出雲国風土記というのは、大和朝廷がつくった古事記や日本書紀とは異なり、出雲大社の宮司(千家家)が1,300年前に編んだものとされ、全国の風土記の中では唯一ほぼ完全な形で今に伝わるものです。

この書によれば、大国主神が支配していたのは出雲一国だけではなく、もっと広範な国土であったことを示唆しています。国譲りとして譲ったのは、出雲以外のほかの国々だったというのです。逆に譲らなかったのがお膝元の出雲だったというのです。

古事記と日本書紀という日本の正史は、正しい歴史を伝えていません。伝説として語られる逸話は、官軍に都合に合うように美化されています。

しかし、大和朝廷は日本全国に「風土記」という形で地方の歴史を公式に残せるような配慮を成しました。

それは、悲しい歴史を知る人たちへの優しさ だったのかもしれません。

投稿者 tanog : 2017年12月31日 List  

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